第9話 踊り子はいなくなった
「アスライト、お前はもう少し足音を立てずに移動しろ」
「はぁい」
”ロシュラニオン”が目覚めて幾日経ったか。
イリスサーカス団は貿易を再開させたが、そこに青い踊り子の姿はなかった。
右腕を上げられず右目も失ったアスライトは、一時裏方に異動をしたのだ。少女本人の希望によって。
公演後の照明の手入れをする副団長と青い助手は、テント外で聞こえる見送りの騒がしさをBGMにしていた。
アスライトは自分の演目が無かったことを残念がる観客の声を、テント上部で聞いている。
少女の中に申し訳なさは存在していたが、それ以上の感情が渦巻く状態では表面で笑うことすら出来ないと踏み、客の前に姿を現すことは無かった。
「ねぇ、副団長」
アスライトは照明器具をかけ直し、次の器具を下ろしている。ミールはフードの中から「なんだ」と問い、姿を見る目だけを開けていた。
「記憶を奪う種族、知ってる?」
アスライトの左目がミールを射抜く。副団長は顔を上げ、少女の瞳に浮かぶ感情を見つめていた。
「聞いてどうする」
「……さぁ」
視線をズラしたアスライト。
少女は知っていた。自分の考えを口にすれば大人は止めにかかると。だから言葉にせず、ただ確認だけをしようと思ったのだ。
しかし相手はコルニクス。心を映す瞳で見られれば、隠し事など出来る筈もない。
ミールも例外なく、心を映す瞳で照明器具を置いた助手を射抜いていた。
「アス、」
「私は、あの子に幸せになって欲しいだけだよ」
ミールの呼び声を遮り、アスライトは答える。
その心に偽りも建前も無く、だからこそミールは目を細めてしまうのだ。沸々と煮えている、少女の心に気付いたから。
「その障害になる奴は、死ねばいい」
助手の手から金属が砕かれる音がする。
見れば照明器具の淵がアスライトの手によって砕かれ、青い瞳は輝いていた。
アスライトの目は素直だ。素直に考え、素直に思考し、素直に気持ちを吐き出している。
ミールは作業の手を初めて止め、考えを見る瞳も開けていた。
「――お前、」
「副団長、アス、何か作業手伝いますよ」
不意に、金梯子を上って現れたのはリオリスとレキナリス。
ミールは嘴を閉じ、アスライトの手からは器具の破片が零れ落ちた。
「……レキナリス、アスライトが照明器具を壊した。お前の糸で修繕してくれ。リオリスはこの青い助手を少し息抜きに」
「……はい」
「わ、分かりました」
レキナリスは目を覆った副団長を確認し、指先から白い糸を投げている。それは破片を全て拾い上げ、リオリスはアスライトの手を握っていた。
「アス、ちょっと外でも歩こうよ」
「……ごめんなさい、ミール副団長、レキ、リオ」
アスライトは副団長に視線を向けて謝罪する。ミールは一つの腕を伸ばして青い頭を撫で、レキナリスは薄幸的に微笑んだ。
「良いよ。休んでおいで、アス」
「行こ」
リオリスは少女の手を取って足場を下り、裏口からテントの外へと歩き出た。
アスライトは温かな陽光に目を細め、青空を見上げる。リオリスは少女の手を引き、綺麗な芝生を踏み歩いた。
「アスはさ、もう、”ロシュ”の友達にはならないんだよね」
「――ならないよ、あの子を無理矢理起こしたいって願った私は、友達にはなれない」
アスライトは自分の右肩を触る。
凍り付いたそれは戒めだった。守れなかった事実をこれから背負っていく為の。
右目も同様だ。彼女は無くしたそれを代償などと思っていない。それは、捧げたものなのだ。
目覚めた先で王子がもう一度笑えますようにと。もう二度と辛い思いをしませんようにと。願って捧げた、懺悔の貢ぎ物。
同時に。起きたくなかった”ロシュラニオン”を無理矢理導いた、傲慢さの象徴だとも少女は思っている。
その傲慢の結果は――残酷だ。
アスライトの脳内で、目覚めさせられた男の子が泣いている。
頭を抱えて、痛いと叫びながら。泣いて、泣いて、泣いて、起きた彼に笑顔はない。
「でも、”ロシュ”にはきっと、アスが必要なんだよ」
リオリスは足を止め、アスライトは少年の横顔を見る。足元を見つめる金色の瞳は、悩まし気な色をちらつかせていた。
「遠い距離じゃない、もっと近い距離の――隣にいてくれる人がいないと、駄目だと思う」
「それは私じゃなくていい」
「アスじゃないと駄目だよ」
リオリスはアスライトの手を握り締め、少女の言葉を否定する。アスライトは唇を噛み、閉塞感に襲われた。
「”ロシュ”の隣には、アスがいないと駄目だよ」
振り返った緑髪の少年は、眉を八の字に下げて笑う。
アスライトは彼の手を握り返すことを、微かに迷っていた。
「知ってるでしょ? アス……”ロシュ”は、花を育てなくなった。今はニアさんが育ててるって」
「……知ってるよ。剣を持つようになったことも。鍛錬場で、血豆が潰れるまで素振りしてることも」
アスライトはリオリスの手を握り締める。少女の肩は震え、脳裏に浮かぶのは笑わなくなった”ロシュラニオン”だ。
王子は温室に行かなくなった。王子の顔はいつも緊張が張り付いていた。王子の腕には青あざが増えた。王子は全く、笑わなくなった。
遠くから見守っていたから知っている。リオリスとアスライトは、見守り続けたから知っている。
目覚めたのは――彼らが知らない少年なのだと。
「アス、友達にならなくていいから、”ロシュ”の傍にいてあげようよ」
「リオ、」
「僕じゃ駄目だ、レキ兄でも、スノーだって駄目だった――アスじゃないと駄目だよ、やっぱり」
リオリスの肩は震えている。アスライトは少年の手を握り返し、深く深く呼吸することで自分を冷静にさせていた。
少女が近づけば、王子がどうなるかを痛いほど見てきたから。
彼は記憶を無くしただけではない。
無くしただけでは、ないのだ。
「それに僕、怖いんだ」
リオリスは微かに震える声を落とす。
片手で顔を覆った少年に、少女は問いかけた。
「……なにが?」
「……イセルブルーの事件を起こした犯人は、まだ、捕まってないもん」
リオリスは悔しそうな色を声に滲ませる。アスライトは肩に緊張を走らせ、目をゆっくりと伏せていた。
「犯人の目的は分からないよ……それでも、”ロシュ”が二度と襲われないなんて言う保証、どこにもない」
リオリスはアスライトの腕を掴み、握る手には力を込める。少女に縋るような少年は、緑の髪に顔を隠させていた。
「警護を強くしたって、規制したって、レットモルのみんなはキノなんだッ、力や魔法がないと防げないことだって絶対ある。また守れないかもしれないッ! それが、僕は怖くて堪らないッ」
リオリスの言葉がアスライトに刺さり、少女は目を開けた。それから彼女は少年の背中に手を回し、深く息を吐いたのだ。
深海の瞳が前を見据える。前だけを見据える。
正しくない感情を乗せて。愛すべき想いを抱いて。尊い気持ちを浮かべて。
「守るよ」
犯人は分からない。知っているのは記憶を奪う種族による犯行と言うことだけであり、その情報はサーカス団と王宮の一部の者にだけ報告された。ミールは黙っているつもりだったようだが、ガラが報告義務を求めた為に吐いたのだ。
それだけでも事件の見方は変わる。
イセルブルーの事件が起こったことにより、”ロシュラニオン”は記憶を無くしたのではない。
”ロシュラニオン”の記憶を奪う為に、イセルブルーの事件は起こされたのだ。
その状態で警備を強化したところで、同じ
「あの子を二度と、傷つけさせたりしない」
アスライトは決意を吐き出す。
自分が起こした少年。自分が導いてしまった少年。全てを忘れ、自分が誰かも分からず、王子になろうとする少年。
彼はもう”ロシュラニオン”ではない。
彼は”ロシュラニオン”になろうとしている、誰かだ。
アスライトは知っていた。ずっと見てきたから知っていた。
あの子は彼女が呼ぶ”ラニ”ではないと。
彼女が目覚めて欲しかった”ロシュラニオン”はもう――いないのだと。
「一緒に守ろう、アス」
リオリスがアスライトの手を固く握る。
少女は少年の手を握り直し、二人はお互いの瞳を見つめていた。
「守るよ。もう二度と、怖い思いをしないように。笑ってくれるように――幸せになってくれるように」
アスライトは”あの少年”を幸せにすると誓う。誰にでもない、己に誓う。
自分の傲慢さによって引き摺り起こしてしまった”あの子”を、幸せにしたいと少女は思うから。
彼女は彼女の心に正直に、自分への楔を増やすのだ。
――確認。誓いを破ったら、どうなる? 副団長
――お前に呪いが跳ね返るだけさ
* * *
鋭く研いだナイフを片手に、背中の真ん中まで伸ばした青い髪を掴んでいるアスライト。
少女は掴んだ一束にナイフを当て、迷いなく切り捨てた。
足元に散らばる深海の髪。それは切り落とされてもなお、美しかった。
ミールは、大鏡の前に立っているアスライトを見下ろしている。
「私、ちゃんと決めたよ、副団長」
アスライトは一束、一束と髪を切り落としていく。
「守りたいって思っても、あの子は倒れるから」
ミールは姿を映す瞳だけを開けている。
アスライトは奥歯を噛み、また髪を切り捨てた。彼女の頭の中には、滲んだ光景が浮かんでは消えている。
「私を近づけば、苦しめるから」
アスライトの足元に青が散らばる。乱雑に、憎らし気に。
「私の姿を見る度に、私の顔を見る度に、私のこの、髪と目を見せる度に、私がラニって呼ぶ度にッ」
――アスライトはレットモルにいる間、幾度となく”ロシュラニオン”を見舞いに走った。団員の代表にと背中を押されて、花束を抱えて。
友達でなくてよかった。いちサーカス団員としての厚意で終わらせるつもりだった。
しかし、”ロシュラニオン”が笑うことはなかった。
少年はアスライトを見る度に頭の痛みに泣いたのだ。
蹲って苦しむ彼をアスライトは見た。何度も何度も目に焼き付け、渡したかった花束は彼女の部屋に飾られていく。
団長のガラでも他の団員でも、勿論王宮に住まう者達でも”ロシュラニオン”の発作は起きなかった。
アスライトが現れた時だけ、”ロシュラニオン”は苦しんだのだ。
意識を朦朧とさせ倒れる少年は、いつも少女から目を逸らす。
アスライトはその度に泣いた。花束を落として。大粒の涙は枯れることなく、少女の心は悲鳴をあげる。
同時に、少女の頭には冷静な部位があった。
自分の誓い通り、二度と”ロシュラニオン”と友人になることはない。ならば近づかないと言うのが正しいのだ。
「副団長、言ってくれたよね。友達と言っても、話をしてはいけないってわけでもないって」
「あぁ、友達でなくとも話をするだろう。その関係が横か縦かと言うことだ」
アスライトはホルスターにナイフを仕舞い、ミールはその音を聞く。
少女の目には自分の決めた道しか映っていない。
「起こしたあの子は毎日苦しそうで、我武者羅で、見ていられない」
「そうか」
「私じゃ駄目なのに、リオは言うんだ。誰でもよくない。私に、あの子の傍にいてあげて欲しいって」
ミールはそれに相槌を打たない。少女は深く息を吐き、眼帯に触れていた。
「友達にならないくせに、あの子を苦しい道へ導いたのは、私だから」
ミールは膝を折り、青い少女と視線を合わせてみせる。
その覚悟を壊せないと知っていて、自分の声はもう届かないとも知っている。
アスライトの意思はどんな宝石よりも固く研ぎ澄まされたのだから。
「私が責任を取る。私があの子の道を守る。私が道を作る。あの子に安心して、幸せになってもらう為にも、私はあの子の傍にいる」
「アスライト」
「私、言ったよね、副団長。あの子の幸せの障害になる奴は、死ねばいいって」
アスライトは振り返る。青い髪を
右目を捧げ、左目でしか世界を見られなくなった少女に揺らぎはない。
変わる筈もない。変えられる筈がない。
謝る場を失ってしまった彼女は、謝ることを止められた彼女は、そうすることでしか自分を戒められないのだ。
それがどれだけ優しい周囲の配慮だったとしても、謝れなかったアスライトにとって、彼女は彼女を許せない。
「今一番邪魔なのは、
少女の左目に曇りはない。
曇りはないのに濁りがある。
ミールは言葉を探し、出来たのは、ただ思いを吐くだけであった。
「――助手がいなくなって、残念だ」
もう、誰にも少女を止められない。止めることなど許されない。
子どもの意志とは時に大人の心配を踏みにじり、一人で駆け出してしまうのだから。
「全部私が悪い。私のせいだ。あの日、あの時、ラニを守る為に立てなかった私が悪い。あの子を勝手な感情で起こした私が悪い。あの子を泣かせる、
少女に他者の声は届かない。どれだけ悪くないと言おうとも、彼女が自分を悪だと決めつけたのだから。
ミールは四本の腕を上着の中に仕舞い、大鏡の後ろからは針金のような男が現れた。
「お別れか、アスライト」
「そうだよ、ベレス兄」
イリスサーカス団道化師――ベレス・サーパンタインは笑っている。
シルマと言う種族の彼は体全てが針金のように細く、黒く、何にも傷つけられない固さを持っていることで有名である。
ベレスは真白にペンキを散らしたような模様の衣装を纏い、腕には別の道化師の衣装と白い仮面を持っていた。
それはベレスの物ではない。
それは、これから生まれる道化師の為の物だ。
「ベレス兄、アスライトは今日死ぬ。踊り子はいなくなる。欠員の補充として――新しい道化師を作って」
「――仰せのままに、一途な子どもの願いなら」
ベレスは鋭い歯を見せて口角を上げ、アスライトは仮面をつける。黒いカツラがついた、笑顔の仮面だ。
頭には鮮やかな二本の角がある帽子を。
体には、黒地に赤や黄色と言った鮮やかな彩色が施された衣装を。
そうすれば、踊り子も裏方助手もいなくなる。
青い髪を踏み躙り、少女は自分を殺していく。
覚悟で殺し、誓いで殺し、戒めで殺し、殺意で殺し、恨みで殺した。
彼女は「
「はじめまして、クラウン」
「はじめまして、ベレス先輩」
お互いに頭を下げる道化師達。
クラウンは決めていた。笑わなくなった少年を、笑えなくなった少年を、幸せにするのだと。
自分が道を作る。幸せになる為の道を整える。
それが責任。それが誓い。
クラウンは決めていた。自分の道を自分で決めた。
それは強固な覚悟と、こびり付いた罪悪感が決めさせたこと。
その日、イリスサーカス団から一人の踊り子が消えた。
それと同時に新しい道化師が生まれた。
陽気に周囲を笑わせる者の名は――クラウン
笑顔で踊り、笑顔で話し、笑いを振りまく、しがない道化師だ。
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