第10話 白紙の自分を嫌悪した

 

 "ロシュラニオン・キアローナ"には九歳までの記憶が無い。


 ある日目覚めた時、自分の名前も、ここが何処かも分からずベッドの上で放心していたのが「彼」の始まりだ。


 広いベッドの中央に寝かされ、自分が置かれている状況を理解出来なかった九歳の少年。全てを初めて見る感覚は酷く居心地が悪く、目覚めた瞬間に体からは冷や汗が噴き出した。


「あぁ、"ロシュ"、"ロシュラニオン"!!」


 自分が目覚めたことを大いに喜び、必死に抱き締めてきた女がいた。何度も頭を撫でてくるかたわらの男は、少年の手を必死に握っている。


 意味が理解出来ない少年に抱き着く者はそれだけではなかった。金髪の美しい少女が泣きながら女と共に抱き締めてきたのだ。


 少年がまず一番に感じたのは――恐怖であった。


 見知らぬ場所で見知らぬ者達に抱擁され、聞いたこともない名前で呼ばれる自分。必死に思い出そうとしてもあるのは空白だけで、自分が一体誰なのか分からない現状。


 少年は、目の前で様々な人が喜び笑っている様子を他人事のように見つめていた。


 いや、実際彼にとっては他人事だったのだ。


 知らない名前で呼ばれ、知らない者に泣きつかれ、心配され。


 少年には何も無かった。何もない所に止めどなく押し寄せる情報と混乱は彼の呼吸を奪い、我慢出来ない恐怖は言葉として零れ落ちた。


「――誰?」


 瞬間。 


 歓喜していた部屋の空気が凍り付いたのを、少年は何年経とうとも忘れない。


 驚愕の色を浮かべた見知らぬ者達は少年を見つめ、押し潰されそうな不安に少年の呼吸は荒くなった。


 喉が締まり肺が広がらない。全てが分からず、何も思い出せず、目覚めを喜んでいる彼らを少年は知らないのだ。


 不意に頭に痛みが走り、少年の意識は再び混濁する。


 何が原因だったかは分からないが、彼はあまりの激痛に何事かを叫び、涙を流したことだけは覚えていた。


 霞む景色の中で人が自分を呼ぶ声はするが、その記号が自分の名前だとは理解し難い中での出来事だった。


 次に目覚めた時、王宮の中は冷静さを纏っていた。


 父親だと言う国王も、母だという王妃も、姉だと言う第一王女も、教育係だと言う執事も、少年には見覚えがない。


 地位を言われても関係性を言われても、言葉の意味は理解出来るが受け止めることは出来ない。


 少年は、自分がイセルブルーと言う第一級危険物品の不法持ち込みによる事件が起こった日から、眠り続けていたと教えられた。


 彼には悪質な魔法の痕跡も見つけられず、身体的にも異常はなし。頭痛と記憶障害は心因性のものではないかと言う見解が有力だとも教えられた。


 そして、その日から少年は再度"ロシュラニオン・キアローナ"として教育を受け始めたのだ。


 一度受けてきたものだと言われるが実感はない。体が礼儀や言葉遣いを知識として微かに覚えていたし、自国であるレットモルのことも大体は理解していた。


 〈レットモルは自然豊かな森の中央を開拓して建国され、小国ながら貿易による国家経済を成功させた穏やかな国〉


 それは確かに知識だった。自分が受けたという知識。


 けれども彼はやはり、両親だと言う大人も姉だという少女も見覚えはない。


 知識はあるのに記憶は無い。国は分かるのに他者は分からない。


 不安定なストレッサーに日々苛まれたロシュラニオンは、食事をしても嘔吐することが増え、丹精込めて育てていたという花壇も枯らし、部屋に引き籠っていった。


 彼は全てが恐ろしかったのだ。


 何も知らないことが恐ろしくて堪らない。自分が何者かも分からないのに、周囲には「何が好きだった」「どんなことをしていた」と必死に教えられることが気持ち悪い。


 自分の事を他人の方がよく知り、必死に思い出させようとするのだ。そのストレッサーは少年の体を蝕み、犯し、壊していく。


 もしもそこで周囲が全てを諦めてくれれば良かった。


 しかし、彼の周りの者達は皆優しかったのだ。


 優しく微笑みかけ、穏やかに頭を撫で、恐怖と不安で泣いてしまう自分を抱き締めてくれる。


 それは確かに「愛情」なのだと理解していたからこそ、白紙の少年は頑張らなけれいけないと思ってしまったのだ。


 時折激痛と共に意識が飛ぶことがあり、目覚めるごとに加護が厚くなる。


 だからもう倒れてはいけない、吐いてはいけない。強い体でなくてはいけない。


 少年は花壇への水やりではなく――剣を持って鍛錬をするようになった。


 自分は「王子」らしい。王位を継ぐのは姉であるから将来的にはその補佐をするわけである。


 ならば誰かに弱さを見せてはいけない。隙を見せてはいけない。


 少年は――泣くことをやめた。


 体と心を強く鋼のようにする為に進み始めた少年。自分を酷使して痛めつけて追い込んで、少年は"ロシュラニオン・キアローナ"になろうとしたのだ。


「"ロシュ"、そんなに、頑張らなくていいよ?」


 異国生まれである母と同じ金髪と新緑の目を持つ少女が言った。彼女は「ランスノーク・キアローナ」であり、"ロシュラニオン"の実姉であると少年は教えられている。


 不安そうな姉を"ロシュラニオン"は見つめ、泥だらけになった体を正し、身の丈に合わない剣を握り締めた。


「頑張る邪魔、しないで」


 そう言って素振りに戻った"ロシュラニオン"に、ランスノークは何も言えなかった。三つ年が離れていると教えられたランスノークは、年齢の割に聡明である印象を"ロシュラニオン"は抱いている。


 彼女の「弟」である少年は手に血豆ができ、それを何度も潰した。固くなっていく手は九歳の子どもの手ではなく、鍛錬場に入り浸る彼に騎士達も困惑したものだ。


「教えて。もっと強くなりたい」


 ロシュラニオンは第一騎士団長に弟子入りし、剣の稽古に本腰を入れた。手加減されれば自分が弱いせいだと苛立ち、"ロシュラニオン様"と呼ばれる度に奥歯を噛み締めた。


 皆が言う"ロシュラニオン様"とは誰だと。


 自分は誰なのかと。


 "ロシュラニオン"は常に酸欠であり、酸素を求める為に自分を戒め続けた。


「はぁい! 少年!」


 ある日、部屋で自分の手に包帯を巻いてた"ロシュラニオン"


 彼の元に教育担当のニア・サンライトが連れて来たのは、奇抜な衣装の道化師であった。


 黒地に赤や黄色、水色と言った鮮やかな衣装を纏い、顔には白い仮面をつけている。


 身長は"ロシュラニオン"よりも少しばかり高く、少年は包帯を口で噛んだまま固まった。他者に手当てされるのを拒んだ結果、彼は手当の仕方を身に着けていたのだ。


「無茶苦茶してるお子様を慰めに来たよん!」


 暗さや恐ろしさとは無縁と取れる高い声。声変わり前の男児のような声で"ロシュラニオン"に近づいた道化は、両手から色とりどりの紙吹雪をばら撒いた。


 それに驚いた"ロシュラニオン"は、口から包帯の端を離してしまう。


 手に巻かれていたそれは緩く解け、背中で手を組んだ道化師は小首を傾げていた。


「それ結んであげるよ」


 道化師の両手が"ロシュラニオン"の返事を貰う前に動き、包帯を巻いていく。


 少年は目を白黒とさせてニアを見たが、執事は部屋の出入り口で姿勢を正しているだけだった。


「ねぇねぇ、君の名前は? あ、僕のことはクラウンって呼んでね」


 興味津々と言った声色で問いかける道化師――クラウン。切り揃えられた黒髪を揺らして跳ねる道化師は、直ぐに包帯を巻き終えてしまった。


「――名前」


 自信なく零される"ロシュラニオン"の声。


 クラウンは陽気に腕を広げた後、顔色を悪くしている少年の頬を両手で挟んでいた。


「名前、ある?」


 穏やかな声で確認される。


 "ロシュラニオン"は知っていた。


 名前を問われたら、"ロシュラニオン・キアローナ"だと答えなければいけないと。


 けれども喉が貼り付いてしまったように動かない。それを自分の名前だと、少年はまだ消化しきれていないという事実だ。


「お、れは、」


「あ、ごめん。やっぱり言わなくていいや」


 喉を剥がして喋ろうとした"ロシュラニオン"


 けれどもその声をクラウンは止め、穏やかな手で少年の頭を撫でたのだ。


「詰まらずに、君がその名前を言いたいと思えた時、また教えてくれ」


 低く穏やかな声で諭され、"ロシュラニオン"の目に涙の膜が張っていく。


 それを零すことなく彼は目を擦り、クラウンの手も払い除けた。


 クラウンはそれでも肩を揺らして笑い、その両手からは不意に大きな白紙が広げられた。


 "ロシュラニオン"は肩を引き攣らせ、ニアも目を瞬かせてしまう。クラウンは、溌剌とした声を部屋に響かせた。


「じゃっじゃじゃーん!! こちらはまだまだ白紙の〈幸せ計画表〉です!! さぁさぁ王子様! 君は何をすれば幸せになれるか、書き出してみよー!!」


 軽い足取りで"ロシュラニオン"の周囲を回ったクラウン。少年は唖然とし、道化師は白紙をたなびかせながら舞っていた。


「し、幸せ計画書って、」


「その名の通りさ! 君が幸せになる為に、何をすれば幸せになれるか考えて書き出すの!!」


「な、なんで、そんなこと」


「私は、君を幸せにする為に来たんだもの!」


 堂々と、何の淀みも無く言い切ったクラウン。


 今度こそ"ロシュラニオン"は放心し、ニアはゆっくりと口を結んでいた。


「幸せ、なんて……」


 "ロシュラニオン"は奥歯を噛み、下を向く。それから顔を覗き込もうとしたクラウンを押しのけ、剣を持って鍛錬場へと走り出した。


「あー! 待って待って僕も行く!!」


「ッ、な、なんで!!」


「だって今日から僕は君の「付き人」だかんね! 王様も王妃様も了承済み!」


「は、はぁ!?」


 その日から、王子――"ロシュラニオン"と、付き人――クラウンの生活は始まった。


 騒がしく"ロシュラニオン"の周りを跳ね動き、自分を戒める少年の傍に居続けたクラウン。


 最初に道化師が手を出したのは、王子の剣の鍛錬にだった。


「ねぇねぇ、これ手伝ったら君は幸せになれる?」


「少なくとも、今よりは、きっと」


「了解したぜ!」


 クラウンに呆れていた"ロシュラニオン"は、半ばやけくそに頷いた。騎士団達も苦笑してしまい、その日から少年の相手は道化師が請け負うことになったのだ。


「なんでだよ!」


「だって俺の方がつよーいもん!」


「はぁ!?」


 苛立った"ロシュラニオン"が振りかぶった剣を蹴り飛ばし、少年の背中を踏み倒したクラウン。キノではない道化師の動きは"ロシュラニオン"にとっては未知であり、結果的に今までより怪我が増える事となった。


 それに王妃も王も心配そうに見つめていたが、口を出すことは無かった。


 何か考えがあっての事だろうと"ロシュラニオン"は考えたが、自分が分からない少年にとって他人の考えなど分かるわけもない。


「お前はなんで強くなりたいんだよー、おーうじっさま! 僕が傍にいれば何からだって守ってあげるのに!!」


「……なんでもいいだろ」


 怪我をした"ロシュラニオン"を風呂に放り込み、汚れを落とさせ手当する。クラウンの荒療治に従者達は口を挟まず、道化師は陽気な態度で"ロシュラニオン"を手当てしていた。


「俺、やっぱり弱いな……」


「なーに言ってんだよ! 俺様相手に最後まで音を上げなかったっつー根性を褒めさせろよ!!」


 背中を何度も叩かれる"ロシュラニオン"は口を結び、一人称がコロコロ変わるクラウンは笑い飛ばす。


「で、どうっすか、幸せ計画表書きません!?」


「書かない」


「なんで!」


「なんか……負けた気がする」


「ひっどくなぁ~い!?」


 常にオーバーリアクションで周囲を跳ね回り、太陽のように笑い回るクラウン。"ロシュラニオン"は口を結び、毎日自分の一歩後ろを着いて歩く道化師を見ていた。


 少年は怪我も増えたが、力も確かについていく。


 クラウンは毎朝"ロシュラニオン"の部屋に迎えに走り、王達の願いにより、少年を鍛錬場以外にも連れ回した。


 城内の温室に書庫。王達の許可を貰って城下に向かった時の"ロシュラニオン"の世界は、確かに輝いていた。


 自分から離れることなく傍に居てくれるクラウン。道化師は所属するサーカス団にも少年を連れていき、"ロシュラニオン"は人間以外の種族に目を丸くしたのだ。


 体が水のように透けている女性に、針金で構成されたような細長い男。三角の耳と毛むくじゃらの体の双子に、白く長い耳を両手で握り締める少年。深緑の髪と黄金色の瞳で微笑んでくれた兄弟。


「あぁ、王子」


 シルクハットを胸に当てて"ロシュラニオン"に頭を下げた団長。彼はキノであり、レットモル出身の者であった。


「――貴方の明日に、幸運を」


 眉を下げ、泣き出しそうな顔で笑った団長。"ロシュラニオン"はその表情を不思議に思いながらも、聞くことが出来ずに終わった。


「俺、サーカス団の人と仲良かったの?」


 城に居た者達のように、自分がどうであったかを語らなかったサーカス団員達。それに自ら興味を示した"ロシュラニオン"はクラウンの背中に問いかけた。


「さぁ、どうだかね?」


 クラウンはその答えを、はぐらかした。"ロシュラニオン"は自分より少しだけ背が高い道化師を見つめ、それ以上は問わず、道化師に手を伸ばす。


 クラウンは、自分の指を握った少年を見た。


 たった一本、小指だけ。


 王子は何も言わず、道化師もその時だけは、静かであった。


「クラウン、稽古の時間よ」


「はーい! ならこの子お城に送ってくるね!」


 クラウンは決して"ロシュラニオン"を一人では出歩かせない。それは城の者もサーカス団員達もであり、"ロシュラニオン"もそれに文句や疑問は無かった。


 それでも何故だろう。


 夕暮れが、稽古の時間が、自分の教養の時間が、クラウンと"ロシュラニオン"を剥がすた度に少年は不安定になっていく。


 クラウンの指を離すのを渋る時間が増え、クラウンの服を握ってしまう機会が増え、剣以外では道化師の手を握っていたいと思うようになった王子がいる。


 クラウンはそれに薄々気づきながらも何も言いはしなかった。何も言葉が見つからなかったのだ。


 だから"ロシュラニオン"は止まれなくなった。


 戻れなくなったのだ。


「――帰らないでほしい」


 ある日の夕暮れの、その一言。


 それが少年と少女の歯車が溶け始めた合図だった。

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