まがさす

円間

辞書の例の如く

 魔が差す(まがさす)

 魔が差すとは、悪魔にでも支配されたかのようなとんちんかんな行動をしてしまうことの意味。


 例「私は、まったくもって魔が差したように酷い寝相の悪さで寝ていた」




 私、叶妙子は彼氏の隼人とタクシーに乗っていた。

 タクシーは私達の目的地に向かって順調に走っている。

 タクシーがトンネルに入った。

 車内が薄暗くなる。

 私と隼人は、これから某自殺の名所まで行く。

 そう、私達は、これから死ぬつもりだ。

 事の発端は昨日だ。

「もう、死にたい」

 夜、私の部屋で隼人と二人で飲んでいる時に私は何げなく、そう呟いた。

 私は最近、仕事をクビになった。

 今まで心血注いで務めた仕事をクビ。

 最近の私はどうもツイてない。

 やることなす事、上手く行かない。

 そもそも、隼人と会うのも久しぶりだというのに、私の家でビールを飲むだけとか、もう、地獄の様な毎日としか言いようが無いだろう。

 私が言った一言に、隼人がこう返した。

「なら、一緒に死のうよ」

 隼人のその一言で、私はすっかりその気になってしまった。

 それで、今のこの状況である。

 昨日の夜は、二人で、どこで死ぬのが最適か決める事で大そう盛り上がった。

 隼人とあんなに話が盛り上がったのは久しぶりの事だった。 

「ねぇ、隼人。私、昨日、本当に嬉しかった。隼人が一緒に死のうって言ってくれて」

「あっ、ああ……」

 さっきから隼人の顔色が悪い。

 車酔いだろうか。

 タクシーがトンネルを抜けた。

「お客さん、もしかして、これから自殺かい?」

 白髪交じりの運転手がしわがれた声で話しかけて来た。

「ええ。これから二人で、目的地に着いたら死にます。ね、隼人」

「あっ、ああ……」

「そりゃ、いけませんよ! 自殺なんて、そんな事の為に私は運転なんて出来ません! 断じて出来ません!」

 運転手はタクシーを止めた。

「何で止めるのよ! 走って!」

 私は叫ぶ。

「ダメです、お客さん、ダメです!」

 運転手が手を高速に横に振って言う。

「なら、ここで死んでやる!」

 私は、ポーチから素早くカッターナイフを取り出すと、自分の首元に突きつけた。

「ひぃぃぃー!」

「た、妙子!」

 隼人と運転手が悲鳴を上げた。

「ほら、ここで死なれたくなかったら早く出して!」

 私は、イライラして喚いた。

 隼人が慌てた様子で「運転手さん、ここは言う通りにして!」と言うと、運転手は「はいぃぃ!」と泣きそうな声を出し、タクシーを走らせた。




 俺、工藤隼人はカッターナイフを振り回している彼女を何とかなだめると、冷や汗を手で拭い、天を仰いだ。

 タクシーが再び走り出し、某自殺の名所までの道を走り出す。

 ああっ、神よ。

 昨日の夜、死にたいという彼女に、酔った勢いで「なら、一緒に死のうよ」などと言ってしまったが、酔いが完全に冷めてしまっている今、俺は猛烈に死にたくなかった。

 帰りたい。

 来た道を引き返したい。

 どうにかして、彼女を思いとどまらせたい。

 いったいどうしたら良いのか。

 俺は車窓を眺める。

 窓に映る景色は灰色で、何を見てもくすんで見えた。

 と、俺の目の横をハンバーガーショップが通り過ぎて行った。

 ああ、そう言えば、今日は何も食べていない。

 そう思うと、お腹がすいて来た。

 彼女も同じで、何も食べていない。

 ああ、そうだ、さっきのハンバーガーショップ。

 あそこで、ハンバーガーでも食べながら、世間話でもしているうちに彼女の気も変わるかも知れない。

 俺は天才か。

 名付けて、最後の晩餐作戦。

「なぁ、さっき、ハンバーガーショップが見えたんだけどさ、死ぬ前に、良かったら行かないか? 妙子、腹すいてるだろ?」

 俺は、何げなく切り出した。

「あ、お客さん、良いですね、ハンバーガー。さっき見えたハンバーガーショップですよね? あそこ、おススメですよ。美味しいハンバーガーでも食べてお腹が膨れたら、きっと気分も明るくなって死ぬ気なんて吹っ飛んじゃいますよ。お客さん、Uターンしますか?」

 ハイテンションな様子で話に割り込んできた運転手が言う。

 ナイスフォローだ、運転手さん。

「はぁー? これから死ぬのに食べ物なんか食べてどうするのよ。バカじゃないの?」

 一刀両断。

 彼女の目は完璧に冷めている。

「だ、だよな」

 最後の晩餐作戦、失敗だ。

 その後の作戦も散々たるものだった。

 タクシーは快調に、目的地である某自殺の名所まで進んでいる。

 まずい。

 このままではまずい。

 俺はどうなるんだ。

 彼女はどうなるんだ。

 ええいっ、言うべきだ。

 自殺何て止めようと彼女に言うべきだ。

 最近の若い奴は、直ぐに死ぬとか殺すとか言っていけない。

 彼女にガツンと言ってやるのだ、死んでどうする、と。

 なぁ、妙子、と俺が彼女に声を掛けようとしたその時「ねぇ、隼人」と、彼女の方から俺に話しかけて来た。

「何だ」

「あんた、まさか、怖気づいてないよね」

「え?」

「もしかして、死にたくない、とか思っていないよね?」

「ええっ?」

「もしも、あんたが私を裏切ったら、私、あんたを殺して死ぬから」

 彼女が手に握るカッターナイフが鈍く光る。

「まままま、まさか、そんなはず無いだろ」

 俺は、何とか落ち着いたふりをして彼女にそう言った。

 ジーザス。




 私、今寺幸一、五十六歳、タクシードライバーは後部座席に乗る二人の客にヒヤヒヤしていた。

 とんでもない客を乗せてしまった。

 タクシードライバーとして勤めて、二十五年。

 無事故、無違反で真面目にやって来たというのに、私は何てツイてないんだ。

 この二人、あろうことか、私の運転するタクシーで自殺の名所まで向かっていやがる。

 こいつら、死ぬ気だ。

 あそこは見晴らしのいい崖だ。

 あそこから、二人で身を投げようとでもいうのか。

 そうと知りながら、車を走らせている私の立場は何だ。

 この状況を何とかしたいが、女の方がカッターナイフを握りしめていて、下手なことは出来ない。

 外部との連絡も「警察とかに知らせたら死ぬ」と言う女の脅し文句の為に出来なかった。

 それにしても、最近の若い奴は、直ぐに死ぬとか殺すとか言っていけない。

 私の心の中に、何とも言えぬ怒りがこみ上げて来た。

 ああ、赤信号だ。

 ブレーキを踏もうとして、私は、そうだ、と思い直し、横道に入った。

「ちょっと、何で横道に入るのよ!」

 女が騒ぐ。

「この道から行くと、近道なんですよ」

 私は、穏やかにそう話した。

「ふうーん」

 女は納得したようだ。

 この横道が近道だなんて言うのは嘘だ。

 本当はこの道から行くと遠回りになる。

 これで、少しは時間稼ぎができる。

 私はやる。

 この二人を説得して、自殺を諦めさせるんだ。

「お客さん、空、曇って来ましたね。こんな冴えない天気の日に死ぬなんて、あんまりじゃないですか?」

 私が、空に目をやりながら言うと、男が「本当だ。妙子、どうする? 今日は止めて、晴れた日にする?」と話に乗って来た。

 いいぞ、今日は諦めろ。

「お客さん、曇った日に死ぬことなんて考えちゃだめですよ。一度戻って日を改めて、よく考え直してからでも死ぬのは遅くないですよ」

 そうだ、我ながら、良い事を言うな。

「どうする、妙子。戻るか、ん?」

「お客さん、戻りましょう、ね」

 女は、しばらく無言だった。

 私は、息を呑んで、女の返事を待った。

「……よ」

「はぃ?」

「何だ、妙子」

「嫌よ! 私の心模様はいつだって曇りよ。天気なんて関係ないわ!」

「な、何ですか、それ!」

 私は呆れた。

「何ですかって何よ! 良いから、車を走らせて! 某自殺の名所まで急いで! じゃなきゃ、ここで隼人と死んでやる!」

 女が叫ぶ。

 男も叫ぶ。

「あんた達、勘弁して下さいよ!」

 三人の叫び声がタクシーに響く。




 某自殺の名所はすぐ目の前まで迫っている。

 今寺は、出来るだけゆっくりとタクシーを走らせていた。

 ここまで来る間、工藤も今寺も、叶の気持ちを変えようと、散々に努力をして来た。

 工藤が言葉巧みにUターンを促し、今寺が工藤の話に乗っかって説得をした。

 今寺は巧みな回り道を繰り返した。

 だがしかし、ダメだった。

 叶の自殺への決意を動かすリアクションを二人は全く取れなかった。

 そして、ついにここまで来てしまった。

 叶は無言で窓の景色を眺めていた。

 工藤は脂汗をたらたらと流している。

「私達、これでお終いね」

 叶が呟いた。

「そうだな」

 工藤がうなだれる。

 重たい空気に耐えかねた今寺が、飴の入った小さな籠を後ろ手に持って差し出し「お客さん、飴、どうぞ」と言う。

「そんなの要らないわ」

 そう叶は言ったが、工藤は「あー、じゃあ、俺は頂きます。最後の晩餐に」と言って、飴を籠から一つ摘まんだ。

 工藤は、飴の入っている袋にジッと目を止めている。

「なぁ、妙子」

 工藤が静かに叶の名前を呼ぶ。

 叶が工藤を見る。

 工藤は叶の方を向き、叶の目を見つめた。

「妙子、愛してる。結婚しよう」

 突然の工藤の台詞に、叶は唖然とする。

「いきなり何なのよ」

「いやさ、この飴の袋に、豆知識が書いてあってさ。赤いチューリップの花言葉は、愛の告白なんだってさ。そういや、俺、お前にプロポーズして無かったからさ。死ぬ前に、プロポーズしなくちゃって」

 そう言う工藤は照れくさそうだった。

「運転手さん、止めて!」

 叶の叫び声が車内に響く。

 言われるままに、タクシーを止める今寺。

 タクシーが止まると、沈黙の後、叶が口を開いた。

「本気なの?」

「何が?」

「何がって、結婚よ!」

「本気に決まってるだろ。この期に及んで何だよ」

「じゃあ、証明してみせて。本気だって事!」

「良いぜ、証明してやるよ。運転手さん、Uターンだ!」

「い、良いんですか?」

「良いに決まってる。これから、こいつの両親に挨拶して、で、それから俺達の婚姻届を出しに行く!」

「は、隼人……」

「妙子、もう文句は言わせねぇ。Uターンだ!」

 工藤は真面目な顔をしてそう言う。

「……隼人、分かった。戻るわ」

 叶の目から、温かい涙が落ちる。

 工藤が黙って頷く。

 今寺は、ため息をついた。

「本当なら、あんた達を殴ってやりたいところだけどね。さて、戻りますか」

 タクシーは崖の上で、見事なUターンを決めた。




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まがさす 円間 @tomoko4649

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