Uの字の標識にご注意を
橘花やよい
Uの字の標識にご注意を
廃墟の街を歩く。
昔はここも、多くの人が集まる観光地だったらしい。
しかし、それも数十年前の話で、今はもうさびれて観光客の姿なんてなく、古びたホテルの残骸だけが残っていた。
そのホテルの墓場みたいな街を歩いていると、次第に深い霧まで立ち込めてきて、私はいよいよ前を歩く知人に声をかけた。
「ねえ、もう戻ろうよ」
「どうして?」
彼女は振り返りもしない。
「だって、どれだけ歩いたってボロボロのホテルしかないじゃない。散歩だっていうからついてきたけど、なにも楽しくないし」
「ねえ、Uの字怪談って知ってる?」
無視か。
私は盛大に舌打ちをしたが、彼女は意にも解さなかった。
彼女は無造作に伸ばした長い髪をゆらしながら、分厚い眼鏡の下で細い目をさらに細くした。
「もう、なんなのよ」
私はこの知人に朝から強引に連れ出されて、電車を乗り継ぎ、駅から十数分と歩かされていた。ため息だってつきたくなる。
一応、「散歩」とは言われていたのだ。だが生粋のオカルトマニアの彼女のことだ。やはり普通の散歩なわけがなかった。
彼女は弾んだ声でUの字怪談とやらの話をはじめた。
「ここはね、よく深い霧が立ち込めるんだ。人はそのせいで帰り路が分からなくなる。そんなときにね、突然Uターンの標識が出てくるんだ。すると人はね、やっと現れた道標に救いを求めて、とりあえずUターンをしようと、標識の通りに動く」
そう、ちょうどこんな看板だね。そう指さす先には古びた標識があった。
よくみる交通標識だ。
丸いフォルム。縁に沿うように赤い円が描かれ、その中にUの字を逆さにしたような青い矢印。どこにでもある標識だ。
でも、なぜか違和感を覚えた。
霧の中に突然ぬっと現れた標識。
「――ただの標識だよ。いたって普通の。怪談なんかじゃない」
「何を言っているんだい。これは本物の怪談だ。ほら、この標識をみると振り返って、歩いてきた道を戻りたいっていう思いがむくむくとわいてくるでしょう」
「標識見る前からそんな思いしかなかったけどね。ねえ、早く戻ろうよ」
「駄目だよ」
「なんでよ」
「Uの字怪談が怪談と呼ばれる由縁はここからなんだから。まあまずは話を聞いて。この標識に従って戻った世界はね、どこかが、違うんだよ」
彼女はにいっと笑った。
「違うって何」
「いろいろ。どこかが、微妙に、少しずつ、ズレた世界なんだ。たとえば、赤色が好きだと言っていた人が、青色が好きだという。辛いものが苦手だと言っていた人が、唐辛子をぱくぱく食べる。仲がよかった友達がどこかよそよそしい。顔見知り程度だった人間が親しげに話しかけてくる――。Uの字怪談に従うとね、そういう少しだけズレた世界にたどり着いてしまうんだ」
標識をみてごらんよ。
彼女は標識の矢印に指を這わせる。
「始点はここ、終点はここ」
矢印の左側、始点から指でなぞって、右の矢印の先端。
「始点と終点は重なっていないだろう。怪異に従ってたどりつく終点は、決して始点の世界ではない。ズレた別の世界なんだ」
いわれてみれば、たしかに、UターンのUは始点と終点が同じではない。
「だから、このまま私たちがUターンすると、たどりつくのは今まで自分たちがいた世界ではないんだ。些細なズレがいくつもある世界。一つずつは小さなことでも、いくつも重なれば恐ろしいだろうね。それはもう全くの知らない世界だ。知らない世界に自分だけ放り込まれる気持ちを考えてごらんよ」
「それは、最悪だわ。でもじゃあ、どうすればいいのよ――あ、いや、怪談を信じてるわけではないんだけどさ」
こんなの、どこにでもある標識だ。
知人はふふっと笑った。
「安心してよ。私はこの怪異の解決策を考えたんだ。今日はそれを試そうと思ってきたのさ」
そういうと、ポーチから青いペンを取り出した。そのペンで標識に何やらぐりぐりと落書きをしだす。
「ちょっと、落書きなんてしたら怒られるよ」
標識に落書きなんて、何かしらの法律にひっかかるだろう。
誰かにみられてはいないかと辺りを見回したが、幸か不幸か、霧ばかりで人影なんてない。
「これは怪談なんだよ。誰が怒るっていうんだい」
彼女は鼻歌まじりに作業を続ける。
「さあ、これでいいだろう」
しばらくすると、彼女は満足そうに鼻を鳴らした。
標識のUの矢印の空白だった部分。そこに青いペンで線が足されて、Oになっていた。
「なにこれ」
「Oだよ」
「それはみれば分かるけど」
「Uではなく、O。これで始点と終点は重なった。この標識であれば、もとの世界に帰れる。そうは思わないかい?」
「一休さんなの?」
まるで頓智だ。そんな子供だましで解決する怪異なんてがっかりだろう。
「さあ、戻ろうか」
「本気か」
彼女は振り返って、歩いてきた道を引き返す。私も仕方なく歩き出した。
別に怪談なんて信じていないが、なんとなく胸がざわつく。
絶妙に音がはずれた鼻歌を歌う彼女の後ろを歩くこと十数分。やっと見覚えのある景色がみえてきた。
「よかったあ、やっと帰れた」
「いいや、ここからだよ」
彼女はすぐに、あらゆる知り合いに電話をかけた。
好きな食べ物は?
好きな音楽は?
親友は誰?
矢継ぎ早に質問をする。その全てに、私たちが予想した通りの返事が返ってきた。
「完璧だ。ここは私たちが暮らしてきた世界だよ。ちゃんと帰ってこれた。これで私の仮説は証明されたわけだ。Uの字怪談は、Oの字にすることで無効化できる」
彼女はそういって胸をはった。
私は溜息をつく。
「あんなのただの標識だよ。私たちはただ、散歩して帰ってきただけじゃない」
「何言ってるんだい。あれは立派な本物の怪談だよ。だってあんな標識、この世には存在しないじゃないか」
「え?」
君は車を運転しないから知らないかもしれないけど、と彼女は笑う。
「赤い丸に、青い矢印。そして本当なら、左上から右下にかけて、赤い斜めの線が入っているはずなんだ。――転回禁止。それが本来の看板だ。私たちがさっきみたUターン推奨の赤と青の標識なんて、この世にはないよ」
ほら、みてごらん。彼女は道の先にある標識を指さす。
赤い丸に青い矢印。そして、赤い斜めの線。
赤い線なんて、霧の中でみた標識にはなかった。
いわれてみれば、たしかに違和感はあったのだ。
Uターン推奨の標識なんてない――。
「え、うそ。いや、でも、まって――」
「Uの字怪談、見破ったり!」
彼女の笑い声が高らかに響いた。
本当に、つくづくこの知人は人の話を聞かないのだ。
Uの字の標識にご注意を 橘花やよい @yayoi326
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