第2話 出会いなんてそんなもの

 

 子ども達の出会いは二年前。


 七つだったロシュラニオンは、初めて見たアスライトのことを妖精だと思って疑わなかった。


 背中に羽根もなければ鱗粉を零すこともないが、それでも少女は少年にとって「妖精」だったのだ。


 彼は、布を掴んで客席に花弁を届ける彼女に釘付けだった。


 自由で、優雅で、それでも楽しそうに手を振る彼女がこちらを向かないかと期待して。けれども目が合ってしまえば頭が沸騰しそうだとも考えて。


 初めて見送りをされた時もロシュラニオンはアスライトの近くには行けなかった。行く勇気がなかったのだ。


 客席に落ちていた青い花弁を拾ってしまうほど魅了されていたのに、王子は姉の手を握り締める事しか出来ずに終わった。


「ロシュ、あの踊り子さん綺麗だったね」


 ランスノークが帰り道に話題を振れば、ロシュラニオンは顔を色づかせて首を縦に振った。それに姉は可笑しそうに笑い「また見に行こう」と約束したのだ。


 それから姉弟は何度もサーカスに足を運んで常連となり、最初に声をかけたのは見送り中のレキナリスであった。


「いつも来てくれてありがとう。可愛いお姉さんと、可愛い弟さん」


「あれ、覚えてくれたんだ。アートの人」


「うん。いつも嬉しそうに列に並んでくれてるの見てたから」


 ランスノークは微笑んでレキナリスと握手を交わす。ロシュラニオンは姉の後ろに隠れ、揺れる瞳二人の挨拶を聞いていた。


「俺はレキナリス。レキって呼んでね」


「ランスノークよ。私のこともスノーでいいから。よろしくね、レキ」


「分かった。よろしくスノー」


 十二歳のレキナリスと十歳のランスノークは、年齢に見合わない落ち着きを見せる。


 握手を解いたレキナリスは、自分の後ろに隠れている弟に声をかけていた。


「ほら、リオも挨拶しよ?」


 レキナリスに背中を押された深緑の頭の少年。


 彼は口をもごつかせた後、恥ずかしそうに両手を握り締めていた。


「ぼ、僕、リオリスです。リオって、呼ばれます。ぇっと、八歳、です。よ、よろしく、お願いします」


「よろしくリオ。ほら、ロシュも挨拶しなきゃ」


 緊張しているのが肌で感じられるリオリスに、ランスノークは笑って握手をする。


 それから姉は弟の背中を押し、ロシュラニオンは上着の裾を握っていた。


「ロシュラニオンです。七歳、です。ロシュって呼ばれるから、そう、呼んでくれたら、うれ、しい、です」


「よろしく、ロシュ」


「よ、よろしく」


 兄弟と握手をしたロシュラニオン。王子と緑髪の弟は視線を合わせると、握り合った手を何度も上下させていた。


「弟って恥ずかしがり屋な生き物なのかな」


「きっとそうだろうね」


 兄と姉は肩を竦め合い、年齢が近い弟達は照れたように手を握り続けている。


 その日から、ロシュラニオンはサーカスを見ると同時に、友達に会いに行くようになったのだ。


 けれどもやはりサーカスの公演を全て観られる筈もなく、予定が合わなければ我慢をすることになる。


 我慢することには慣れている姉弟であったが、サーカス団が貿易に発ってしまう最終公演だけは見たいと王子は考えていた。


 しかしその時の最終公演日はランスノークの予定が合わず、ニアや騎士達も同行することが出来なかった。


 必死に課題を終わらせて時間を作ったロシュラニオンは肩を落とし、ふと思い立ってしまったのだ。


(道は分かるし、公演もお昼だし、チケット代も持ってる……から、公演の時間だけ、なら)


 思い立てば行動してしまう無邪気さで、ロシュラニオンは城を抜け出した。


 一応自室の机に書き置きだけ残し、裏口から出て庭の茂みを隠れるように歩き、誰にも引き止められずにテントへと。


 それは一種の冒険のようで、ロシュラニオンは高鳴る心臓でサーカスへと走った。


(あの妖精の子と会えるのは今日が最後かもしれない。あの子は幻みたいに、消えちゃうかもしれない)


 子どもの想像力とは時に飛躍し、漠然とした確証なき不安を生むこともある。


 大人が予期出来ない純粋さに掻き立てられ、ロシュラニオンはテントに辿り着いた。


「あれ、ロシュ……今日一人?」


 チケットを販売していたレキナリスは、フードを被ったロシュラニオンに気付く。王子はしどろもどろに頷き、小走りにテントに入った。


 レキナリスは隣にいた弟と顔を見合わせて、それでも仕事を続けるしか出来ずに終わる。


 ロシュラニオンは罪悪感と高揚感がぜになった感情を胸に、一人で席に着いた。


 そうしていれば公演が始まり、ロシュラニオンの目の前には夢の世界が広がる。


 フードで顔を隠したロシュラニオンは目を輝かせてステージを見つめ、不意に彼が憧れて止まない青色で会場が満たされた。


 天井から吊るされた布に飛びつき、花弁を客席に送る踊り子。


 ロシュラニオンは少女の姿を目に焼き付けていた。目に焼き付けられればそれでいいと思っていた。


 けれどもその日、その時――ロシュラニオンに青い花弁が贈られたから。


 少年の心臓は今までにないほど跳ねたのだ。


 フードの下から見上げる赤い目と、踊り子の青い瞳が交差する。


 少女は楽しそうに笑って少年に青い花弁を降らせ、布の反動で舞台へと戻っていった。


 放心しているロシュラニオンは後の演目を覚えていない。客席にライトが点き、観客の波に流されるまま歩き出した所で気が付いたのだ。


 青い花弁を握り締めた少年は、周囲を見渡して首を傾げる。押されるまま外に出てしまった彼は、やって来た道から外れていたのだ。


 少年は群衆から抜け出し、テント傍の林に近づく。そこで深呼吸して城の方を見上げたが、どの道を辿ればいいのかが分からなかった。


 ロシュラニオンは急激に不安になる。


 彼はフードを握り、深呼吸を繰り返す。青い花弁は手から零れ落ち、少年は慌ててしゃがんでいた。


 膝をついて花弁を拾い、少年は立ち上がろうとする。


 不意に彼の背中には心細さが乗り上げ、視界を滲ませ、足を震えさせた。


「……お姉ちゃん、ニア」


 小さく呼んでも返事は無い。当たり前だ。ロシュラニオンは一人なのだから。


 肩を震えさせた王子は固く目を瞑り、必死に自分を落ち着かせようと試みる。


 レキナリスとリオリスの姿が少年の瞼の裏には浮かんだが、一人で勝手に取った行動に巻き込めないと唇を噛んだ。


「……ある、かなきゃ、お城、向こうにある。大丈夫、大丈夫だから」


 ロシュラニオンは自分に言い聞かせ、立ち上がろうとする。


 しかし少年は急に気持ち悪さを感じ、再びうずくまってしまうのだ。


 視界が滲んだままで自信が無い。どうにかしなければと思うのに方法が分からない。


 ロシュラニオンはフードを引いて目を固く閉じ、気持ち悪さが過ぎ去るのを待っていた。


「君、平気?」


 その時かけられた声に、ロシュラニオンは振り返る。


 見上げた先には、宝石のように美しい青髪と同色の瞳を持った少女が立っていた。


 だからロシュラニオンの心臓は、握り潰されるのではないかと思うほど痛くなったのだ。


「ぁ、ッ、き、君、ぁ、ぁの!」


「あ、よかった。思ってたより元気そうで」


 少女は笑い、ロシュラニオンは顔を熱くする。テントに振り返った少女は黒い上着とフードを纏った者に勢いよく手を振っていた。


「副団長、大丈夫そうだった~!」


 黒い団員は軽く頷きテントへ入って行く。ロシュラニオンは唖然とし、少女は少年の前にしゃがんでいた。


「副団長が教えてくれたんだ、蹲ってる子がいるから様子を見てこいって」


「あ、ぇ、っと、そ、っか」


「うん。ねぇ、君どうしたの? 名前言える?」


 小首を傾げて問われたロシュラニオン。その問いに、王子は口を結んでしまった。


 子どもでも、王族である自分が一人でいる時に本名を名乗って良いのかと。


 ここで「ロシュラニオン」や「ロシュ」だと名乗れば、自分が王宮から抜け出したことが知られると。


 少年は何度か口を開閉させた後、視線を泳がせながらフードを引いた。


「ら、ラニ……僕は、ラニ」


 必死に考えた呼び名を口にしたロシュラニオン。少女は顔を明るくし、満足そうに笑っていた。


「ラニか、良い名前! 私はアスライト。ラニ、さっきショーを見ててくれたよね」


 ロシュラニオンの顔に血が集まり、舌が上手く回らなくなっていく。


 アスライトは可笑しそうに肩を竦め、少年のフードの奥を覗き込んでいた。


「うん、やっぱりそうだ。時々金髪の女の子とも一緒に見に来てくれてるよね」


「し、知ってたの?」


「知ってたよ。あんなに一生懸命拍手してくれる子、覚えないなんて大損だ」


 アスライトは悪戯っぽく笑い、ロシュラニオンは口を結んでしまう。


 少年に纏わりついていた不安感は、少女が笑う度に拭われていた。


 アスライトは少年が握り締めている青い花弁に気が付き、目元を酷く和らげる。


「花弁ありがとう。ね、何か困ってるなら手伝うよ」


「ぁ、で、でも、ぁの、君だってすること……」


「良いんだよ。震えてるラニを放って戻ったら、稽古にも集中出来ないさ」


 アスライトはロシュラニオンの手首を握る。その壊れ物に触れるような優しさに、少年の視界は再び滲んでいった。


「ごめん、ごめんね。僕、ほんと、君にも、きっと家族にも、迷惑かけてる」


 涙腺が決壊し、大粒の涙を零し始めたロシュラニオン。


 アスライトは驚くことなく、ゆっくり少年の背中を撫でていた。


「子どもがすることに迷惑なことなんて無いって、団長が言ってたよ。子どもは育つ為に沢山のことをするべきだって。子どもがすることを褒めて、危なくないよう叱るのが大人なんだってさ」


 ロシュラニオンは目を見開き、アスライトを見つめる。少女は笑顔で少年の手を引いてみせた。


「ほら、まずは立とう、ラニ!」


「ぁ、ぅッ」


「君は何処に行きたい? もし一人で歩けないなら私が手を引いてあげる。レットモルの道ならぜーんぶ探索済みなんだから!」


 まるで太陽のように、弾ける笑顔を浮かべるアスライト。その表情にロシュラニオンは息を呑み、花弁を握り締めた。


 花弁を握る王子の手を踊り子は上から握り、ロシュラニオンは目を丸くしている。


「ね、ラニ」


 ロシュラニオンの涙は、いつの間にか止まっていた。


 少年は手を緩めて、アスライトも気づいたように手を握り直す。


 お互いの手の中に青い花弁を入れて握り合った二人は、顔を見合わせていた。


「何処に行きたいか、言える?」


 アスライトは穏やかに確認する。ロシュラニオンは暫く口を閉ざしていたが、少女がそれを急かすことも怒ることもなかった。


 王子は小さく震える指で、城を指す。


 踊り子も同じ方に視線を向け、目を瞬かせていた。


「お城……?」


「……おし、ろ」


 俯いているロシュラニオンと、彼が着ている上着を確認したアスライト。


 フードの内側に王族紋の刺繍を発見した少女は、仕方がなさそうに笑っていた。


「分かった、行こうラニ」


「ッ、うん」


 アスライトに手を引かれて帰路についたロシュラニオン。


 小さな二人が城に向かい始めたと同時、ニアや騎士達が城下を探し回っていたと子ども達は気づくのだ。


 なにせ王子の書き置きは〈すぐ戻ります〉だったのだから、城中大慌てである。


 ロシュラニオンは王と王妃に「心配した」と滾々こんこんと叱られ、ニアや騎士達も叱責されたと知った瞬間泣いた。


 少年は怒られたから泣いたのではない。自分の行動で他者に迷惑をかけたから泣いたのだ。


「ねぇねぇ王様、王妃様。ラニね、迷惑かけてごめんなさいって私の前でも泣いたの。自分で自分の事叱ってたよ」


 城の中まで同行していたアスライトは、泣いているロシュラニオンの頭を撫でている。


 王と王妃は顔を見合わせ、肩を竦めてしまうのだ。


「ロシュラニオン、私達がニア達を叱責するのは、彼らの仕事がお前やランスノークを守ることだからだ」


「でも、僕が、勝手な、こと、しなかったら、良かったのに」


 泣きじゃくるロシュラニオンに困惑するニアや騎士達。


 王妃は膝をついてロシュラニオンの頭を撫で、王も腰をかがめていた。


「いいや、今日のお前の行動で二つの事が分かったんだ。一つは、ロシュラニオンが抜け出せる隙が警備の中に存在すると言うこと。そして一つは、一人で城を抜け出せる行動力がお前にはあること」


 ロシュラニオンの肩を叩き、ゆっくりと微笑んだ王。


 王子は涙を零していた目を見開き、震える唇を固く結んだ。


 その隣で、王妃はアスライトの頬を撫でている。


「アスライト、ロシュの手を引いてくれてありがとう」


「いつもサーカス見てくれてる子だったし、困ってたから」


 少女は嬉しそうに顔を緩め、王妃も慈しむ微笑みを向けていた。


「優しい子。貴方がロシュに気付いてくれて嬉しいわ」


「褒められた。照れるなぁ」


 アスライトは思ったままを口にする。それに王妃は笑い、ロシュラニオンの方を向いたのだ。


「ロシュ、改めて自己紹介したほうが良いのではありませんか?」


 その言葉に、上着の端を握り締めたロシュラニオン。


 アスライトは王妃から離れて王子の前に立ち、少年はぎこちなく少女を見上げていた。


 踊り子は目元を下げてはにかんでいる。


 王子は口を開閉させ、差し出された少女の手に驚くのだ。


「改めて。イリスサーカス団の踊り子、アスライトだよ。アスって呼んでね」


 その笑顔にロシュラニオンは見惚れてしまうから。


 開いた口は暫く塞がらず、王も王妃も、見守っていたニア達ですら困ったように笑っていた。


「君の名前、教えてくれる?」


 アスライトは首を傾げて、手を差し出し続ける。


 ロシュラニオンは口を結ぶと、手を握り返して名乗るのだ。


「ろ、ロシュラニオン、です……ごめんね、ちゃんと名前言わなくて。連れて来てくれて、ありがとう」


「いいよ。ロシュラニオンが君の名前なんだね」


「うん……」


 ロシュラニオンは少しだけ考える。それから口を一度結び、アスライトの青い瞳を見たのだ。


「ラニって、呼んでね。アス」


 アスライトは少しだけ目を丸くする。それから、弾むような声色で頷いたのだ。


「分かった。ラニ、是非またサーカスを見に来てね」


「うん、行く、見に行く」


 それからはきちんと報告してサーカスに行くようになったロシュラニオン。彼はいつも、アスライトに釘付けにされた。


 見つければ近づいて、アスライトは跳ね回り、時間が合えば疲れ果てるまで遊んで過ごすようになった子ども達。


 少年はそれでよかった。彼女がサーカスと共に国を出る時はいつも部屋で涙したが、それは次の再会をより鮮やかにしてくれるから。


 必ず帰ってきてくれると言う確証の無い安心感が、王子にはあったのだ。


 アスライトに、レキナリス、リオリスを通してサーカス団員とも親睦を深めていったキアローナ姉弟。


 二人はよりサーカスが好きになり、サーカス団員達が好きになっていった。


「ラニ、今日は何して遊ぼうか!」


「何して遊ぼうね、アス」


 手を繋いで走り回る子ども達。


 温かな世界でアスライトとロシュラニオンは今日もお互いを見つめて、花が綻ぶように笑い合ったのだ。

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