第11話 君が選ぶ幸せ

 

 大きく手を振るクラウンを攫うのは、いつも決まって夕暮れであった。


 クラウンは"ロシュラニオン"をいつも部屋の前まで送り届ける。手を振って、陽気に、元気に、明日もあることを疑わせない態度で。


 だから少年はいつからか、早く明日になればいいと願い始める。


 家族での食事の席ではその日にクラウンとどう言ったことをして、何を見たかを語るようになり、それに家族も従者達も心底嬉しそうであったのだ。


 それが少年も嬉しかった。


 嬉しかったのに、ある日クラウンがサーカス団と共に国を離れた時があった。


 その間は「リオリス」と名乗る第二の付き人が"ロシュラニオン"に付いたが、王子の心は落ち着かなかった。


 リオリスはクラウンとは違い、穏やかに微笑みを携えて半歩後ろに控えている者。その態度が"ロシュラニオン"は不安であり、自分の周りの大人と重ねてしまった。


 それが――皮切りだったのだ。


 鮮やかな一日の終わりがクラウンを攫ってしまう。道化師は自分の知らない外へも飛び出してしまう。


 テラスの手摺を握り締めた"ロシュラニオン"は、ある日帰ろうとしたクラウンの腕を掴んでしまった。


「あり、どしたの?」


「――帰らないでほしい」


 震える腕でクラウンを引き留め、懇願した"ロシュラニオン"


 クラウンは少年の言葉に暫し沈黙し、傍に控えていたニアは努めて微笑んだ。


「"ロシュラニオン様"、急にどうされたのですか?」


 執事に"ロシュラニオン"は返事をしない。


 赤い双眼はクラウンだけを見つめており、道化師はゆっくりと首を傾げた。うなじが軽く引き攣るような違和感を、見ないふりして。


「帰らないで、どうしたらいい?」


「……傍に、いて」


 掠れた声で訴える"ロシュラニオン"


 彼の指はクラウンの腕に食い込むほど力が込められ、道化師は少年に向き直った。


「いるよ、私は君の傍にいる。明日も明後日も、その次も。そりゃ時々は団長命令でレットモルを出るけ、」


「違う、違う、今帰ろうとしてる」


 言葉を遮られたクラウンは気づく。


 自分を見つめる"ロシュラニオン"の目が濁っていくのを。


 腕を振りほどけば倒れそうな少年の目は、確かにひずみを持っていた。


 クラウンは反射的に"ロシュラニオン"の頬に触れ、目を覗き込む。


「駄目だよ、その目は駄目」


「目?」


 クラウンは頷き、"ロシュラニオン"に腕を離させようとした。


 しかし少年は離さない。決して、決して。


 クラウンは奥歯を噛み、"ロシュラニオン"の声を受け止めた。


「俺を、一人にしないでッ!!」


 切実な声で懇願する少年がいる。


 クラウンはその勢いに口を閉じ、執事も目を丸くして固まった。


 ――その日、クラウンは"ロシュラニオン"のベッドの横に座り、少年が眠るまで傍にいた。


 次の日も、次の日も、その次も。


 それでも朝にはクラウンがいた椅子はもぬけの殻であり、"ロシュラニオン"はそれすら耐えられなくなっていった。


「クラウン、朝まで手を繋いでて」


「寝てたら一緒だよ」


「違うから、いなくならないで」


「いなくならねぇよ。明日も会えるだろ」


「ずっと一緒にいて」


「なぁ、聞けって」


「一緒に寝よ」


「おーい坊や」


「帰らないで」


「なぁったら」


「クラウン」


 日に日に"ロシュラニオン"の目は濁っていく。濁り、陰り、クラウンの腕を離さない時間が増えていく。


「……王子様さぁ」


「様、嫌だ。つけないで」


「なんで?」


「友達は様付けなんてしない」


 深夜、いくら待っても眠らない"ロシュラニオン"にクラウンは笑っていた。空気を多く含んだ、優しい声で相手をしていた。


 だが、少年の言葉に道化師の体が引き攣ってしまうから。


 少年は布団の中から、立ち上がったクラウンを凝視していた。


「――友達じゃないよ、俺達は」


「……ぇ、」


 "ロシュラニオン"は目を見開き、倒していた体をゆっくり起こす。


 クラウンは脱力した態度で少年を見下ろし、言い聞かせるような声を零していた。


「君は王族だ。それに対して私はサーカス団の道化師。どこに対等性がある。友達っていうのは対等なんだ。でも駄目だ、駄目だろ、駄目なんだよ。つか、言ったじゃん。俺は君の付き人だって」


「くら、うん」


「ねぇ、お願い。前を向こうよ王子様。君のことは私が守る。君は伸び伸び育てばいい。無邪気に笑って過ごせばいい――おどけるしか能がない道化師を友達になんて、しちゃ駄目だよ」


 そこで"ロシュラニオン"は気づいてしまう。


 クラウンは自分との間に線引きしていると。どれだけこちらが近づこうとしても、避けようとしていると。


 目の前の道化師は、自分と友人になることを拒絶していると。


「――なんで? クラウン」


「だから、」


「君が、君だけは、俺を特別扱いしなかったのにッ!!」


 少年の剣幕に道化師は驚き、掴まれた腕への反応が遅れる。


 肩で息をしている"ロシュラニオン"は涙を浮かべた目で、クラウンを見つめていた。


 血豆が潰れた掌は年齢に似つかわしくないほど固くなっており、クラウンは服越しにそれを知ってしまう。


「お願い、お願いクラウン。俺から離れないで、俺の傍にいて、俺の手を握ってて」


「おい、」


「もう嫌だ、もう嫌だ。王子様って呼ばないで。それは誰、俺じゃない、俺じゃない、俺は、俺は誰、誰、誰だよッ」


「落ち着けよ。そうだ、水でも飲もう。あ、いっそリオリスも叩き起して連れてき、」


「何処にも行かないで、クラウン」


 クラウンの両腕を掴み、自分の方へと引き寄せた"ロシュラニオン"


 道化師は、自分の鎖骨の間に額を押し付けた少年を、突き放すことが出来なかった。


 突き放せば壊れる。


 ここで手を振りほどけば、二度と少年は立ち上がれなくなる。


 クラウンの肺に煙が溜まり、道化師はまた――自分を嫌悪した。


(いつもいつも、お前は間違える)


 道化師は俯いていく。深く、暗く、全て諦めてしまいそうな雰囲気で。


「……どこで間違えたのかなぁ」


「間違えてなんかない。何も、間違えてなんかないもん」


 クラウンは"ロシュラニオン"の頭を撫でようと腕を上げ、何もせずに下ろしていく。


 少年は奥歯を噛み締めて「なんで……」と震える声を吐いた。


 クラウンは仮面の下で唇を噛み締める。


 彼の頭を撫で、抱き締め、大丈夫だと背中を撫で、笑ってしまいたいのに。


 クラウンは自分を戒めて、殺していた。


 固く冷えて防衛しようとしていた少年に近づいたのは、近づこうと決めたのは、誰でもない道化師だ。


 ただ彼に笑って欲しかった。幸せにしたかった。


 たった一人の為だけに、クラウンと言う道化師は生まれたのだから。


 踊り子を殺して、道化師を作り、周囲の言葉すら聞こえないふりをして。


(悪い子だな、ほんと……クラウン)


 クラウンは、心中で後ろを向きかけた自分を殴り殺した。


 殺して、立ち上がらせて、前を向かせて、歩かせる。


 手を握り締めることもせず、唇を噛むのを止めて。


「大丈夫だよ。俺はお前の傍に、絶対戻ってくるから」


「……クラウン」


「付き人としてね」


 クラウンは"ロシュラニオン"をベッドに放り投げる。背中から沈んだ少年には即座に布団が被せられ、クラウンは椅子に座り直していた。


「……クラウンは、どうして俺の付き人になったの」


 布団を引きながら"ロシュラニオン"は聞く。クラウンに背を向けた彼は壁を築いていくようで、道化師は努めて陽気を演じるのだ。


「理由がいるかい?」


「理由がないのに、何も覚えてない奴の付き人なんて、誰も受けないだろ」


 背中を丸める"ロシュラニオン"を、クラウンは笑っている。笑っているように聞かせている。


「君が君だったから、それだけだ」


 瞑られていた赤い瞳が見開かれる。"ロシュラニオン"はゆっくり寝返りを打ち、自分を見つめているであろう道化師を見上げた。


「掌の血豆を潰して、自分で包帯を巻いて、ただ強くなろうとする……白紙の王子様」


 それは全て、目覚めた"ロシュラニオン"を表す言葉。王子は黙ってクラウンの声を聞き、道化師は少しだけ肩を竦めるのだ。


「そんな君だから、傍にいたいと思えたんだよ」


 クラウンは首を傾け、"ロシュラニオン"はそこで気が付く。


 初めて出会った日から、クラウンは「王子様」とは呼べど「ロシュラニオン様」とは一度も呼んでいないと。


 まだ自分の名前を詰まることなく言えない自分を、道化師は受け入れているのだと。


 王子は滲んだ目元を枕に押し付け、布団から伸ばした手でクラウンの袖を掴んでいた。


 弱く、弱く、震えるほど弱く、自信が無さそうな指先で。


「クラウンは、俺の付き人でいてくれる?」


「あぁ、勿論」


「この先ずっと?」


「未来永劫さ」


「何もない、俺の傍に、いてくれる?」


「努力する力を持ってる、君の傍にいるよ」


「ッ、俺を、俺を、見ていてくれる?」


「君が歩む姿を見ていようじゃないか」


 枕に涙を吸い込まれ、王子は小さく鼻を啜る。道化師はそれを小さく笑い、"ロシュラニオン"の指はクラウンの袖を引き続けた。


「もし、俺が立ち止まっても、置いていったりしない?」


「しないよ――立ち止まった君を放っておいたら、稽古にも集中出来ないさ」


 クラウンは顔を少しだけ伏せて、初めて王子の手を取った日を思っている。


 サーカス団の林の傍。蹲って、青い花弁に縋るように震えていた少年を想っている。


「クラウン」


「まだ何か、確認をご所望かな?」


「これで最後」


 指先だけで掴んでいたクラウンの袖を、"ロシュラニオン"は握り直す。クラウンはそれに反応を見せず、自分を射抜く王子の瞳を見つめていた。


「幸せ計画表、一緒に……作ってくれる?」


 クラウンの肩が揺れる。息を呑んだ喉が鳴っている。


 道化師の左目は滲んでいき、背中は微かに震えていた。


 血豆が潰れた掌で道化師を掴んでいる王子。赤い双眼は、付き人の返事を疑わない。


 クラウンは静かに立ち上がり、足を引いて、ゆっくり頭を下げていた。


 打ち震える心を叱咤して、喜ぶことへの浅ましさを憎んで。


(望んでくれた。君は、幸せになろうと――望んでくれた)


 道化師は、"ロシュラニオン"が望まないことは二度としない所存でいた。


 だから少年が〈幸せ計画表〉を使うことも強要せず、「幸せになれ」と命令はしなかった。


 望まれなければ成さない。望まぬ少年を起こしてしまった道化師は、彼が望まないことはしたくなかった。


 だから、だからこそ、彼が幸せに少しでも目を向けてくれたことが――嬉しくて堪らなかった。


「幸せになろう、王子様。君が幸せになる為なら、私は友達以外の何にでもなる。剣でも盾でも、影でもいい――貴方の幸せの為に、使ってください」


 クラウンの黒い髪が仮面を隠していく。ロシュラニオンは体を起こし、頷いた。


 ――その夜、"ロシュラニオン"は穏やかに呼吸をして、張り詰めたような緊張感を全て取り、初めて安眠した。


 彼は布団を被ったまま目を覚まし、抑揚なく起き上がる。


「やぁ、おはよう」


 最初に見たのは窓辺に立つクラウン。


 その姿に少年は口を結び、凛として立ち上がったのだ。


「おはよう」


 ――二人が作った〈幸せ計画表〉に記されたことは三つ。


 全て"ロシュラニオン"が望み、決めた事柄であった。


「一、剣の腕を上げる。なんで?」


「強くなりたい。俺は王子だから。将来は……姉さん、の補佐だろうし。弱い所はいらない。付け入る隙が合ったら邪魔になる」


 クラウンは、机に広げた〈幸せ計画表〉を記入していく"ロシュラニオン"を凝視し、意見はしない。


「二、総騎士団長になる……うぇ!? マジ!?」


「強いって言ったら、やっぱりこれだと思う」


 総騎士団長とは、レットモルにある五つの騎士団の上に立つ総指揮官。現在は第一騎士団長が兼任する役であり、剣の腕もことながら、状況把握や判断力も必要とされる役職だ。


 クラウンは"ロシュラニオン"を見つめ、赤い瞳も道化師を見た。


「クラウンがいれば、俺は強くなっていけると思う」


 その言葉が、クラウンの背中を勢いよく叩くから。


 指先を痙攣させた道化師は、やっぱり何も言わないのだ。


「……三、立派な王子になるって、立派って何」


「立派は、立派だよ……誰にも迷惑かけず、心配もかけず、レットモルって言う国を支える一旦に恥じない、そんな王子」


 クラウンは暫し黙り、"ロシュラニオン"の背中を小突いておく。王子は目を瞬かせ、道化師の言葉を聞いていた。


「それで、君が幸せになれるなら」


 頭を下げた付き人は、少年が書き上げた〈幸せ計画表〉の為に動いていく。


 彼の剣がより鋭くなるよう鍛錬に付き合い、リオリスも呼んでキノ以外を相手取る機会を増やし。


 王子の半歩後ろを歩き、共にレットモルや貿易についても学んだ。


 クラウンはサーカス団が貿易に旅立つ時には王子の元を離れる契約であったが、それでも"ロシュラニオン"は涙を流さなかった。


「帰ってこい、クラウン」


「仰せのままに、王子様」


 ただその言葉があれば良かったから。その言葉が二人を繋いでいたから。


 国の為に貿易業もこなすクラウンを見た"ロシュラニオン"は、剣と向き合うと同等の時間、机にも向かった。


 白紙の自分でも国の役に立つ為に。


 レットモルの王子として立つ為に。


 ――クラウンは王子の傍に居続けた。いつ起こるかも分からない悪意から少年を守る為に。


 少年の記憶が戻らないかと望む周囲を横目に、少年のこれからを彩ると誓いながら。


 彼の友達にならないと誓った少女は、彼を幸せにするとも誓ったのだ。


 王でも、王妃でも、団長でもなく、道化師は自分に誓った。


 だから傍に居続ける。


 少年が自分の名前は"ロシュラニオン"だと言えるようになっても。


 ロシュラニオンが剣客に目覚めても。


 血反吐を吐く努力によって、総騎士団長の肩書を与えられても。


 他国から「狂戦士ベルセルク」と言う名を呼ばれても。


 クラウンはロシュラニオンの付き人であり続けた。


 ロシュラニオンはクラウンを傍に置き続けた。


 少年の身長が道化師を超え、異種族と同等に渡り合うだけの力を王子がつけても二人は共にいた。


 それは――八年経った今日も、続いている。

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