第18話 対等にはなれない
不意に。
目を覚ましたロシュラニオンは、自分が置かれている状況が分からなかった。
そこは彼の私室。ベッドに寝かされ、雨音だけが部屋の中を満たしている。
雨雲のせいで薄暗い室内に電気は点けられていない。
赤い瞳は部屋の中を確認し、一人だけいた者に息を吐いたのだ。
「……クラウン」
「やっほーロシュラニオン様! 目ぇ覚めたねー! 水でも飲むかい?」
陽気に元気に溌剌と。
仮面をつけて、黒い髪を揺らすクラウン。
ロシュラニオンは体を起こし、コップに水を注いだ付き人の背中を見ていた。
「クラウン、お前、」
「ロシュラニオン様。今、君は幸せかい?」
ロシュラニオンの言葉を遮り、クラウンは聞く。何の脈略も無く、唐突に。
仮面の者の声は嫌に穏やかだ。
「……何が言いたい」
立ち上がったロシュラニオンは少しだけ立ちくらみを覚える。その時感じた弱さは幼少期に抱えていた苛立ちと似ており、王子は動きを止めたのだ。
「むかーしむかしに言っただろ。俺は、お前を幸せにする為に来たんだよって」
振り向いたクラウンの手の中で、コップに入った水が揺れる。外はまだ雨が降り続いており、ロシュラニオンは頭の鈍痛に
クラウンはその様子を見て深い呼吸を繰り返す。
「君が幸せにならなきゃ、道化がいる意味が無い」
「何故そうまでして俺の幸せを望む」
ロシュラニオンは額を押さえてベッドに座り直す。気絶する前の記憶がボヤけた彼は、目の裏に残った青に閉塞感を抱くのだ。
「それが俺の存在意義だもん」
クラウンはロシュラニオンの前に立ち、コップを差し出す。王子はそれを受け取るが、口に運ぶような気分ではなかった。
「……クラウン、お前が何を望み、何を考えるのか、俺には分からない」
「だーかーらー、ずーっと言ってんじゃん。君の幸せを望んで、君の幸せを考えてるって」
「幸せとはなんだ。どう定義付ける」
「定義はそれぞれによって違うさ。その為の幸せ計画表だろう?」
クラウンは軽い足取りでロシュラニオンの机に近づき、引き出しの中から「幸せ計画表」を引っ張り出す。幼い字が並んだ表の横には赤い丸印がつけられていた。
「お前は強くなった。総騎士団長にもなった。立派な王子には今なり中かな?」
「……おい」
「取り敢えず表に書いていた項目は八割達成ってとこだね。いや、九割かな? 目指せ十割!」
「聞け」
「でも、これでもまだ君が幸せじゃないって言うなら項目を足さなきゃなー。次は何を書こうか。八年ぶりの過筆だよ!」
「クラウン」
道化は王子に背を向け続ける。黒い髪で仮面を隠し、机に広げた表を撫でて。
ロシュラニオンは足に力を込めて立ち上がり、口を付けなかったコップをサイドテーブルに置いた。
「お前、何を知っている」
「質問の意味が分からないな」
「どうして、俺はお前を見て倒れたんだ」
クラウンの口が閉じられる。それまで流れていた言葉は止まり、振り返った体は努めて脱力させられた。
「王子様が倒れる理由? そんなの……こっちが聞きたいね」
道化はゆっくりと拳を握っていく。ロシュラニオンはその動作を見つめ、クラウンの仮面に手を伸ばしていた。
それに反応したクラウンは仮面を押さえ、ロシュラニオンはそれを剥ごうとする。
お互いが奥歯を噛み締めた音を聞き、道化の膝蹴りが王子の鳩尾に叩き込まれた。
ロシュラニオンの肺から空気が漏れる。それでも彼が手を離すことはなく、変わりと言わんばかりにクラウンに頭突きをお見舞した。
固いものが砕ける音がする。
白い仮面に亀裂が入る。
王子の額も切れており、道化師は叫ぶのだ。
「ロシュラニオン!!」
「見せろ、クラウン」
「ぃ、やだッ!!」
クラウンの手は勢いよく王子を払い除け、それでもロシュラニオンは直ぐに道化を掴んで見せる。
何かに脅え、何かを隠し、何処かへ行こうとする道化師を手放さないように。
それは彼の
引き返せないと知っている、子どもの我儘だ。
「クラウン!!」
「何も話さない、何も語れないッ、もう聞くな、暴くな、近寄るなよ!!」
「そうやって、お前は一人で全部抱える気か!!」
ロシュラニオンの声が大きく響く。クラウンは体を固め、仮面の額から破片が零れ落ちた。
隙間から覗く青い髪がある。ロシュラニオンの額に痛みが広がったが、その痛みを王子は無視した。無視してみせた。
「な、に、」
「俺が他者の感情に疎いと思うか」
ロシュラニオンの赤い瞳が付き人を射抜いている。
「俺が、他者の起伏も分からない未熟者だと思うか」
その手はクラウンを離さない。
白紙の感情に優しさを塗られてきた王子は、他者をよく見て、よく感じる子どもだ。
「俺が、お前を見ていなかったと思うか」
クラウンはいつも傍で王子を見続けた。
ならばその逆もあるだろう。
ロシュラニオンはクラウンの腕を握り締め、赤い瞳は青い毛先から逸らさないのだ。
「好きな奴の悩みを聞いてやれない、弱い奴だと思うかッ」
「ッ、あぁ弱いよ、お前は弱い!」
クラウンはロシュラニオンの胸倉を掴み、ベッドに向かって投げ飛ばす。
王子は道化の腕を離さないまま足が浮き、二人はベッドに倒れ込んだ。
クラウンはロシュラニオンに乗り上げると、仮面のひびに指を入れ、その亀裂を広げていく。
白い破片が落ちる。
青い髪が覗いていく。
それにロシュラニオンの額は酷く痛み続けていた。
「俺の顔一つ、まともに見られないお前が、強いわけないだろッ」
クラウンの叫びが漏れていく。
秘め続けてきた思いが、感情が、仮面に亀裂が入るごとに溢れてしまう。
「お前は、この青い髪も」
クラウンの指が亀裂を増やす。
「この、青い目もッ」
左目の白が崩れ、瞳が現れる。
「私と言う存在をッ! 見られないじゃないか!!」
白い道化の仮面が割れる。
仮面の左側が砕けて現れたのは、白い肌と、宝石の青い左目。
カツラは白い面の頭頂部と繋がっており、黒い髪と青い髪が混ざると言うアンバランスが起こっている。
それを気にせず息を荒げた、泣いている少女。
彼女の右の顔には白い仮面が残っている。弧を描いた口元に、笑っている目がそこにある。
ロシュラニオンの目が充血する。痛みは彼の頭の血管を収縮させ、脂汗を再び滲ませるのだ。
それでも彼は意識を飛ばしはしない。
飛ばしてなるものかと口内の頬肉を噛み切り、繊細な痛みで頭の痛みを上書きした。
「ッ、いいや、見てやる、耐えてやるッ、だから仮面を外せ!」
「まだ、言うかッ」
右側だけ残った仮面を掻き毟り、クラウンは呼吸を浅くする。
感情はクラウンの体を震えさせる。
感情は少女の中で暴れ回る。
感情はアスライトの左腕を固く握らせる。
その拳が振り上げられたかと思うと、次にはロシュラニオンの顔を殴り飛ばしたから。
王子の口から血が飛んだ。自分で傷つけた口内からだけではなく、歯茎も切れ、頬は赤く熱を帯びる。
「分からず屋の、弱虫がッ!!」
クラウンはロシュラニオンの胸倉を掴み、口の端から血を流す王子を凝視する。額も切れている王子の肌には赤が流れ、少女の心臓は今にも破裂してしまいそうだ。
彼女の青い瞳は濡れており、揺るがない赤い瞳を見つめている。
「お前は、知らないだろッ、知らなくていいだろッ! 怖い思いもしなくていいのに、痛い思いも今まで十分してきたのに!! 総騎士団長だとか強さだとか、立派だとか!! お前が言う幸せを求めて傍にいたのにッ! 私の仮面を剥いだって、君は幸せになんてなれねぇのに……ッ」
クラウンの肩が震えている。
アスライトの呼吸が荒くなる。
ロシュラニオンは自分の襟を掴んでいる付き人を、黙って見つめていた。
「違う、違う、違う、こんなこと、言いたいんじゃなぃ」
両手で仮面と顔を覆った付き人。彼女は覚束ない足取りでロシュラニオンから離れ、その腰に王子は腕を回して止めた。
付き人の足から力が抜け、ロシュラニオンの膝に座り込む。
王子の腕は付き人の背中に回り、静かに少女を――抱き締めた。
付き人はロシュラニオンの肩口に顔を埋めて、泣いている。必死に奥歯を噛み締めて、嗚咽を零さないように努力して。それでも、流れる涙だけは止められない。
「君の幸せに、私は、いらないのに……」
付き人の手が王子の服を掴みかけ、押し留められる。
ロシュラニオンはそれに気づきながら、抱き締める力を強めていた。
「お前が決めるな」
付き人の肩が震える。
王子は頭の痛みに意識を奪われそうになりながら、それでも少女を離さないでいた。
「俺の幸せを、お前が、決めるな」
ロシュラニオンは少女の肩口に顔を埋める。道化の衣装を、額から滲んだ血で汚しながら。
雨音が響く室内で、二人はただ、お互いの体温を感じている。
手が届く距離にいる。抱き締められる距離にいる。それでもどうして、想いはすれ違うばかりして。
「お前がいなくて、俺の幸せが成り立つなど、二度と考えるな」
ロシュラニオンは歯ぎしりする。
顔を上げた彼は、王子としてではなく、一人の少年として言葉を吐くのだ。
「俺にはお前がいる。一人で強くなれはしない。一人では総騎士団長など務まらない。一人で立派な王子になど、なれはしない」
それは確かな弱さだと、ロシュラニオンは分かっている。
酷い依存だと自覚している。
自分の幸せばかりを考え、与えられ、クラウンの幸せを彼は聞いて来なかったのだから。
だから彼は自分が嫌いなのだ。自分の事ばかり、記憶が無いと嘆いて怖がり、クラウンの腕を離せなくなった少年のまま進んできた自分が。
だから彼は知ることを望んだ。
知らないことがあると言う事実から目を逸らすことを止めた。
想ってしまった付き人の幸せを探す為に、歯車を動かすと決めたのだ。
「クラウン、お前の幸せを教えろ――それが俺の、幸せになる」
少年の掌が固くなる過程を見てきた。寝る間も惜しんで勉強する背中を見てきた。何度も怪我をし、血を流す王子を見つめてきた。
クラウンの手が震える。その手はゆっくりと上がり、王子の手には力が籠る。
――ミール副団長……友達の定義は、何だと思う?
いつか幼い少女が零した疑問。その回答はあやふやだった。
――さてね。君が友達だと感じてしまえば、友達だろう
不確定で、不明瞭。
そんなあやふやな誓いで、あやふやな心で、少女は友達を「対等」であると定義づけた。
ならば今の関係はどうだろう。
少年と少女は対等か。
傍に立ち続け、お互いしか想わず、お互いの事しか考えず、自分を蔑ろにする彼らは、対等か。
「……アスライト」
サーカスのテントの自室で、ミール・ヴェールは顔を上げる。
雨が降りしきる中、城の方へと視線を向けて。
「副団長?」
ミールの向かいに座っているのはロマキッソ・ロンリー。玉乗りは肩にタオルをかけ、脱力した副団長を見つめていた。
「……これだから、子どもは嫌いなんだ」
ミールは呆れたように二本の腕を組む。向かいに座っているロマキッソは不安そうに両耳を握り、三本目の黒い手に頭を撫でられていた。
「アスライトに、何か?」
「掠ったが、飛び越えた」
ミールの言葉にロマキッソは疑問符を飛ばす。副団長は息を吐き、銀の瞳を細めていた。
――お願いします、ミール副団長
泣いていた少女を副団長は知っている。彼だけが知っている。自分のせいだと叫び、自分を殺し、ただ一人の幸せだけを願った子どもを知っている。
「……結局は私も、甘かったと言うことか」
ミールの銀の瞳をロマキッソを見つめている。白い少年も城の方を向き、耳から両手を離していた。
――アスライトの泣き声が、ロシュラニオンにだけ聞こえている。
耳元で咽び泣く少女の背を、少年は穏やかに撫でていた。酷く震える肩に顔を寄せ、いつか付き人が、自分の元から走り去ってしまわないように。
二人の関係を「友達」だと言う者はいない。誰一人として、二人の関係を「友達」などには収めない。
少女と少年は対等ではない。
方や右目を捧げ、時間を捧げ、相手の幸せしか願わない愚かな少女。
方や己を嫌悪し、一人に依存し、幸福の為に真実を望む傲慢な少年。
この二人が対等である筈が無い。
二人の感情が「友達」に収まる筈が無い。
少年は少女を抱き締める。強く、強く、何処にも行かせない為に。
少女は少年の裾を握る。弱く、弱く、自分の弱さを嫌悪して。
剥がされた歯車は回り始める。
二人の間だけではなく、周りの歯車すらも巻き込んで。
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