手を握り締めた頃

第17話 溶けた歯車を動かせば

 

 その日は珍しく、レットモルに雨が降っていた。


 地面を打ち付ける雨粒は大地に吸収され、木々を潤す源と化していく。


 空を一瞥したクラウンは、城の温室で他種族に関する資料を読み漁っていた。


「記憶を奪う奴……あー、くそッ」


 求める情報がなかった本を隣に重ね、別の本を開く道化。その動作は慣れたもので、座り込んでいるクラウンの周りは本の山だ。


 イセルブルーの事件があった日、城の書庫も影響を受けた。現在の蔵書量は昔程まではいかないが、周辺諸国やサーカス団とは比べものにならない量となっている。


 だからクラウンは時間を見つけては書庫に入った。黙って調べて、黙って思考する為に。


 その道化師の行動に薄々気づいていたロシュラニオンは遂に今日、痺れを切らせて問い詰めた。それは数十分前のことだ。


 ――何を調べている、クラウン


 ――やっだ野暮なこと聞かないでよ王子様!


 ――茶化すな


 ――企業秘密でーす


 ――俺も行く


 ――断固拒否する!!


 そんな押し問答の結果、クラウンはロシュラニオンから逃亡した。勢いよく城内を駆け、素早く書庫から山ほど本を抱え、王子が近寄らなくなった温室に避難したのだ。


 今頃ロシュラニオンは城中を探しているだろうが、今日はリオリスもやって来る事になっている。だからクラウンは思うのだ。


(リオも多少は、時間を作ってくれるだろう)


 特に根拠のない思考だが、道化にとっては少しの時間も惜しいもの。だから深く考えることはこの際やめていた。


「記憶、記憶を奪う奴、消す奴、呪い……」


 クラウンは左目で文字を隅から隅まで追い、ロシュラニオンの記憶を奪った種族を特定しようとする。


 八年間、くすぶり続ける感情のままに。煮えた感情が冷めない為に。


 道化師は進めていないのだ。


 ロシュラニオンを目覚めさせた、あの日から。


「あー、見つからねぇ」


 クラウンは硝子に背中を預けて息を吐く。


 ふと外を見れば、雨粒に混ざった白い傘を見つけていた。


「……ロマ?」


 挙動不審に周囲を見回しているロマキッソが、城の庭にいる。


 全身を覆う白い合羽かっぱと白い長靴、白い傘。全身真っ白な彼は、赤い瞳でクラウンを見つけた。


 震えながら目を見開き、窓越しに駆け寄ったロマキッソ。彼は入れる場所を探し、クラウンは庭に繋がる扉を開けていた。


「ロマ! びっくりしたー!」


「あ、く、クラウン」


「取り敢えず入りなよ、濡れるし!」


 頷いたロマキッソは傘を畳んで温室に入る。扉を閉めたクラウンは、滴る水を広げないよう心掛ける団員に苦笑した。


 レットモルの城には許可された者しか入れないまじないがかけられている。


 その為、こうして庭まで来られたロマキッソを温室に入れるのはクラウンにも許可されていることなのだ。


 ならば城の門番は何から城を守っているのかと不思議にはなるが、そこは念の入れ処。城にかけたまじないを力づくで攻略された時の番人だ。


 今の所、門番の報告書には〈本日も異常なし〉ばかりなのであるが。


「それで、どうしたの? ロマが城に来るんて珍しい」


 クラウンはロマキッソの髪の水気を払ってやる。白い彼は口をつぐむと、揺れる睫毛を伏せていた。


「ぁ、あのね、僕、その……ぁの……」


 ロマキッソの頬を雨雫が伝っていく。クラウンはその様子を見つめ、傘を握り締めた玉乗りの言葉を待っていた。


「く、クラウンに、言わなきゃいけない、ことが、あって」


 ロマキッソの肩が震えている。


 クラウンはそれを茶化さない。


 道化は他者を笑わせる。しかしそれは、相手の感情を笑いに昇華しても良いと判断してからだ。


 それはベレスの教えであり、ガラも全団員に言い聞かせていることである。


 ――他者を笑わせることは良い事だ。それは笑顔の伝染で、楽しい感情の伝心だからな。だが、誰か一人でも悲しいや寂しい感覚にさせる笑いは絶対させるな。それは嘲笑ちょうしょうであり、相手の心に傷をつける


 ロマキッソがいつも震えているのは種族柄の特性である。本人もそれを通して「可愛い」などと褒められることは特に毛嫌いしていない。自分の特性を「弱い」と見ず、癒されてくれるのならば嬉しいとさえ感じている事だ。それは団員の誰もが周知している。


 しかし、今は別だ。


 今のロマキッソが起こしている震えは、相反する感情がせめぎ合った結果のもの。


 だからクラウンは笑わない。先を促さない。ただ雨音を聞いて、ここまでどんな思いで団員が来たかだけを考えていた。


「僕、ほんとはッ」


「あ、クラウンいた」


 ロマキッソが顔を上げた瞬間、城内に通じる扉が開かれる。


 弾かれる勢いで道化と玉乗りが視線を向ければ、扉を押さえて微笑むリオリスと、眉間に皺を寄せたロシュラニオンがいたのだ。


「ごめんロシュラニオン様、リオリス、今取り込み中」


 クラウンは掌を見せて二人を静止する。


 その声色にリオリスも笑うのを止め、ロシュラニオンも道化の空気がいつもと違うことを察していた。


 クラウンはロマキッソに視線を戻す。


 出鼻を挫かれた玉乗りの肩は酷く震え、長い耳は垂れ、赤い瞳は床に向かっていた。


「ロマ、大丈夫、聞くか、」


「や、やっぱり、また、今度でいい」


 ロマキッソは勢いよく扉を開け、傘を広げないまま庭を駆けていく。クラウンは慌てて追いかけようとしたが、リオリスがその手首を掴んでいた。


「リオ」


「クラウン、何を話してたかは知らないけど……追って、ロマは傷つかない?」


 黄金色の瞳は、静かに道化に確認する。


 クラウンは何度か深呼吸を繰り返すと、ロマキッソが走り去った方向を見た。そこにもう、白はない。


「……また、日を改めるよ」


 渋々とクラウンは扉を閉める。


 リオリスは道化の手を離し、ロシュラニオンを振り返った。


 王子は黙って団員達の行動を見つめている。眉間に皺を寄せたまま。


 リオリスは一礼し、城内へと下がって行った。


 扉は閉められ、温室にはロシュラニオンとクラウンだけが残されたのだ。


「……何を調べている、クラウン」


「嫌だー、言ーえない!!」


 おどけたクラウンの腕を引き寄せて、仮面を覗きこんだロシュラニオン。


 瞳を覗かれると気付いた道化師は勢いよく王子を突き飛ばしていた。


 その腕力にロシュラニオンは押し負け、クラウンは後方へ距離をとる。


 仮面を押さえた道化師の心臓は焦りを覚え、王子は腕の痛みを無視していた。


「クラウ、」


「見てないよな」


 クラウンはロシュラニオンの言葉を遮って確認する。


 王子は道化師に視線を向けたが、全てを隠す付き人の感情が読める筈もなかった。


「見て、ないよな」


 クラウンは同じ質問を繰り返す。


 頭の中には幼い日のロシュラニオンの悲鳴が反響し、道化師の背中を冷や汗が伝っていた。


「……お前の目なら、見ていない」


 ロシュラニオンは努めて平坦に答えておく。


 それにクラウンは肩の力を抜き、よろけた体を窓にもたれさせていた。


「なら、」


「よくない」


 次に言葉を遮ったのはロシュラニオンだ。


 クラウンは肩を揺らして硬直する。それを敏感にも感じたロシュラニオンは、クラウンの前に近づいた。


「クラウン、記憶に関する種族についてお前が調べてどうする」


「……何のことかな」


「リオリスから聞いている。もう隠すな」


 ロシュラニオンの顔がしかめられる。クラウンは奥歯を噛み、諦めたように両手を振った。


 王子は道化の右手を掴む。握り返されない手を。


「お前はいつもそうだ。隠して、本心なんて見せない」


 ロシュラニオンはクラウンの右腕を勢いよく上げる。


 対応しきれなかったクラウンの肩には激痛が走り、呻き声が漏れた。その方向には上がらないのだから。


「この右肩、原因はイセルブルーの事件か」


「ッ、だったら、なんだよ」


 王子は腕を離し、道化師は反射的に右肩を押さえてしまう。


 ロシュラニオンは付き人の手と一緒に上がらない右肩を押さえた。まるで、壊れ物に触れるような優しさで。


「お前は八年前からサーカス団にいたな。そして、イセルブルーから城の者を避難させる動きに参加した」


「そりゃそうだろ、俺がお前の付き人になったのはいつだ? 八年前だろ。加入して浅い奴に王子の付き人させるほど王様達は甘くない。それに、サーカス団員ならレットモルの危機には奔走するさ」


「そうだな。お前は八年よりも前からサーカス団にいた。だが、


 そこで、クラウンは息を詰めてしまう。


 道化師は自分について、何も語らず今日まで来た。何がきっかけでロシュラニオンを苦しめるかが分からなかったからだ。


 自分の髪と瞳だけでなく、昔話で引き金を引いてしまうことが酷く恐ろしかった。


 何より、クラウンは仮面をつけた日から始まった。語ることが出来る過去が道化にはないのだ。


 ロシュラニオンは、クラウンの肩と左手を押さえ続けた。


「それまでの道化師はベレス・サーパンタインだけだった。お前は道化師だったから俺の付き人を任されたのではない、俺の付き人になる為に道化師になったんだ」


「誰が、それをッ」


「ロマキッソ・ロンリーとピクナル・ドールだ」


 クラウンは仮面の下で歯ぎしりする。


 頭に浮かんだロマキッソとピクナルは、未だにクラウンの存在を承諾しかねている存在だ。


 だが、二人がロシュラニオンに会っていた記憶がクラウンにはない。ならば話したのはリオリスが付いている時だ。


 リオリスとクラウンは出来る限り情報を共有している。しかし、ロマキッソとピクナルのことは教えられていない。


 故意にリオリスが黙っていたとクラウンは気づき、体が震えてしまった。


 ロシュラニオンとクラウンの間で、いびつに溶け合っていた歯車が動こうとする。


 クラウンはそれに耐えられず、初めてロシュラニオンからの言葉を恐ろしいと感じていた。


(お願い、お願いだから、これ以上聞かないで、聞かないで、何も教えられない、教えたくない、嫌だ、嫌だ、嫌だッ)


 ロシュラニオンは、震えたクラウンの肩に気がつく。


 それでも王子は言葉を吐くことを止めようとは思わなかった。


「クラウン、お前は誰だ」


「私は、クラウンだ。それ以上でもそれ以下でもない」


「種族は」


「言えない」


「黒髪の種族にお前のような力を持つ者はいないだろ。その髪色、カツラか」


「ッ、だったらなんだよ!」


「何を隠す」


 勢いよく。


 ロシュラニオンはクラウンを窓に押し付け、詰め寄った。


 爪先が触れ合う距離に立った二人は、夢など語る雰囲気ではない。


 ロシュラニオンが求めたのは真実だ。


 "自分"が無かった時にやってきて、傍に居続けた道化師の真実。


 隠し事をし、一人で何かを行おうとしている道化師の真実。


「クラウン」


「聞くな、聞いてくれるな、ロシュラニオン様」


「お前は誰だ」


「やめろ、私はクラウンだ」


「お前は何をしようとしてる」


「お前が気にすることじゃねぇよ。レットモルに害を与えようとか、そんなことは思ってない」


「何を抱えてる」


「ロシュラニオン様は何も気にしなくていいから、だからッ」


「クラウン」


 ロシュラニオンが強く道化師を窓に押し付ける。


 雨は勢いを増し、打ち付ける雫は大きくなっていた。


 ロシュラニオンの赤い瞳を、クラウンは見ようとしない。俯いた仮面に全てを隠し、小さな声を零すのだ。


「なんで、聞くんだよ……」


 王子は目を細めて道化師を見下ろす。


 両肩と左手を押さえられているクラウンは、顔を上げることが出来なかった。


「なんで、お前は……私は付き人だって、ずっと言ってんのに。なんで、そうやって……踏み込んで来ようとするんだ」


 唯一動かせる右手で仮面を押さえたクラウン。


 ロシュラニオンは道化師の頭に額を寄せ、震える付き人に触れ続けた。


「お前が――名前を言えなかった俺を、受け入れてくれたから」


 雨音に消えそうな程、小さな声。


 クラウンは顔を下に向けたまま、自分にだけ届けられる声を拾っていた。


「ロシュラニオンだと名乗れなかった俺を、お前は許してくれた。何もなかった俺に、思い出を語らなかった。周りが言うロシュラニオン様を求めず、思い出させようともせず、そこに立っていた俺の声を、我儘を、聞いてくれた」


 ロシュラニオンの声は、震えている。


 クラウンの震えはそれに比例するように落ち着いていき、部屋の中は暗く冷えていくのだ。


「何処にもいない"ロシュラニオン"を、お前は探そうとしなかった。今いる俺の隣にいてくれた。それだけでよかった……それに、救われたんだ」


 クラウンは一瞬息を止める。ロシュラニオンはそれを感じ取りながら、言葉を続けた。


「周りが怖かった。優しい大人が怖かった。何もない自分が恐ろしかった。その中に飛び込んできたお前だけが、呼吸の仕方を、教えてくれたから……俺の幸せを、願ってくれたから」


 クラウンの体から力が抜けていく。


 ロシュラニオンは黒い髪に顔を寄せ、クラウンが一番聞きたくない言葉を落とすのだ。


「――好きになって、しまったから……近づきたいと思うんだ」


 クラウンの全身が熱くなり、瞬間冷える。


 愕然がくぜんしたのだ。道化師は。


 歓喜しかけた自分を殴り、潰し、喜ぶなと罵倒し、唇を噛み締める。


 揺れた肩を押さえつけるロシュラニオンが、自分の狡さを嫌悪しているとも知らないで。


 彼は、クラウンがこの言葉を望んでいないと知っていた。知っていながら伝えてしまった。


 それは酷くクラウンを傷つける行為であり、道化は決して顔を上げない。


 クラウンは、諦めたように笑った。


 泣き出しそうな声で笑った。


「――無理だよ、王子様」


 ゆっくりと、クラウンは仮面を顔から剥がしていく。


 ロシュラニオンはそれを感じて離れ、クラウンはカツラも、仮面も、全てを外してしまった。


 宝石だと謳われる深海の青い髪が現れる。


 隠しやすいように短く切り揃えられたその色に、ロシュラニオンは目を見開いた。


 彼女の右目には黒い眼帯が、左目には髪と同色の美しい宝石が存在する。


 王子の心音は徐々に大きく早くなり、額から脂汗が滲み出た。


 顔を歪めて笑う少女の名前は――アスライト。


 彼女は、ロシュラニオンだけを見つめていた。


「久しぶり、ロシュラニオン」


 瞬間、王子の頭につんざく痛みが走る。


 彼の顔には冷や汗が浮かび、頭蓋骨をこじ開けられ、脳みそを直接かき回されるような痛みが襲った。


 膝からその場に崩れ込み、顔を覆ったロシュラニオン。


 そのまま彼の意識は混濁していき、アスライトは黙って彼を見下ろした。


 朦朧とした意識の中、赤い瞳は青い瞳を見上げる。


 そうすれば痛みは激しくなり、記憶にノイズが走るのだ。


「おま、え、はッ」


「……大丈夫、ちゃんと部屋には連れてってやるから」


 ロシュラニオンは聞く。小さく零された「おやすみ」を。


 そのまま王子は倒れ込み、アスライトは黙っていた。


 黙って、黙って、黙って――泣いていた。


 左目から大粒の涙を零し、嗚咽を噛み締め、膝から力が抜けたアスライト。


 少女はゆっくりと王子の頭に手を伸ばし、柔く、柔く、撫でたのだ。


「私は……間違えてばかりだ」


 幼かったアスライトは、無意識に防衛してしまった。


 自分で立てた誓いを、自分が本当に求めたものは守れるようにしてしまったのだ。


 友達にならないでは駄目だった。


 友達に戻らないでは駄目だった。


「――君を、好きにならないが、立てるべき誓いだった」


 アスライトは泣いている。倒れたロシュラニオンを抱き締めて、静かに静かに泣いている。


 異変に気づいて入ってきたリオリスは、二人の姿を見て口を結んだ。


 泣いている少女の頭に手を伸ばし、眠った王子の頬も撫でて。


「……おはよう、アス」


 リオリスは二人をまとめて抱き締める。


 アスライトの唇は震え、涙は延々と零れ続ける。


 王子と付き人の溶けた歯車が、動き出す音がした。

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