第19話 とても許し難い貴方
「お前、名前は?」
「教えない」
「おい」
「振り返るな」
ロシュラニオンの部屋の中。王子と付き人は背中合わせでベッドに座っている。
窓の外は薄暗く、雨粒は白い線となって大地に降り続いていた。
ロシュラニオンは種族の図鑑を一冊捲り、クラウンは割れた仮面を見下ろしている。
青い髪と青い左目、黒い眼帯をつけた右目と、正に素顔を晒している少女。
彼女をクラウンと呼んで良いか定かではないが、ロシュラニオンにとって少女はクラウンのままだった。
名前を問えば「無い」ではなく「教えない」と回答するクラウンを、ロシュラニオンは何度か振り返りかけてしまう。
その度にクラウンから肘鉄が飛び、ロシュラニオンの横腹に鈍く痛みを広げるのだ。
王子は何度か殴られた横腹を摩りつつ、種族の特性や名前を見つめていく。
クラウンは砕けた仮面を膝に乗せ、温室から運んできた未読の図鑑を開いてみた。そこには今まで見てきたような種族しか載っておらず、少女は息をつきたくなるのだが。
「それで、お前は何を探している」
ロシュラニオンは背中に体重をかけ、クラウンを前傾に倒してみる。
負けじと道化も背筋を伸ばし、二人はお互いに体重をかけあった。
「……記憶を奪う種族を、探してる」
「記憶を……?」
ロシュラニオンは体重をかけるのを止め、それでもクラウンは後ろに体を傾ける。
王子は前傾に上体を倒しながら、眉間に皺を寄せていた。
「詳しく話せ」
「……お前、自分が何で記憶喪失になったと思う」
ロシュラニオンの内心に波が立つ。
彼は一瞬口を
「イセルブルーの事件のせいだろ。心因性の記憶喪失だ。俺はその時まだ幼く、未熟だった。一人城内に取り残され、助けが来るまでの孤独に耐えきれず、恐怖を忘れる為に記憶は無くなったのだと」
額に手の甲を押し当てるロシュラニオン。王子は後ろに体重をかけ、腰と背筋が直角になる姿勢で止めた。
「違うよ」
クラウンはページを捲りながら呟いてしまう。
王子が信じてきたのは大人が教えた優しい嘘。怖いことが無いように、恐れるものを少しでも減らす為に。
それを今まで疑う余地がなかったロシュラニオンは、固く口を結んでいた。
「……君は記憶を奪われた」
嘘を壊すと言う行為がどう言った反応を生むか。
クラウンは幾つか予想しながら言葉を落とす。
彼女の手は、ページを捲る動作を止めていた。
「イセルブルーの事件が起こったから、君は記憶を無くしたわけじゃない」
少女の記憶の中で、冷え切った部屋と震える少年が浮かぶ。
彼と彼女はお互いの体温を確認して、安堵した一瞬が確かにあった。
それを壊した誰かがいる。
アスライトを殴り、ロシュラニオンに近づいた誰かがいる。
宝石と謳われる瞳を窓に向けた少女は、王子を見ることが出来なかった。
「君の記憶を奪う為に、イセルブルーの事件は起こったんだと思うよ」
クラウンは隠すことを止めた。ロシュラニオンが仮面を剥がしにかかった時から、もう隠すことは出来ないと気づいてしまったから。
部屋に落ちたのは、静寂。
雨は強くなる一方であり、クラウンは景色を見つめていた。
「……そうか」
ロシュラニオンの声は、クラウンが予想した以上に静かであった。
王子は道化に体重をかけ、少女は何も言わずに上体を倒していく。胡座をかいた足と上体の間に図鑑を挟み、クラウンは青い髪を視界に入れた。
青い後頭部に黒い毛先が当たる。
天井に視線を向けたロシュラニオンは、静かに図鑑を閉じていた。
「どうして俺の記憶だったんだ。まだ九歳のガキの記憶なんて、奪ったところで機密事項も何もないだろうに」
「そんなの私が知るわけないだろ」
クラウンは背中を後ろに起こし、ロシュラニオンは体を横に避ける。
ベッドに仰向けに倒れた道化は天井を見つめ、赤い瞳と視線があった事に驚いた。
「ぅお、馬鹿」
クラウンは反射的にロシュラニオンの目を塞ぐ。
ロシュラニオンはそれに驚きつつ、クラウンの手を退かすことはなかった。
「見たら頭が割れるぜ、王子様」
「……何故だろうな」
「知らねぇよ」
クラウンはベッドに散らばる青い髪を見て、息を吐く。それから体を起こし、再び王子の背中に
ロシュラニオンは律儀に目を伏せ続け、青い髪も瞳も見ないでいる。
二人は暫く図鑑を見つめ、先に口を開いたのはロシュラニオンであった。
「……おかしくないか」
「何が」
「犯人がこの城の敷地に入れたと言うことが」
ロシュラニオンの呟きにクラウンは黙る。
眉間に皺を寄せた王子は、考えを纏める為に喋っていた。
「そこまで強いものでは無いが、この城には許可されていない者は入れない
「……一部破られたとか」
「それなら門番がそう報告している筈だ」
ロシュラニオンは図鑑を閉じてベッドから下りる。振り返れない王子は扉に近づき、クラウンに聞いた。
「報告書を確認してくる。お前はどうする」
「……今、君の傍には立てない。一度テントに戻るよ」
クラウンは割ってしまった仮面を撫でる。頭に浮かぶのは、今まで考えようとしなかった仮定の話。
ロシュラニオンは振り返りそうになる自分を否めて、「そうか」とだけ返事をした。
そのまま王子は廊下を歩き、過去の報告書がある保管室に向かう。
クラウンは息を吐いて立ち上がり、図鑑と仮面を持って部屋を後にした。
「え……アス?」
部屋を出た先でクラウンが会ったのは、ランスノーク。
王女は目を丸くし、固まっているニアを置いてクラウンの元へと駆け出した。
疲れ切った顔をしている団員は王女を見て、礼をする前に抱き着かれる。図鑑を床に落として。目を丸くして。
「アスだ、アスライトだ……ッ、アスライトだぁ!」
新緑の瞳に涙の膜を張り、団員の肩を揺さぶるランスノーク。
クラウンは苦笑しながら右側しか残っていない仮面をつける。それは直ぐに、王女に剥ぎ取られてしまったが。
「うぅぅぅ」
「ランスノーク様、仮面、返して欲しいなぁ」
「その呼び方止めたら考えるわ」
「……スノー、仮面を返してー」
「嫌」
「酷い」
アスライトは苦笑したまま抱き締められる。王女の背中を叩いた団員は、図鑑を拾った執事の瞳に気がつくのだ。
「どうしたのですか、急に仮面を取るなんて……ロシュラニオン様と、何か?」
「仮面の中身が気になるお年頃なのさ。それだけ」
クラウンは笑い続け、ニアは深く聞かないでいる。
道化はランスノークの背中をあやすように叩き続け、不意に王女の体に緊張が走ったのに気づいていた。
「……クラウン」
道化が振り向いた先にいるのは、黒。
上から下まで黒い上着に身を包み、二つの銀の瞳を包帯で塞いでいる者。
ミールは王女と執事に一礼し、二人もそれに王宮流の礼で返していた。
「お久しぶりです、ランスノーク王女、ニア執事長」
「お久しぶりです、ミール副団長」
「お久しぶり。貴方が城を訪れてくださるなんて、いつぶりでしょうか」
顔を上げたランスノークに笑みはなく、凛と張り詰めた空気が流れ出す。
一歩引いた場所にいるニアの視線は咄嗟にクラウンに向かった。
道化も執事長を確認するが、両者共にランスノークを見つめるしか出来ずにいる。
ミールはランスノークを見下ろし、姿を見る目をゆっくり伏せた。仕方がないとでも言わんばかりの態度で。
「八年ぶりです。私のような者に、城へ参上する任は早々回ってきませんので」
「あら、でしたら今日はそれ相応のご用事があると言う事でしょうか」
ミールは今にも深いため息を吐きそうだ。
クラウンは背中に冷や汗をかき、ニアを静かに小突いてしまう。執事長は軽く咳払いするが、ランスノークの空気が変わることは無かった。
新緑の瞳が、凍てついている。
銀の瞳は感情を読ませることなく道化に向いた。
「来なさい、クラウン。話がある」
「はい、副団長」
「あら、私はこれからアスライトとお茶をする算段ですのに」
歩き出そうとしたクラウンにランスノークは腕を回す。
クラウンの肌は青白くなり、ミールは等々ため息をついた。
「王女よ、そこにいるのはクラウンです。アスライトではない」
「いいえ、この子はアスライトよ。貴方達が何と言おうとも、クラウンであると同時にアスライトなの」
ミールの瞳が細められ、ランスノークの腕には力が入る。
クラウンは両側から受ける極寒の空気に鳥肌をたて、口の端が痙攣していた。
青い左目は必死になって副団長を見つめている。
(頼むから、頼むから神経逆撫でするようなことは言わないで。大人の、大人の対応を……ッ)
そんなクラウンの願い虚しく、ミールは二本の右腕を腰に当てた。
心底呆れたと銀の瞳が言っている。
「アスライトは死んだ」
その一言。
ただ一言で、王女の理性は焼き切れた。
奥歯を噛み締め肩を怒らせ、クラウンのホルスターからクラブを引き抜く。
ハイヒールで床を踏み締めた王女はクラブを振り抜き、廊下に甲高い音が響いた。
ミールが受けた訳では無い。
間に入るのは道化と執事長。
クラウンはクラブで、ニアは右前腕部でランスノークの殴打を止めている
「ランスノーク様。裾が乱れておりますよ。王女ならば優雅に冷静に、思慮深い姿勢を」
「退きなさいニア・サンライト。その者は、私の友を止めなかった愚か者。正しき言葉も吐けぬなら、不要な嘴を砕くまで」
「スノー、違うよ、愚か者はミール副団長じゃない」
クラウンの青い瞳が、ランスノークの新緑の瞳を射抜いている。
王女は奥歯を噛み締めると、泣き出しそうに顔を歪めたのだ。
「いいえ、アスライト。貴方は誰よりも勇敢で、誰よりも優しかった」
「アスライトを讃えないで。そんな価値ない。アスライトは傲慢で、愚かな奴だよ」
「違う、違うわ、愚か者は私達。貴方だけに全てを背負わせた、私達ッ」
ランスノークは体を引き、ドレスの裾を翻す。
足首に巻いたホルスターを見たクラウンは、驚きに笑ってしまうのだ。
「優雅に冷静に、思慮深い……?」
クラウンの目が見るのは、ランスノークが握ったナイフ。細い彼女の手が握るそれは酷く鋭利で、丁寧に手入れされているのが見て取れる。
ランスノークはナイフを構え、感情が
「退いてアスライト。私、その団員だけは許せないの」
「ならばどうか、クラウンを刺してから進んでくれるかな」
クラウンは微笑む。目元を和らげた、幼さが残る顔で。
ランスノークの肩が揺れる。
王女は唇を結び、ミールに視線を投げた。
副団長は凪いだ瞳で王女を見下ろしている。
刺したいならば刺せばいいとでも言わんばかりの目に、ランスノークは感情を飲み込んだ。
彼女は暫し黙ると、自分を落ち着かせる為に息を吐く。
自分が投げていた道化の仮面を拾い、脱力気味に持ち主に渡しながら。
「……駄目ね、本当に。はしたない」
ランスノークはナイフを回し、クラブも道化に返している。
肩から力を抜いたクラウンは、ニアと視線を合わせておいた。
「ニア、クラウン、ごめんなさい。部屋でお茶の準備をしているから、良かったら後で来てちょうだい」
ランスノークは流し目で道化と執事長に言葉を送り、踵を返す。
背筋を伸ばした王女の手の中では器用にナイフが回されていた。
「申し訳ない、ミール副団長」
「いいえ、私も大人気なかった」
ニアとミールは頭を下げあい、クラウンはクラブを仕舞っている。半分だけの仮面をつけながら。
覗く青い瞳はニアを確認していた。
「ニア、その右腕さぁ」
「あぁ……そうですよ」
微笑むニアは右の袖を上げる。
彼の前腕部はクラウンの右肩と同じように凍りつき、ニアは軽く叩いて見せた。
「足は今の所役立っていませんが、この腕は良いですよ。王女の
「前腕なら動かすのに支障ないもんね」
「えぇ」
ニアは柔らかく笑い、右足を軽く引きながら歩き去る。お茶に合う菓子を見繕って王女の部屋に行く為に。
「クラウン、貴方はどうします?」
「お誘いされたからね、行くよ。少しならいいよね? 副団長」
「……あぁ」
道化は執事に答えて軽く手を振っている。
副団長は目を伏せ、フードを軽く引いていた。
ニアが廊下の角を曲がった姿を見届けたクラウンは、酷く脱力してしまう。
「副団長、言葉選び。いーっつも団長が言ってるじゃんッ」
「先程はあぁ言わざるを得ないだろう」
クラウンの口から深いため息が漏れる。ミールと遠慮と言うのは対義語に近いと知っているクラウンは、軽く副団長を小突いたのだ。
「何の用で来たかは知らないけど、スノーとお茶してからテントで聞くから」
「……仕方ない。暗器の心得がある王女の反感をこれ以上買いたくはないからな」
「……びっくりしたよねぇ」
クラウンは遠くを見つめながら半笑いを浮かべる。
ロシュラニオンの稽古を時々覗いていた王女を思い出しながら。
「教えたのはお前達か」
「いや、どうせ独学だろうよ。あの子はとっても聡明で、勉強家だから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます