エスの還る場所

森戸喜七

エスの還る場所

 大泉中尉率いる徴発班の、たった一人、銃も持たずに引き返してきた伍長が告げるには、班はゲリラに包囲され危機に陥っているということだった。急遽大隊から救援隊が編成され、石住兵長もその中に居た。石住たちが姿を現すとゲリラと小競り合いになったが、幸い撃退に成功した。アメリカ正規軍はもとより、敵対するゲリラと化した現地住民からの攻撃にも耐えられない程弱体化していた日本軍にとって幸運なことだった。

 ゲリラが遁走した後残されていたのは、川の畔で点々とする戦死体、石住の分隊が回収した小銃は銃床や木被に弾が掠っていて焦げ臭く鼻についた。打ち捨てられたトラックの車体下に隠れていた一人が助かっただけで、大泉も死体となって発見された。


「中尉殿」


 ぐっと押し込めた声に答えない大泉は、川に上半身を突っ込み死んでいる。濃緑色夏襦袢の背を天に向け、胸背部に紅い穴が数点空いていた。石住が部下と共に彼を引き上げ仰向けにさせると、ぽっかり開いた口から水が流れ出て、射し込む月明かりに顔が光った。

 石住はぼんやりその顔を見つめていた。弾が当たった時きゅっと目を閉じて絶命したのか、永遠に開かない瞼は重く黒ずんでいる。石住は瞼に指を添え舌打ちした。


―――こいつ、死んだ途端おとなしそうな顔しやがって―――


 昭和二十年六月、フィリピンルソン島北部山岳地帯でのことである。

 

 大泉が特に騒がしい顔をしていたというわけではない。ただいつも思い出されるのは、彼を初めて見かけた時。当時見習士官であった大泉清彦は、派手な週番懸章垂らして野戦帰りの荒くれ共にぎょろり目を向けた。彼は略帽を深めに被っていて眉毛はほとんど見えなかった。生意気そうな学生上がりの甲種幹部候補生、幹候を示す徽章を蔑んで「あの座金め」と文句を言い合う同年兵に、しかし石住は同調できなかった。

 大泉の、彼は学生上がりであったから、せいぜい高等小学校くらいしか出ていない石住たちに向ける眼差しにはあからさまに差別した光があった。それ故にか、士官学校出の優秀で割と気さくな中隊長の方が下士官兵から人気があった。また寡黙でもある性格からか孤独気味で、けれどもそのことを気に病んでいる様子もなかった。


 石住はその目の光に、彼の知りえない大泉自身の社会を見て、また、同い年ではあるがやけに子どもっぽいところ、それが少ない表情の変化から滲み出る内面をある時目撃して奇妙な親しみを持っていた。石住は間もなく少尉となった大泉の当番兵であり他の人間より彼の寡黙も孤独も一層感じ取っていたから、僅かに変わった顔つきが嬉しくてたまらなかったのかもしれない。


 当番兵となって二ヶ月、輸送船の手配がつかないからずっと内地で待たされ、ようやく野戦行きが決まった。最後家族との面会があるだけで下士官以下の外出はなかったのだが、家族の所在が遠い石住は面会がなかった。だからか、懇意にしてくれていた人事掛の准尉が公用外出を命じてくれた。遊びに行けと暗に含みを持たせてあった。

 街に出れば道行く出征兵士の後ろを妻子が従い、薄汚れた奉公袋を持つ手は痩せていた。皺が寄る在郷服の襟に上等兵の私物襟章、営門くぐれば現役の石住より立場は下になるかもしれないが彼はずっと歳上らしかった。

 昭和十九年四月、街に変わりはなくとも戦局の悪化は誰の目にも明白であり、石住ら将兵は、続々と入隊する老いすぎているか若すぎているか、またはこれまで兵隊に取られないはずだった体格不良の補充兵たちからそれを嗅ぎ取っていた。応召者の列が過ぎると溜息一つ吐き、金鵄煙草を取り出した。煙草の箱は省力化で落ちた色刷りのデザインで、不吉が纏っているような不快感を覚えた。


 なんやかんやと遊びまわり部隊へ戻る途中、角を曲がった古本屋で将校に出くわした。後ろ姿から見るにつけ、軍衣の太い袖章一本尉官か准尉で、背丈に覚えがあった。編上靴の鋲音に振り返った顔は大泉で、石住は思わぬ人物に敬礼した。知らぬ上級者なら敬礼だけして逃げればよいが、直属上官相手ではそうもいかなかった。

 

「勤務中異常ありません」


 公用腕章を着けているため、型通りの挨拶をした。大泉は何の公用かは問い質さず答礼し、泳ぐ目に、多少なりとも上ずる声を初めて聴いた。なぜいつもとは違った態度をとるのか解らなかった。


「ご苦労。面会はしなかったのか」

「自分の家族は遠いもので間に合わなかったのであります」

「そうか、気の毒だな」

「少尉殿のご家族は」

「俺の家族はここの近所でな、うん」


 咳払いするのがおかしい。そしてしきりに店内を気にしている様子だった。中には女学生が二人と機嫌の悪そうな店主がいるだけで、もしやと思った。女学生に気を置けない理由があるのかと。

 石住の予想は合っていたのだが、事情は少々違った。少女たちは顔を見合わせて笑うと大泉の前に来て本を差し出した。


「お兄様、この本にするわ。あら、お知り合い?」


 この少女は、大泉の小指が立ちそうな女性であるかと石住は考えたのだが、実のところ妹であった。石住が挨拶するより先に大泉が彼を紹介した。


「俺の当番兵だ」

「あら、そうですの。兄がお世話になっております」

「い、いえ。自分こそ少尉殿にはご迷惑ばかりかけております。石住上等兵であります」


 上品な挨拶に石住は頬を染めた。大泉の妹は結ったおさげを揺らして頭を下げると隣の友人も紹介した。


「大泉奈美乃です。こちらはお友達の真子さん」

「こんにちは」

「はい、こんにちは」


 こんにちは、と発するだけで石住の心は踊った。軍隊に入ってから民間地方の挨拶なんてしたことがなく、久々の習慣は甘く彼の心臓に浸透した。しかし照れるばかりで会話の糸口もなく、それっきりだった。二人に対して恋をした、という表現は必ずしも適切ではないが、似た感情を即席に抱いたのは確かである。奈美乃はにこやかに大泉の腹へ本を当てた。


「なんだ、こんな本か」

「こんなって、もうこのような本の出版は最近ないんだもの。いいでしょ?」

「真子ちゃんは?」

「私はお姉さまと一緒に読むからいいのです」

「そうか。なら買ってくる」


 大泉が店主の元へ持っていく本を一度見た。なんとまあ可愛らしい絵柄の少女が表紙を飾り、石住は自らの妹が持っていた本と作者が同じであると悟る。

 少女たちの同性との関係を表すという言葉を聞いたことがある。石住は、少女同士の友情であると認識していた。妹によれば実際はもっと違う意味も含むらしいが、彼にはよく解らなかった。妹は「誰某がエスを申し込んだ」と、自分の学校での出来事をはしゃいでいたものの、石住は奇妙な眼差しで眺めていた。

 奈美乃が大泉にねだったのはその類の本であるに違いなく、二人で一冊を読むと聞くと、ふと、妹の話したエスを思い出した。


「少尉殿、自分はこれで」


 本を買って戻った大泉に敬礼する。大泉は将校であるから基本営外居住であり、部隊では暮らしていなかった。だが答礼する大泉は石住の隣に立ち同行を促して、奈美乃に言伝した。


「俺は一度部隊に帰る。お前、母さんに言っておいてくれ」

「あら、夜遅くならないようにってお母さんが」

「夕飯までには帰る。任務があるからな」

「お仕事じゃしかたないわね。そう言っておくわ。では石住さん、ごきげんよう」

「はい」


 ご機嫌ようなんて言われてまた頬を染める。しかし「こんにちは」の言葉よりは些か自らの風俗から離れてしまっていて余韻に浸ることはなく、背を向けても名残惜しくはなかった。

 大泉は黙って少し前を歩いていた。いつもだって会話を交わすことはあまりなかったものの、様子は違っていた。大きく口元や目元に変化があるわけではないが、嬉々とした心をはちきれんばかりに輝かせていた。しばらく当番兵をしてきて、また彼の瞳に注目する石住にはよく判った。


「とても気立ての良いお嬢さんでありますな」

「そんなことはない。時局に関わらずあんな少女小説ばかり読んでいて困る」


 初めての雑談らしい雑談だった。素直な感想を言うと、大泉の表情は一層明るくなった。妹を褒められるのが大層喜ばしく感じるらしかった。気取ってか奈美乃を否定するようなことを言うも、その声はどこか半音高い。


「あんなにお上品で品のよさそうなお友達もいて、とてもお優しいのでしょうな」

「エスという関係だそうだ。本当は、あの子は奈美乃の後輩だ」


 大泉が実に自然な流れでエスと言ったことは、意外という感情からくる驚嘆は起こさず、ジワジワと石住の心をくすぐった。予測はしていないが期待通りといったしたり顔で、心地よいむず痒さだった。


「お姉様と言っていましたね、エスですか。妹が羨ましがりそうな話題です」


 石住がエスという言葉を知っていて驚いたのは大泉だった。変な声を上げることこそしないが、あからさまに目を見開いて歩みが一瞬止まる。加えて赤面していた。続けて向けられる、凡そ軍隊らしくない呼びで、石住はたまらなく嬉しくなった。


「君にも妹がいたのか」

「ちょうど少尉殿の妹さんくらいの歳です。もっとも、あんな上品ではありませんが」

「そうは言っても、君にとって大切な妹さんだろう。ますます帰宅できなかったのが悔やまれるネ」

「まあ家族ですから。しかし却ってよかったかもしれません。まもなく野戦行きでありますから」


 石住は二度目の野戦であるから、些か諦観含んだ乾いた口で言った。北支以来の戦友には、なまじ前線を知っているからあからさまに落ち込む者もいたが、彼の頭に浮かぶ、戦死体の銃痕空いた水筒から零れる水、どこぞの兵隊がやった強姦殺人死体の陰部に突っ込まれた棒、小銃抱えて寝てるのかと思ったら銃口咥えて自殺だった初年兵の火葬、思い出したところでおセンチになれやしない。

 ただ、野戦行きを大泉に仄めかしたことは、後々にもずっと後悔した。野戦に行けばいくらでも死臭纏うこととなったのに、内地にいる時に泣いた顔を見たくはなかった。涙を流したわけではない、少々頬を引きつらせて、それだけだったが、石住の目には確かに泣いて見えた。しかし一瞬で元の顔、無学を差別したような視線に戻すと、営門に着いて号令をかけた。


「歩調取れッ」


 大泉なんかよりよっぽど年季が違う動作で石住は、踵を高く上げて横の表情を感じた。コロコロ変わる本当に騒がしい顔してると、なんだかおかしくなって、込み上げる笑いを抑えるのに必死だった。


 この時を境により会話を交わすようになった。当番兵としては仕える将校とよく話す方であろう。戦地へ着いてしばらくすると石住は兵長、大泉は中尉に進級して、当番兵という任は離れたが、同じ大隊本部附であったから距離は大して変わらなかった。

 大泉は、大凡奇抜な本を将校行李に紛れ込ませていた。彼らが乗る輸送船は幸い撃沈を免れたものの行李を失い、しかしそれは防毒面を入れるはずの被甲嚢に忍ばせてあったから、常に側にあった。大日本帝国陸軍の将校にふさわしいふさわしくない以前に、当時の男からすれば軟弱どころでは済まない本だった。けれどもこの本は焚き付けにも供されず、先に炊爨の灯となったのは細切りにされた防毒面である。あらゆる地獄を煮詰めた戦場の中で、全く常識外の例外であった。


「中尉殿、読み終わりましたか」


 フィリピン戦域を統括する第十四方面軍司令部の所在するバギオに、いよいよ米軍が迫ろうとする頃である。戦争の決戦場は既に沖縄へと移り、味方の飛行機は永らく目にせず、味方の戦車も置き去りにされた前世代の中古を一輛見ただけ。要所バレテ峠での戦闘は決着が着こうとしていた。

 被甲嚢の芋と同居していたせいで頁の隙間が土埃まみれになっている、奈美乃に買い与えたはずの本を大泉は閉じた。彼の中尉を示す階級章が月明かりに光る。前の中隊長の遺品を譲り受けた物で、大尉の三つ目の星章が外された跡が小さく穴を空けていた。黙って差し出される本を石住は受け取り、指先一回で挿絵の頁を開く。彼が挿絵ばかりを眺めるものだから、該当頁にすっかり折り目がついていた。


「だらしのない顔をして。軍法会議ものだ」


 眼ばかりを爛々と輝かせて食い入るように挿絵を見つめる石住に大泉は言う。実際石住は飢え切った野獣の如く表情でいつも挿絵を凝視していた。女という女を長い間目撃していないから無理もなかったが、それは性欲から発露されるのではなく、少なくとも自分にとってはこの世から消え去ったはずの社会が挿絵の中にまだ存在していたから。湿きったジャングル戦の最中には、単行本の社会はあまりにも煌びやかに目に映った。

 大泉は澄ました顔で図嚢の整理をしている。その姿に石住は内心ニタリと嘲笑っていた。彼だけには、大泉が読後の余韻に社会を感じている喜びが具に判っていた。


「中尉殿、妹さんはよくこの本をお渡しになりましたなあ。お友達と大切に回し読みするものだとばかり思っておりました」

「慰問袋に婦人雑誌を入れていたことに拠ったそうだ。初めは断ったんだが、玄関に置いてあった行李の底に紛れさせていて、気づいたのは乗船後だ。まったくとんだ千人針だよ」

「しかし中尉殿、被甲嚢に移しておいてよかったであります。これまで負傷せずいられたのはこの御守りのおかげかもしれませんね」

「もっとも、マラリアばかりは妹の力が及ばなかったらしい」

「そろそろ発作ですか」


 石住はガタンと立ち上がった。マラリアのは周期的に起こる。地獄も揺れ動く悪寒と砂漠の渇きが起こるのだ。石住は当然の如く発作の把握に努めていて、水筒を確認し毛布に手を掛けた。大泉は「いいや」と空を払いのけるように手を振り、発作を否定する。


「来るとすれば明日だろう。しかし水はくれないか」

「はい」

「ありがとう」


 いつしか妹のから声をかけられた時のように、大泉の言葉は地方人じみていた。彼は割かしそのような言葉遣いだった。石住の他に誰か居れば必要以上に形式ばった言葉も使うが、それは予備士官であることを舐められまいとするからである。学生上がりの将校によくある傾向と違わない。

 石住にだけ発する言葉の特別さ、戦地にいてもどことなく地方を感じられる物言いが好きだった。


「独歩356大隊、大隊本部はこちらでありますか」


 突如としてかけられた声に聞き覚えはなく、入口に目を向けると見習士官一人と一等兵一人が立っていた。数ヶ月遅れで到着した転属者である。現地教育ということで戦地に連れて来られた幹候が、米軍上陸後しばらくして見習士官となり、ズタズタに分断された戦線それぞれの配属部隊へ向かっていた。その道程は過酷を極め、部隊へ着く前に命を落とす者も多々あった。

 声は知らずとも、石住は見習士官の顔立ちに覚えがあった。内地帰還の折見かけた、初年兵として入隊していた一人のはずである。

 大泉は瞬間将校の顔に戻ると水筒をタンと置いた。


「そうだ」


 見習士官と解隊された教育隊付であろう一等兵は、やっと到着したと明らかに安心して息を吐いた。見習士官は、紛失したのか持っているはずの軍刀を持たず、代わりの小銃を以て敬礼、捧銃ささげつつした。


「申告致します」

「大隊長殿は今お留守だ。申告は明日、大隊長殿がお戻りになってからにする。石住兵長、寝床を用意してやれ」

「はい」


 石住は立ち上がると見習士官と一等兵に宿舎へ案内する旨伝えた。見習士官は石住の言葉に頷くと、大泉に再度向いて挨拶を述べようとした。

 しかし彼は言葉を発しなかった。机の一点に視線が止まり、不可思議なものを見る目でをじっと見つめていた。出したままの件の本だった。この本を、直後焚きつけにでもする気で乱雑に扱っていたのなら、見習士官も興味が失せていたのだろうが、視線に気づいた大泉は慌てて大事そうに被甲嚢にしまおうとした。

 これがいけなかった。見習士官は明らかに嘲る気で口角を上げていた。きっと悪意はなかったのだろう、当時の世相からして男が持つにはあんまりにも軟弱な本、見かけて嘲笑することは自然だった。何の楽しみもない極限の戦場でこれを見つけることは、嘲笑によって微かな娯楽として昇華されるのだった。

 石住は見逃さなかった。彼は不自然な笑みの原因に気づくと急激な怒りを持って腕が伸びた。


「比島に女の本があるのがそんなにおかしいのかよう!」


 久々に喰らうビンタに見習士官は倒れた。彼にとって予想外な下級者からの暴力に、当然の如く階級によって対抗しようとした。


「貴様!上官に向かって・・・」

「おう来やがるか、四年兵に来やがるか!この野郎二年兵だろ、知らねえと思ったらふてぇ間違いだぞ!二年兵のくせして、デレデレしてっと承知しねえぞ!」


 もう一度肩を蹴り飛ばす。軍隊は階級ではない、食った飯の食器メンコの数がものを言った。それでも、年次の古い兵隊が若い下士官に反抗することはあっても、兵隊がタマゴとはいえ将校を制裁する事例は珍しかった。だからこの見習士官だって、入営時分いじめてきた古年兵を将校になり仕返しすることを心待ちにしていた。

 しかしごく短期間で染み付いた帝国陸海軍の悪習は、泣く子も黙る「四年兵」の語を耳にした途端薄暗い希望をなすすべなく打ち砕いた。見習士官は言葉に詰まるままに石住の暴力に曝された。


「やめろ石住!」


 大泉が石住の襟首を掴んだ。不正な暴力を振るう部下を前にしては少々遅い対応だった。石住は我に帰ると肩に息を弾ませて、プイと後ろを向くと居室の奥へ引っ込んだ。大泉は他の兵隊を呼んだ。


「おい、衛生兵を呼べ。それからこの二人を宿舎へ連れて行け」


 一等兵に立たされる見習士官は小銃を拾い、俯いたままもう一度捧銃をした。後は何も挨拶無いまま、やって来た衛生兵に伴われて本部を後にした。

 石住は急に後悔した。大泉だってこの見習士官と同じく甲種幹部候補生上がり、それに年次も石住の方が古い。何より古年兵の暴力性を見せてしまったことに、この若き学生上がりの中尉を怯えさせやしないかと、噴き出る冷汗を舐めた。


「石住兵長」


 名を呼ばれた。二人だけの空間には決して発せられることのなかった、階級が添えられている。石住は、最早地方人ではいられまいと不動の姿勢をとり「はい」と指先を揃えた。

 どんな叱責があるか判らない。中尉として大日本帝国陸軍将校として、叱られることを恐れた。せめて「大泉清彦」から叱られたかった。同じ叱られるにしても、上官部下という関係性より、個人同士として責めを受けたかった。

 目を閉じて次の言葉を待った。だが罵倒はちっとも始まらず、開けた口から空気が漏れ出るだけの拙い喘ぎ、その内嗚咽が混じった。


「・・・駄目だ。君を叱れない」


 目を開けると、大泉がぽたぽた 涙を流している。どんな感情よりも先に驚いた。石住は慌てて歩み寄ると抱くように肩に触れた。これもまた、こんな青臭いことを自然とできてしまった自身の不思議。

 まるで、突然泣き出す恋人をなだめる姿に似ていた。


「中尉殿、どうされたのですか」

「兵長である君は見習士官に手を上げた。上官への暴行を働いた君をは叱らなきゃいけない。でもそんなことできやしないよ」


 一人称は地方だろうと軍隊だろうと「俺」であると、石住は思っていた。軍人が俺というのは普通のことであったし。

 しかしこの期に及んで、本当の自分自身の呼び方を知った。少年らしく「僕」と呼ぶことを会話に用いられ、石住はたまらなくなり涙を流した。


「見習士官は僕の本を見つけて嘲笑した。馬鹿にしていることは痛いほどよく解った。それを、君は、僕があの本を持ち続けていることを守ろうとしてくれた。そうだな、石住」

「・・・はい、その通りです。あのような侮辱に耐えられませんでした」

「ありがとう」


 ぎゅっと肩を握る石住の指は強まる一方だった。「ありがとう」という言葉が甘く脳の皺一本一本を伝っていき、ピリピリ痺れた。

 これもまた新鮮な感覚だった。こんな死の転属先まで、行きつくとこまで来てあとは死ぬだけだっていうのに、新しい想いをくれたことに心の底から感謝した。


 照れくさくなったのか、大泉は鼻をぐずつかせるとすっくと立ちあがった。弾かれる掌が名残惜しく宙を舞うと、石住もまた踵を揃えた。


「しかし石住兵長、貴公が上官に手を上げたことに変わりなはい。よって制裁を与える」

「はいッ」


 ここでまた軍人として叱られようが、今更どうでもよかった。大泉との新たな体験に満足して、ビンタ張られようが営倉にブチこまれようが大したことではなかった。もっとも、こんな最前線に牢屋たる営倉は元よりない。


「石住兵長、貴公に下士官勤務を命ずる。制裁でもなく栄転になるが、貴公は下士勤を嫌がっていたからな。ちょうどいい、御国のために一層ご奉公せよ。人事の曹長には俺から話しておく」


 悪い意味で思ってもみなかった言葉だった。本物の下士官たる伍長の前階級である兵長、下士官勤務に就くことは多々あったが、石住は「面倒そうだから」と頑なに大泉を通して断っていた。抗議の声を一つ上げかけたが「命令だ」とニヤリ笑われると、おかしさ込み上げてもう何も言えなかった。

 懲罰の言い渡しはそこまでだった。大泉は椅子に腰かけると先程の口調で話しかけた。


「なあ石住、僕の持ち物を何か一つあげるよ。ちょっとした礼をしたい」

「礼だなんて照れますが、そうですか、でしたらこの本が欲しいです」


 伸ばしかけた腕に、慌てて本を取り上げた。無理もない、いくら秘密の共有者といえども、その可憐な正体を独占されるわけにはいかなかった。もちろん石住も冗談のつもりだった。


「これは妹から借りてるんだ。帰ったら返さなきゃ」

「でしょうね、すまなくあります。なら・・・」


 この場でもらっても構わないような物、予備は幾らでも欲しいけど生存に必要不可欠な飯盒水筒靴は論外、身分を表す軍刀も困るだろう。だったら、と脛を指差した。


「革脚絆をください。下士勤にさせるというんならいいでしょう。俺の巻脚絆と交換しましょう」


 革脚絆革ゲートル、これも下士官以上を象徴する装備の一つだが、軍装に義務付けられているわけでもない。包帯みたいな巻脚絆より着脱もしやすく風通しも良さそうだった。「脚絆ならいいだろう」と、大泉も外して与えようとした。

 しかし尾錠を外そうとする手を止め、しばしの間考え込んでいた。


「いや、凱旋の時にしよう。そしたら妹の許しも得て君にこの本を贈ろう」


 ニカと笑ってみせたこのセリフも非常識極まりなかった。凱旋どころか生きて還れるとも誰も思っていなかった。せめて死ぬ時だけは頭部貫通銃創か手榴弾自決の即死でありたいと願い、負傷のガス壊疽で文字通り身体が腐って死んでいくことだけを恐れていた。

 だけど石住は笑って返した。「約束ですよ」と呟くことに何の裏もなかった。エス小説を戦地で読み、持ち主の兄共々守ったことがもう奇跡であった。生きて還るという当たり前でなければいけない願いが、今更誰に咎められなきゃいけないのか。

 一装の軍服を纏ったピカピカの革脚絆で故国日本の土を踏み、大泉と奈美乃と真子の四人で小説の挿絵を眺めることを考え楽しくなった。まるで約束された週末を予感するように。


 大泉は死んだ。凱旋することなく、おそらく即死という贅沢な死に方で逝った。


 下士勤を命ぜられた石住は大隊隷下分隊の長となり本部を離れることとなった。まさか本部を離れるとは思わなかった大泉は後悔したものの名残惜しむ間もなく戦死した。回収された遺体はそれぞれ使える装備を剝がれ荼毘に付される。石住は迷わず革脚絆に手を掛けその場で脚に装着したが、将校も下士官も誰も文句を言わなかった。当時は無心で革脚絆を着けていてどうという感情も思い出せなかったが、後で仲間に聞けば、据わった目で只震えているのが異様で誰も声をかけられなかったということ。

 大隊本部に戻ると、残されていた被甲嚢には件の本が変わらず収まっていた。石住は瞬間周囲の無人を確かめると素早く自分の被甲嚢と交換した。彼にとって遺骨を手にすることよりも重要な儀式だった。

 歯を食いしばると身体がカッと熱くなった。別に大泉のことを思い浮かべたわけではない、が何かに必死になっていた。だがざわつく心は、被甲嚢を肩から下げると不思議と落ち着いた。しかし必死なことに変わりはなかった。


 何に必死になっていたのか判ったのは、復員のため輸送船に乗り込んだ時だった。

 大泉の死から三ヶ月経って敗戦を知り、山を下りた。例の見習士官は英語ができたため軍使となり、最初の米軍と接触したら相手は従軍牧師。牧師という職に、兵隊よりも理知的で話が解るのではないかと、護衛で着いてきた石住はぼんやり考えた。次には素晴らしく機敏な動作で白旗結わえた小銃を見習士官に押し付け、通訳を強要した。


「この脚絆と本は大切な人の形見だ。降伏すれば没収されるかもしれないから預かっておいてほしい」


 訳の解らぬ牧師は快諾はしなかったが渋々と引き受け、その後の収容所生活から戦犯容疑も晴れ、いよいよ復員という時に本当に返された。幾らかの実現性を以て託した物ではあったが、これもまた常識外の特例であろう。

 革脚絆巻いて復員船の甲板に上がると本を取り出した。ほっと身体が溶けていくような安心感から、この二つの物を守り通すことに必死だったのだと悟った。

 後ろから覗き込んでくる奴がいる。すっかり学生の顔に戻った見習士官で、前線に居る時よりよっぽど幼く見えた。ようやく暴行に対する非を詫びるもただ、「私の怒りは正当であると信じておりますが」と前置きがあった。

 

「まあ・・・そんな本もこれからどこでも読めるでしょうね」


 全ての非を認めたわけではない謝罪に些か不満そうに答えた。この返事に、もっと素直に喜びたかったと石住は思っている。


 俘虜になってからしばらくして日本との手紙のやり取りが許された。まず家族に書き、全員の無事に心から安堵した。次に大泉の家族へ。本の奥付に住所が書いてあり、牧師に預けてからも正確に覚えていた。しかし返信はなかった。大泉の実家がある土地に度重なる空襲があったことは、消息を調べてもらうように頼んだ石住の家族からの手紙で知っていた。更なる追跡はもう頼まなかった。

 本の還る場所は自分の目で確かめなければならない。覚悟はしないが何が起きていても動揺しないつもりでいた。


 昭和二十一年十二月、石住は日本の土を踏んだ。元原隊付近の駅で降りたが、見知った街はもう無かった。道端の戦災孤児と復員軍人に向けられる冷たい視線、焼跡に立ち並ぶバラックの群からは未だ焦げ臭さが鼻につくようだった。大泉の暮らした故郷の行く末だった。


 古本屋のあった商店街には闇市が立ち並び、本屋も幾つかあったがいずれも余所から流れてきた人間が生業としている。古本屋を訪ねるのは意味のない行為だったが、溜息吐いて本を出した。改めて大泉の住所を確認しようとした。

 闇市の本屋はその色褪せても可憐な表紙を見て「ええ本じゃないですか。これからは民主主義の時代だから読まれますよ。高う買いますから」腕を伸ばしたが、「やかましいッ」と石住に一喝されて引っ込んだ。彼にとって耐えがたいような不快だった。

 店の主人は疎開先で病死したとずっと後になって聞いた。継ぐ者もいなかったという。

 

 大泉の住所がある通りを見つけるのには骨を折った。空襲によって消滅した一角で元の地図から様変わりしていた。無数のバラックの表札を流し見て、表札が無ければ戸を叩き家人から大泉と名乗られることを期待した。

 何戸目であろうか。その内の一軒が、大泉家の顛末を知っていた。


「大泉さんねえ、ご主人も奥さんも、それに奈美乃ちゃんも、一緒になって私の後ろを走ってたのよねえ。ほら私、主人は警防団で出張ってて息子は三菱の動員先で夜勤だったから一人でねえ、心細いじゃない。大泉さんたちに気づいて、一緒に避難しようと振り向いたのよ。それがねえ、その時上をB29が通って、あとは焼夷弾の雨よ。火がすごくてとても後ろには戻れなくってね。でも避難先の学校にもいなかったし、焼け野原のここに戻ってもいなかったし、きっとねえ」


 型通りの挨拶を終えて玄関を出ると、雪が降り始めていた。ぽつり落ちる結晶が頬に溶けて、刺すような刺激がふわつく脚に力を入れた。やっと一歩踏み出してまた立ち止まり本を出す。こうして表紙を眺めることも、もう何の意味も見いだせなくなった。


「君を誰の許に還せばいいのかなあ」


 手紙の返信がない時点で理解していたはずである。最悪の事態が起きていても動揺しないだろうと思っていた。それでいて覚悟はしなかったのは、何か不思議な力が働いて、誰かにこの本を手渡せるのではないかと淡い期待を持っていたからなのか。

 動揺しない代わりに困った。親元の判らない迷子を連れているような焦りがあった。自分が持っていていいものではない、もっとふさわしい指で、今度は自分ではない誰かの幸福のためにページを捲られるべきだった。


「私をこの本は生かしてくれました。だから、今度はあなたが生きていってください」


 こんな台詞を吐いて、大泉亡き今誰かに繋げたかったのである。


 立ち尽くす石住の前を若い女が走り去った。彼女はずっと奥の家屋まで行くと息を弾ませて、呼吸を整える間もなく戸を叩いた。開いて応対される内容は聞き取れない、一言二言交わしたとみえるとピシャリ戸は閉じられた。明らかに気落ちした女はその場で俯くままに呆然としていた。

 今してきた自分の行動に似ていると石住は思った。彼女も誰かを探しているのだと察した。敗戦下の日本で尋ね人を求めるのは珍しくもない話である。現に彼自身がそうだった。

 しかし大泉の実家があったこの通りで、若い女が誰かを訪ねてきたということは、あまりにも辻褄が合い過ぎている。あの女は見覚えがあった。

 一度しか聞かなかった名前もすんなりと思い出した。


「あなた、真子さんですか」


 いきなり走り寄ってきた男に真子はギョッと顔を上げた。泣き腫らした目尻を赤く染めてまじまじと目の前の復員兵を見つめた。自分の名を知っている彼が誰であるのか、頭の片隅にだって居はしなさそうだが、おかしい、愛しのお姉さまの本を持っている。恋しい記憶を下士官外套の腕に携えている。


「清彦お兄さま・・・ではないですよね」

「自分は大泉中尉殿の部下でありました。あなたと奈美乃さんとたった一度お会いした時は当番兵でした。中尉殿は戦死致しました。しかし、でも、この本は」


 差し出される本を受け取ると、男のことは一瞬だけ石住を思い出すと、あとは奈美乃と過ごした時間が堰を切ってあふれ出た。


「戦地では癒しも何もないでしょうから、お兄様にこの可愛らしい本を貸すことを許してね、マコ」


 奈美乃お姉さまと肩寄せ合って読んだ大事な本、内容よりも彼女と過ごせた幸せな時間が愛おしくって、貸してしまうことに少々残念がったものの、ああなんとお優しいひとなのだろうと、見惚れた笑顔はいつだったか。耳を離れないあの可愛らしい唇で紡がれる自分の名が、苦みを伴う甘さで心を伝っていく。


 もう一度呼んで欲しいと願わなかった日はない。親の仕事の都合上満州に渡り、ソ連軍侵攻に及んで女は襲われるからと髪を坊主に刈った。死を覚悟しての逃避行は、再び伸ばした髪を奈美乃に結ってもらうことを夢見て耐えた。

 髪は伸びた。日本へも命からがら引き揚げた。しかし髪を結わえてくれる相手は死んだという。夢見ていたことを諦めるのは惜しい、一縷の希望を持って訪ねた奈美乃の住所には、見知らぬ家族が住んでいた。


 なにもかも終わったはずだった。奈美乃はこの世のどこからも消えて、二度と心に触れてくれることはないと、拒み切れない現実が襲いかかろうとしたとき、お姉さまは帰ってきた。


「おかえりなさい、お姉さま」


 本を抱き締めて泣きじゃくった。心底嬉しそうに涙する姿に、もう石住の言葉は要らなかった。自分が生きてこれたように、真子も生きていくことができる。充分だった。


「では」


 大泉と出会ったのがやはり軍隊であったから、挙手の敬礼で以て最後の挨拶を終えようとした。けれども、本当に石住と大泉が結びたがっていた関係は、軍人としてではないだろう。地方人に永久に戻る挨拶は敬礼ではない。略帽を取って頭を下げた。


 雪に濡れた革脚絆の尾錠が光る。石住は包まれる脛の温かさに満ち足りて、駅へと急いだ。

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エスの還る場所 森戸喜七 @omega230

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