第15話 寒いから、どうか
大輪祭当日はロシュラニオンに仕事が回されないようになっている。それは王子本人が望んだ訳ではなく、騎士団一同の配慮によるものだ。
蕾の期間中、騎士達には休みが順に回された。しかしロシュラニオンだけは休みがなく、それでは騎士達の心が休まらないと言うものだ。
――仕事を、
――お願いですから休んでください
だからロシュラニオンは、最も忙しい今日が無事終わることを自室で願っていた。
彼はレットモルの総騎士団長の肩書きの元、国と民の安全の為に奔走していないと結局は落ち着かないのだ。
付き人を名乗るクラウンも仕事の手伝いはしているが、今日だけはそうもいかない。サーカス団の道化師が王子の手伝いだけで終われる筈もないのだから。
ロシュラニオンは書庫から持ってきた図鑑を眺めて時間を潰す。
祭りに行く気も無く、休むと言うことが不得手なのだ、この王子は。
不意に扉がノックされた音を聞き、王子は「どうぞ」と平坦に答えていた。
入ってきたのは、空色の細身のドレスを纏ったランスノークである。
「ロ~シュ!」
「姉さん」
いつも以上に美しさに磨きが掛かっている王女。
弟は立ち上がり、形だけでも礼をしておいた。姉はそう言った儀礼が嫌いだと承知していたが、しなければロシュラニオンも力が抜けないのだ。
(ほんとに、この人と俺は血が繋がってるのだろうか)
顔を上げたロシュラニオンは思いつつ、姉と共に入ってきた青年に気が付いた。
血管が透けそうなほど白い肌と深緑の髪。黄金色の瞳は穏やかに細められ、風が吹けば飛ばされそうな儚さを持った者。
「ロシュラニオン様、お久しぶりです」
「レキナリス、動いていいのか」
ロシュラニオンは珍しく目を瞬かせて歩み寄る。
肩を竦めた青年――レキナリスは、聞く者を穏やかにする声色で頷いた。
「大丈夫ですよ。常に寝たきりと言う訳ではありませんので」
「……そうか」
レキナリスの微笑みを見て、ロシュラニオンはそれ以上を聞こうとはしない。
王子の脳裏には、いつも兄のことを心配そうに話すリオリスの姿があった。
「姉さんは今年もレキナリスに警護を?」
「まぁね。彼なら完璧にエスコートしてくれるから」
レキナリスの肩を軽く叩くランスノーク。
大輪祭の日は王も王妃も騎士団長を連れて街に下り、民や観光客と交流するのが習慣だ。
ランスノークも一日自由に出来る日であり、その付き添いには毎年レキナリスが選ばれる。群衆では上手く立ち回れないニアからの申し出であり、サーカス団も承知しての事だ。
「あまりハードルを上げないでください、ランスノーク様」
「ほんとのことよ」
ランスノークは楽しそうに笑い、レキナリスは苦笑してしまう。
ロシュラニオンは「で、」と呆れた顔で声をかけた。
「姉さんは態々その報告に来られたのですか?」
「違うわよ。ロシュも今年こそは一緒に街へ、」
「行きません」
「ロシュ!」
姉の言葉を直ぐに弟は遮る。
王女は不満そうに拳を振り、レキナリスは苦笑したまま姉弟の間に入っていた。
「ランスノーク様、落ち着いてください」
「レキナリス、ロシュを縛り上げて。連れていくから」
レキナリスの肩を何度も叩くランスノーク。ロシュラニオンは息を吐き、困り顔の青年に謝罪するのだ。
「すまない」
「いや、お気になさらず」
「謝るならロシュも一緒に行く!」
「行きませんってば」
「なんでよー!」
「い、行きましょうか王女様! きっともう直ぐ屋台も開きますから!」
目元を染めて抗議するランスノークの肩を、レキナリスは押して行く。口を尖らせた王女はそのまま部屋を出ていき、王子は嘆息して椅子に腰かけていた。
「なんでロシュは毎年毎年断るのよー!」
「まぁまぁ、そう怒らなくても。ロシュラニオン様も年頃と言うやつですよ、きっと」
ランスノークは歩幅が広くなるが、レキナリスは特に問題なく着いて行く。成長した結果の身長差は大きく、青年は王女の背中を追っていた。
「レキも、その喋り方止めてよね」
前を向いたまま王女は言う。
レキナリスは一瞬口を噤み、仕方が無さそうに息を吐くのだ。
「……スノーは相変わらずで困るよ」
「当たり前じゃない。私はドレスを泥だらけにして遊ぶのが好きなままよ」
「だからって、今年も屋台を全部制覇するなんて言う無茶止めてよね」
「付き合ってくれるんでしょ?」
「嫌だよ、ニアさんに頼まれてるんだ。ほどほどで止めてやってくれって」
「あの堅物執事……」
纏めた髪を掻き毟りそうなランスノークを、レキナリスは片手で否めておく。今ごろ執事長は、中庭や厨房で慌ただしく指示を出しているのだろうと思いながら。
レキナリスは、どの屋台から回るか意気揚々と語る王女を見る。それから静かに目を伏せて、ランスノークに肩を叩かれてしまうのだ。
「ちょっとレキ、聞いてるの?」
「聞いてたよ、大丈夫」
レキナリスは癖のように左胸を撫でる。ランスノークはそれを一瞥し、今度は柔らかく肩を叩いていた。
「去年は三つも屋台を回り損ねたからね、今年こそは完全制覇よ! さぁ、着いてきなさいレキナリス!」
「いや、だからスノー……君ってほんと……」
「なによ」
「……いや、なんでもない」
* * *
ロシュラニオンは自室で本を読み、街から聞こえてくる歓声に見向きもしていなかった。
大輪祭の日はサーカス団がパレードを行いながら城へとやって来る。辿り着けば中庭に設営された野外ステージでショーが始まり、大輪祭の夜を彩るのだ。
南のテントから北の城へ近づいてくる音楽に、ロシュラニオンは顔を上げる。
彼の部屋からは大通りが見え、カラフルな衣装を身に纏った団員達も確認出来た。
鮮やかなバルーンは空に浮き、吹かれた炎が星屑に変わるイリュージョンや、リボンを持って宙を舞うアイロスの双子。
花形が打ち出した水を針金の道化師が叩けば虹ができ、先頭を行く団長が行うフラッグパフォーマンスは圧巻だ。
キノである彼に続いていくのは他種族の団員達。その誰もが笑顔で国を湧き立て、城へと向かっている。彼らはレットモルの出身でも無いのに、だ。
「……外れ者、か」
ロシュラニオンは窓に額を当て、呟いてしまう。
以前、鍛錬中にサーカス団について問えば、道化師は陽気に答えたのだ。
――俺達は外れ者だよ。自分の種族に馴染めなかった外れ者。それをガラ団長が拾ってくれた。居場所をくれて、家をくれて、役割をくれた
ロシュラニオンの剣を叩き落し、クラブで頭を殴打したクラウン。芝生に倒れこんだ王子は眩暈を起こしたが、自分の前にしゃがんだ道化の言葉を聞き漏らしはしなかった。
――私達は家族なのさ。どうしようもなく、寂しがり屋の家族
仰向けに転がったロシュラニオンは、クラウンの仮面が見えなかった。仮面に影を落とした道化の声は、酷く静かだったとは覚えている。
――ならばお前は俺の付き人なんてせず、団長の付き人をするべきではないのか
頭の痛みに呻きつつ、ロシュラニオンは問いかけた。手合わせで負けてしまった悔しさが零させた、それは強がりだった。
「……アイツ、なんて答えたっけな」
伏せていた目を開けて、ロシュラニオンはパレードを見る。
その中でジャグリングをするクラウンは、不意にクラブを花束に変えて観客に投げていた。
勢いよく手を振る道化は跳ね回っており、リオリスが建物同士に張り巡らせた糸の上でアクロバットを披露する。
リオリスは器用に糸を回収しては道を形成し、その上をクラウンは駆けていた。
不意に道化は観衆の中に王女と団員を発見し、両手で手招きをする。
レキナリスは苦笑しながら王女を片腕に抱え、弟が作り出す糸の道に飛び込んだ。
群衆からの歓声は大きくなり、ランスノークは笑いながらもレキナリスにしがみついてしまう。
次々と跳んでいく兄の足場を弟は作り、儚く糸は切れていく。それらは溶けるように宙に消え、まるで昼間の星のように美しかった。
(器用なもんだ)
ロシュラニオンは椅子の背もたれに体重を預ける。
姉が手を勢いよく観客に向かって振ったせいで、レキナリスの体勢が崩れかけたのを横目に。
何とか着地してパレードに混ざった二人を、花形とクラウンが称える様も確認して。
クラウンは観客に手を振る。観客に笑顔を与える。観客の視線を集めている。
ロシュラニオンの胸には、煙が溜まる。
それは体の中心から末端へと広がり、王子に肌寒さを与えるのだ。
彼は自分の両腕を摩り、窓から視線を完全に外す。
脳裏に焼き付いた「サーカス団のクラウン」は、彼の傍にいる付き人とはかけ離れた存在のように思えてしまって。
(……寒い)
ロシュラニオンは上着を羽織るが、それでも寒さは無くならない。
寒さが彼は嫌いなのに。
頭の芯が冷えて眠たくなるような感覚が、奥歯が自然と鳴る感覚が、筋肉が震えて熱を作ろうとする感覚が、彼は嫌いでならないのだ。
目を閉じても寒さは無くならない。
思い出したい過去は真っ暗で、彼の心すらも冷えていく。
(寒くて……堪らない)
ロシュラニオンはベッドに倒れて目を閉じる。疲れた時も、逃げたい時も、傷ついた時も、彼は眠ることで落ち着こうとするのだ。
だから今日も眠ろうとする。自分が感じる寒さを紛らわせたくて、自分が知らない付き人を見たくなくて。
王子は目を閉じ、眠りに逃げる。
自分の殻に閉じこもる。
いつかそうしたように。閉じこもることで自分を守りたくて、見たくない事実を見ないようにして。
王子の額が痛んでいく。その痛みは徐々に頭全体に広がり、痛みは強くなっていった。
まるで誰かが彼の頭に入り込もうとするように。力づくで頭蓋骨をこじ開けるように。
脳みそを掻き乱すような痛みに彼は吐き気を覚え、ぼんやりと目を開けていた。
冷や汗が浮かんでいる自覚を持って、額に熱を感じて。
「ロシュラニオン様、大丈夫?」
王子の顔を覗き込んでくる白い仮面。黒い髪は白い作り物の頬を流れ、ロシュラニオンは目を見開いた。
立っているクラウンと天井が見え、部屋の明かりが付けられている。
外からは賑やかな喧騒が聞こえており、王子の心音は耳音でうるさく鳴っていた。
「クラ、ウン……」
「うん、クラウンだよ。すっごい
ロシュラニオンは、そこで自分の額に乗せられているクラウンの手に気付く。道化は白い手袋を外して、嫌に冷えていた王子の額を押さえていたのだ。
クラウンは首を緩く傾げ、主の返答を待っている。
ロシュラニオンは深く息を吐き、離れようとした道化師の手を押さえつけた。
「ありゃ、もー、起きたなら離してよー」
「……クラウン」
「んー、何?」
「クラウン」
「だから何ってば」
「……クラウン」
「……おーい」
クラウンはロシュラニオンの額から手を離そうとするが、王子はそれを許さない。自分の額に道化師の手を押さえつけ、ゆっくりと目を伏せた。
「……お前が、俺の私室に
「ノックしても返事ないし。けど、誰も城内では見てないって言うから。倒れてたら困るじゃん」
「困るのか」
「困るよ、すごく困る」
クラウンは床に膝を着き、ベッドに顔をもたげている。ロシュラニオンはその動きを感じながら目を閉じ続けた。
「怖い夢でも見たのかい」
「……怖い……か」
ロシュラニオンが思い出すのは、冷えた体と頭の痛み。それは、確かに恐ろしいと言う感情を孕んでいたのだろう。
「そうだな……恐ろしい夢だった。恐ろしく寒い、感覚だった」
クラウンの指先が痙攣する。
空いている道化師の手は、ロシュラニオンの死角で握り締められた。
「そっかぁ」
「あぁ、だが……お前が来てくれて、目覚められた」
また、クラウンの指先が痙攣する。ロシュラニオンはそれを感じても、目を開けはしなかった。
クラウンの唇が噛み締められる。肺はゆっくりとした呼吸を繰り返し、右目の奥が痛んだ気さえしたのだ。
そこはもう痛まないのに。血は流れないのに。熱も引いたのに。
「そ、かぁ……」
クラウンはベッドに仮面を押し付ける。ロシュラニオンは目を開けると、道化師の頭に空いていた片腕を回した。
道化の手を握り締めたまま。人気者の付き人が、自分から離れてしまわないように――抱き締めた。
「おーい、王子様さぁ」
「お前がいないと、寒い」
クラウンの体が緊張する。それを分かりながら腕の力を強める王子は、決して顔を上げなかった。
「酷く、寒い」
「……寒い?」
「あぁ」
「そんなに?」
「凍えるかと思う程に」
努めて体から力を抜いていく、クラウン。
今ここで王子を抱き締めてはいけない。
今ここで王子の手を握り返してはいけない。
今ここで王子の頭を撫でてはいけない。
今ここで――喜んでは、いけない。
クラウンは自分の感情を踏み潰す。壊して、閉じ込めて、喜びそうになった自分を殺していた。
「ばっかだなぁ、凍らねぇよ、お前は」
(凍らせないよ、もう二度と)
笑ったクラウンは、泣き出しそうな心を押し留めた。
突き放されることなく、自分に縋ってもらえたことが、まるで求められているようだと錯覚させてくるから。
そんな事はないのに。そんな事は、あってはならないのに。
ロシュラニオンは、確かに願っていた。
「凍らせないよう、ここに戻れ。俺の傍に戻ってこい。誰に笑おうと、誰に夢を届けようと、それでも、俺の所に帰ってこい」
「……それで君は、幸せになれるかい?」
ロシュラニオンはクラウンの服を掴む。道化の手を握り締める。
例え自分が抱き締め返されなくても、手を握り返されなくても。
「なれる」
そう答えれば、目の前の道化師を「自分だけのクラウン」に出来ると知っているから。
「――分かった」
クラウンは目を閉じる。仮面の下で、ゆっくりと。
それは、緩やかな依存だと気づきながら。
溶け合う歯車は二人を繋いでいる。
どちらかが欠けてはいけない。欠けるならば、どちらも揃って欠けなくてはいけない。
それが、ロシュラニオンとクラウンなのだから。
目を開けたクラウンは、再び道化を演じていた。
「そうだそうだ、王子様! 中庭に晩御飯食べに行こうぜ! 屋台の食べ物大集合してんだから!」
「お前、その為に呼びに来たのか」
「だって今日は大輪祭だぜ⁉ ショーも無事終わったし、後は食べて笑って楽しむのみ!」
「……食べはするが、楽しむかは別だ」
「はぁぁぁ、ま、それでもいいよ! さぁ行こう、直ぐに行こう!」
クラウンは跳ね回って、王子の腕から抜けていく。
ロシュラニオンは息を吐くと、ゆっくりと体を起こしていった。
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