第3話 君との明日を疑わなかった


 ロシュラニオンが九歳になった年。


 子ども達が出会って二年が経った頃。


 彼らはよく笑い、よくはしゃぎ、よく遊ぶ、気の置けない関係を築いていた。


 遊び場は時に城内であり、時に街であり、時にテントであり、彼らが遊ぶ場所では必ず笑い声が響くのだ。


 例えば、街の一定エリアで行われるかくれんぼ。鬼は決まってアスライトが名乗り出て、勘の良い彼女に見つからないようにする緊張感は一種の冒険のようだ。


 城の中庭やテントの周囲に行けばレキナリスとリオリスとの鬼ごっこが始まる。二人の指先や口から吐き出される糸を躱すのは至難の業であり、キアローナ姉弟は悲鳴か笑い声か分からぬ声を上げるのだ。


 天気が悪い時には城の書庫へ。貿易の国らしく各国のお伽噺や図鑑がそこには収集され、子ども達は憧れに夢を語る。ランスノークは穏やかな声で絵本を朗読することもあり、ロシュラニオンにリオリス、アスライトは安心して眠ってしまう時もあった。


 子ども特有の高い声に種族は関係なく、耳にする者達を自然と笑顔にさせている。


 今日もレットモルには、子ども達の笑い声が響くのだ。


 * * *


 その日、ロシュラニオンの元を訪れたのはアスライト一人であった。


 王子は上着を羽織り、自然と少女と手を繋いでいる。


「アス、レキとリオは?」


「んー、レキがちょっと体調崩しちゃってね。リオは付き添い。だから今日は遊べないんだ」


「そっかぁ……ねぇ、お見舞い行っても良い?」


「勿論! ラニが来てくれたらレキも喜ぶよ!」


 満面の笑顔で跳ねたアスライト。ロシュラニオンは嬉しそうに笑みを咲かせ、控えめながらも少女と共に跳ねてみせた。


「アス、いらっしゃい」


「スノー! お邪魔してまーす!」


 廊下の向こうから歩いてくるのはランスノークとニア。


 勢いよく手を振る王女の横で執事は咳払いし、金髪の少女は悪戯っぽく舌を覗かせるのだ。


 アスライトは可笑しそうに肩を竦め、ロシュラニオンは姉に聞いている。


「お姉ちゃんもテント、行ける? レキが体調崩しちゃったんだって」


「レキが? 勿論行くよ、良いでしょニア。今日の課題もレッスンも終わったし」


「構いませんが、レキナリスの体調不良は持病のですか?」


 ニアは眉を下げながらアスライトに確認する。何か流行り病であるならば、王女と王子を行かせることがはばかられたからだ。


 勿論彼もレキナリスを心配しているが、執事の役割はそれなのだから仕方がない。


 理解しているアスライトは微笑み、ロシュラニオンと繋いだ手を揺らしていた。


「うん。今日は凄く早く動いてるみたいで、熱が出ちゃったんだ」


「そうでしたか」


 ニアは頷き、アスライトは笑っている。


 ――レキナリスは時折心臓の鼓動が変わる体質だ。


 時には早く早く鼓動して彼の呼吸を乱し、時には止まりそうなほど遅く鼓動して体温を下げていく。


 一日安静にしていれば落ち着く体質ではあるものの、突如やって来る息苦しさに悩まされる少年。それでも友人達と遊べることを何よりも楽しみにし、ステージに立てることにやりがいを感じている。


 その気持ちをアスライト達は理解しているからこそ、彼が動けなくなった時は寄り添おうとしているのだ。


「それじゃ私、熱さましの茶葉を持ってくね」


「僕、ネアシスの花を摘んでくる。沢山咲いてるから」


 それぞれ手を挙げたキアローナ姉弟。


 ニアとアスライトは穏やかに微笑み、王子は青い少女の手を引いていた。


「温室行ってくるね」


「分かった。ロシュ、アス、正門で待ち合わせね」


「分かった、お姉ちゃん」


「アスライト、ロシュラニオン様をお願いしますね」


「任せて!」


 元気に敬礼したアスライトの手を引き、ロシュラニオンは小走りに廊下を進んでいく。ニアとランスノークはその背中を見送り、厨房へと足を進めたのだ。


 アスライトだけが呼ぶ「ラニ」という愛称。


 嘘から始まった呼び名はロシュラニオンにくすぐったいような感覚を与え、だからこそ家族は「ロシュ」と呼び続けた。「ラニ」と呼んで良いのはアスライトだけだと、誰もが知っていたからだ。


 例えそれに、王子本人が気づいていなくても。


 いつ気づくだろうかと王と王妃の間では微笑ましい話題に挙げられているとも知らないで。


 ――温室とは、花を育てることが好きなロシュラニオンの憩いの場所。


 そこには異国の花々が適した環境で手入れされ、多様な花園と化しているのだ。


 アスライトも温室は城内きってのお気に入りの場所であり、ロシュラニオンは一つの花壇にある薄黄色の花を摘んでいた。


 アスライトは包み紙を準備して、王子の横に広げている。


「ネアシス、良い匂いだねぇ」


「うん。安眠効果があるから、レキの枕元にどうかなって。水をいっぱい入れた花瓶だと直ぐ枯れちゃうから、半分くらいで。そしたら、ひと月持つしっかりした花だし」


「素敵だ。流石ラニ。花のことよく知ってるね」


「全部図鑑で知ったんだ。僕はまだ、国の外に出たことないから」


 眉を下げて笑ったロシュラニオンは、まだ九歳。


 十二歳のランスノークは時折王と共に国外に出ることはあるが、ロシュラニオンは常に城に残るのだ。


 だから彼は外を知らない。温かな城と親切な国民しか知らない。鮮やかなサーカスと焦がれてしまった少女しか知らない。


 少年は、冷たさを、不親切を、暗さを、悪意を知らないのだ。


「じゃあ、ラニが外に自由に出られる歳になったら一緒に何処かの国に行こう! おいしい食べ物食べて、綺麗なモノ見て、その土地にいる誰かに会う!!」


 眉を下げたロシュラニオンから花を受け取り、アスライトは笑う。


 知らないことに陰りを見せた少年に、どうかそのままでいて欲しいと願いながら。


 どうかそのまま真っ直ぐ、少し引っ込み思案な可愛い王子であればいいと想いながら。


 少女はいつも笑顔だ。少なくともロシュラニオンの前では。


 サーカス団と共に何処へでも旅立ってしまう彼女は、多くの世界を知っている。多くの他者を知っている。多くの感情を知っている。


 年齢に似合わず少女が聡明であると王子は知っていた。


 彼女だけではなく、サーカス団員達は陽だまりのように笑いながら多くを知っていると、ロシュラニオンは分かっているのだ。


 それで良かった。自分が知らないことを知ってきた踊り子を尊敬する王子は、いつか自分も追いついてみせると決めていた。


 だから彼は楽しみにするのだ。手を引いてくれるアスライトが共に見ようと言ってくれた世界で、自分は彼女の隣に並ぶのだと。


「うん、行こう、アス。何を食べよう、何を見よう、誰に会おう! 僕、ちゃんと強くなるからね」


「今から沢山考えようね、ラニ。強くならなくても、私が守ってあげるよ」


「えぇ……僕、ずっとアスに守られるの?」


「ラニは私に守られるの嫌?」


「……悔しいから、嫌」


「そっかぁ。じゃあ、お互い強くなろう! そしたら自分も相手も守れるから、外に出たって安心だよ!」


「背中を守るってやつ?」


「そうだよ。ラニの背中は私が守ってあげる」


「僕は、アスの背中を守るんだね」


 視線を合わせたロシュラニオンとアスライトは、楽しそうに笑っている。鈴が転がるような二つの笑い声は温室に響き、染まった目元が愛らしい。


 未来を語る二人は、爪先が触れ合いそうな距離で手を握り合った。


 輝く明日を疑わず、目の前の友人が隣にいることを信じているから。


 陽光が降り注ぐ温室の中で、小さな子ども達は確かに夢を共有したのだ。


 そこにいたのは、尊い感情を抱いた者同士。


 未来を信じ、早く大人になりたいと口にする幼子達。


「これくらいあれば十分だと思う。ありすぎると眠りが深くなっちゃうから」


「了解! レキもリオも喜ぶよ!」


「そうだと、僕も嬉しい」


 花を抱えたロシュラニオン。アスライトは弾けるように笑い、二人は正門へと駆けたのだ。


 テントに見舞いに行けばレキナリスもリオリスも顔を綻ばせ、傍に着いていた団長も喜んでいた。


「ロシュ、スノー、ニアさんも。ありがとう」


「やぁリオ。レキ、元気そうでよかった」


「これ、お見舞い、だよ」


「わぁ、嬉しい!」


 癒しの茶葉とネアシスの花束を渡すキアローナ姉弟。リオリスは兄の背を撫でながら笑い、レキナリスは頬を染めていた。


 アスライトはロシュラニオンとハイタッチをして、ニアは団長と共に部屋を後にする。


 そこには子ども達だけの空間が出来上がり、リオリスとアスライトは茶を淹れる。


 キアローナ姉弟は花を生け、レキナリスは目を細めて笑うのだ。


「レキ大丈夫?」


「大丈夫だよ、ロシュ。スノーのお茶とロシュの花で凄く元気貰った」


「わぁ、良かった!」


 ロシュラニオンはレキナリスと手を繋ぎ、頬を染めて笑っている。


 それから子ども達は次の公演の話、サーカス団が行く予定の国の話、姉弟の話と様々なことを語り、レキナリスが眠り、次に目覚めるまで傍にいた。


 彼らはお互いを語り、夢を語り、笑ったのだ。


 尊かった。


 誰もが笑ってしまうほど愛おしいものだった。


 輝く子ども達に幸あれと周囲の大人達も願っていた。


 だが――それを壊すのは、酷く簡単なのだ。


 まるで蜘蛛の糸が切れるように。


 積まれた煉瓦が壊されるように。


 輝いていた明日に暗幕を引かせ、突然の閉幕を告げるのだ。


「おい!! 王宮が、王宮がッ!!」


「なんだあれ……ッ凍ってるぞ!!」


 それは、サーカス団が貿易から戻ってきたある日のこと。


 アスライトがキアローナ姉弟へのお土産を選んでいた時。


 街から声が上がり、悲鳴が上がり、団員達はテントから飛び出した。


 彼らは見る。北にある王宮を。


 黒い外壁の建国の印を。


 それを内側から貪るように破壊する氷塊はなを。


 窓を割り、壁を砕き、門を倒し、城内から勢いよく氷が幾重にも折り重なって出現する。


「ラニ……スノー……ッ」


 アスライトは呟いた瞬間、地面を抉る勢いで城へと蹴り進んだ。

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