地球でもっとも生息範囲を広げた種は人類である

新巻へもん

これは種の保存と拡散のため

 後ろで扉が閉まる。つばを飲み込む音が想像以上に大きく響いた。それにさっきから心臓が暴れ馬のように激しく胸郭の中で拡散と収縮を繰り返している。どくんどくん。振り返ると想像以上に近くにミキの顔を発見して、ますます動転してしまった。


 自分は耳たぶまで熱いのが自覚できるほどなのに、ミキはいつもと変わらないように見える。部屋の中を見渡すとスタスタと奥の方の扉に向かっていった。中をのぞき込むとすぐにこちらを振り向く。

「先にシャワー浴びていい?」


「ああ」

 かすれた声で返事をするとミキは扉の中に消えていった。しばらくするとザーという水音が聞こえ始める。俺は落ち着かなげに部屋の中をうろうろとする。大したものがあるわけじゃなかった。


 怪しいグッズの自動販売機とかそういうものは置いていない。キングサイズというのだろうかやたらベッドがでかいのと照明が妙にムーディなこと、部屋に窓がないことを除けば、ごく普通のシティホテルと変わらない。ヘッドボードにティッシュペーパーの箱が乗っていたりするのも違うかも。


 落ち着け。まずは深呼吸をする。この後、どういうふうに振舞えばいいか冷静に考えようとするが無理だった。ポケットの財布を取り出して、札入れの手前のスリットを確認した。薄いプラスティック製の包装が鎮座している。とりあえずは大丈夫だ。


 いや、大丈夫じゃない。この後、スマートに振舞える自信が全くなかった。何度か脳内でシミュレートしたものは全く思い出せない。ならば人生の先輩の知恵にすがろうとブックマークしたサイトにアクセスする。くそ。だめだ。カクヨムには健全なR15の小説しか出ていない。事前と事後の描写しかされてないじゃないか。


 カチャとドアが開いて、ミキがシャワーを浴びてほんのり上気した顔を覗かせる。

「次、どうぞ」

 体にバスタオルを巻いただけの姿で出てくると俺の視線を避けるように掛布団を剥いでするりと潜り込んだ。


 俺は役にたたないスマートフォンを放り投げるとバスルームに向かう。想像していたよりも広い。服を脱いで熱いシャワーを浴びた。頭から足のつま先まで念入りに洗いながらも、これからどうしたものかと無い知恵を絞る。どうしたもこうしたも、ここまできたら決まっているはずなのだが……。


 ミキとこういうことができたらな、と夢想したことはある。しかし、いざとなるとどうにも具合が悪かった。アルコールを追い払うように頭を振る。さっき飲んでる時もミキ相手に閏年の計算のことを滔々としゃべってしまった。まあ、歴史オタクなのは知られてるから問題ないにしても、あれはないよなあ。


 歴史か。そうだな。ホモ・サピエンスはアフリカの大地から全世界に散って行き、種として活動範囲を拡散させてきた。その間6万年。何世代も積み重ねてきて俺が今生きているわけだ。その間、何度も繰り返されてきた行為なのだから、俺にだってちゃんとできないわけは無いだろう。


 壮大なスケールの話に話をすり替えることで落ち着きを取り戻そうとするいつもの手口が功を奏したのか、俺は先ほどよりは動悸が静まってきた。シャワーを止めて、さっと水気を切るとバスタオルで頭と体を拭き、そのバスタオルを体に巻く。曇った鏡の向こうに決意を固めた俺の顔がぼんやりと映った。よし、いざ行かん。ミキの元へ。


 浴室のドアを開けるとベッドの方に歩み寄る。ミキは目をつむっていた。がっかりするような、ほっとするような気持になった途端にミキがパチッと目を開く。そして、とびきりのはにかんだ笑みを浮かべた。ついさっき構築した冷静さはあっさりと破壊され、俺の喉は干上がってカラカラになる。


 俺はふとんの端をちょっとだけ持ち上げ中に滑り込んだ。6万年、6万年。念じながらミキに顔を寄せる。無我夢中で唇を重ねると、アルコールとオレンジの香りが広がった。

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