ネバー・ターン・バック・アゲイン
岳石祭人
ネバー・ターン・バック・アゲイン
米田欣二(まいだ きんじ仮名)44歳は苛立っていた。
渋滞にはまって1時間。先はまだまだ車の列が続き、のろのろ進んではまた長い間止まるのをくり返している。
助手席の妻は窓に頬杖をつき、止まるたび、あからさまにうんざりしたため息をくり返している。
後ろの席の子どもたち……7歳のお姉ちゃんと5歳の弟も、リアモニターでアニメのDVDを見ていたが、もう飽きたようで、
「ねえ、まだあ~?」
と10分も開かずに訊いてくる。
「うん。まだ掛かりそうだなあ」
と答えると、
「あと何分?」
と訊いてくる。
「そうだなあ、あと何分だろうなあ」
と濁すと、
「え~~、は~~や~~く~~つ~~か~~な~~い~~かなあ~~~~~~」
と要求する。
苛々する。
(だから早く出かけようと言ったんだ。それなのに)
込むから早く出かけようと言ったのに、見たいテレビがあると言って動かず、じゃあやめるかと言うと、ギャーギャー泣いて抗議する。
「そんな言い方しなくていいでしょう? せっかく楽しみにしてたんだから」
ねー?、と妻は子どもたちに味方する。
(だったら、早く出かけるように協力しろよ)
と思う。妻は妻で、長々化粧に時間を掛ける。文句を言うと、
「こっちは食事の後片付けとか洗濯とか忙しいんですからね!」
と怒る。だったら子どもたちがテレビ見てる間にしてしまえよ、のんびりお茶なんて飲んでないで……、と思うが、口には出さない。ただ、
苛々が、胸に溜まっていく。
港に南極観測船「しらせ」がやって来ている。
土日の2日間、一般公開して、船内の見学も出来るという。
たまたまテレビで広報番組をやっていて、それを見たお姉ちゃんが、
「行きたい!」
と言い出した。船内には本物の南極の氷があって、触れるんだそうだ。
欣二は面倒で嫌だったのだが、妻が、
「あら、いいわねえ」
と乗り、弟も
「行きたい行きたい!」
と、何も分からないだろうに、お姉ちゃんの真似をした。妻が、
「南極にはペンギンがいるのよお」
と余計な知恵を付け、子どもたちはすっかり
「行きたい!行きたい!」
の合唱を始めてしまった。
「しょうがないなあ」
と、土曜は用があったので、日曜に行くことになった。
そして、時刻は早、1時を過ぎている。
広い入り江を持ち、コンテナの積み降ろしをする大きな港で、広大な敷地を占めている。
しらせは入り江の一番内陸側のふ頭に停泊しているが、まだまだ、渋滞した国道のはるか先だ。
それでも、妻のため息と子どもたちの「まだあ~~?」攻撃に耐えてのろのろ進んでいくと、左手奥に、ようやくしらせのオレンジ色の船体が見えた。
「あっ、ほら、見えたぞ、しらせだ!」
「えー、どこどこ!?」
子どもたちも喜んで港の方を捜す。
「ほら、あそこだよ。見えるだろう?」
指さして教えてやると、
「えええーー…」
と、ガッカリした声を上げた。
「ちっちゃい~。ぜんぜんおっきくない~~」
「そりゃあ、まだ遠いからだよ。近くから見たら、すごくでっかいぞ?」
「えーー……」
お姉ちゃんはすっかりテンションだだ下がりだ。
「なんか……、テレビと違ーう……」
しょうがないなと思う。行って、近くで見ればまたテンション上がるだろう。……
……ところがだ。
「そうね。あんまり面白そうじゃないわね」
妻まで、もうすっかり興味をなくしたようで、投げやりに言った。
…… …… …… ……
どうして、どうして、女ってのはこう天気屋なんだ…… ……
欣二の胸に、怒りが湧き上がった。
今走っている国道と、左折してふ頭へ向かう道との、T字路が近づいて来た。
あと一息……300メートルと言った所か。
しかし、この分ではまだ何分かかることやら。
渋滞の車は、ほとんど左折していく。みんな、しらせを見に来た家族連れだろう。
ふ頭の手前に広い臨時駐車場が用意されている。そこに止めて、しらせまで歩いていかなくちゃならない。
車の列が少し動いて、止まった。もう少し、もう少し。取りあえずふ頭への道に曲がったら、止まっている間に妻と子どもたちを下ろして、先に歩いていってもらえばいい。歩道を歩いている人も多いじゃないか。
ふ頭の方から、自転車に乗った親父がやってきた。
右側通行で歩道をやって来て、歩行者がいるので諦めて自転車を降り、引きながらいっしょに歩く。
T字路をこっちに曲がって来て、車内の子どもたちを見て、歩いて来た道を振り返って、いかにも気の毒そうに聞こえるように独り言を言った。
「あーあ……、ここじゃあ間に合わないだろうなあ……」
欣二が顔をしかめると、おっと、と白々しく肩をすくめ、広くなった歩道を自転車にまたがってすいすい行ってしまった。
「なあに、あれ。ムカつくわねえ」
妻が言い、
(子どもの前でそういう言葉遣いするなよ)
と思いながら、おやじの言った言葉の意味を考えた。
(ここじゃあ間に合わない? どういうことだ?)
妻に頼む。
「ちょっと、これ、何時までか調べてくれよ」
えー、と面倒くさそうに言いながら、ささっと慣れた手つきでスマホを操作する。
「何時?」
「4時までよ」
現在……2時になろうとするところ……
「あ、待ってよ。中の公開は3時で締め切りだって。やっだあー、間に合うかしら?」
子どもたちが騒ぎ出す。
「え~~、お船、入れないの? 南極の氷はあ~~?」
「やだやだ、見たいい~~!」
わーわーぎゃーぎゃー。
「ちょっとあなたあ、間に合うのお?」
妻まで子どもたちと一緒に責め始める。
「俺に言ったってしょうがないだろう。この渋滞なんだから。なんならここからでも、おまえたちだけでも降りて、歩いていっていいぞ?」
「えー、まだ遠いじゃない」
「じゃあ、もう少し待て」
妻はあからさまにため息をついて座席に沈み込む。子どもたちはやだやだと騒いでいる。
ああ、苛々する……
…… …… …… ……
待てよ、と、ひどく嫌な胸騒ぎがする。
4時までの公開で、3時に締め切り。単純に考えて、船内を回るのに1時間くらいかかると言うことか?
そして、今2時。締め切りまで1時間。そして、この渋滞。
…… ……
今現在、船内に入る為に、どれだけの人間が並んでいるんだろう?………………
(「あーあ……、ここじゃあ間に合わないだろうなあ……」)
…… …… …… ……
「そうか、そういうことなのか……」
「え? なあに?」
「今から行ってももう、船内には入れないかも知れない」
「なによそれっ?」
妻は驚くべき反射神経で怒りをあらわにする。
「こんだけ待って、入れないって言うの? ふざけんじゃないわよおっ!!」
「お船、入れないの?……」
お姉ちゃんが泣き出すと、弟も泣き出した。
うええん、うええん、と悲しそうに泣いていたのが、やがてかんしゃくを起こして、ぎゃあぎゃあと、怒りを訴えるように大声で泣きわめく。
「ああ、ほら、泣かないの。あなた、どうすんのよ?」
妻も不満をぶちまけるようにドスの利いた声で言う。
「黙ってすごすご引き下がるんじゃないでしょうね?」
欣二は無言で車列と信号を睨んでいる。
じいっと夫を非難の目で見ていた妻は、はあっ、と大きく息をつくと、座席にふんぞり返った。
「あーあ、来るんじゃなかった」
(だから)
俺は言ったよな?、早く行こうって。
子ども向けのイベントはとにかく込む。
ト◯カも、トー◯スもそうだったよな?
朝一番で行かなきゃ駄目なんだよ。
渋滞に何十分もはまって、会場に着けばもう満員でごった返して、子どもたちはおもちゃの取り合いでわーわー泣いて。
ようやく入ったと思ったら20分もしないで、「もう飽きた」で出て、けっきょくイオンに行って、ゲームやって、買い物して、帰ってくるんだよな。
ああ、ああ、毎度そうだよな。
おまえらイオンが大好きなんだろ?
だったら最初からイオンでいいじゃねえか、ちくしょう!
わーわー、ぎゃーぎゃー。
妻はもうふて寝を決め込んでいる。
(俺だけかよ)
俺だけ運転させられて、あと何十分、この不愉快なドライブを続けなけりゃならねえんだ?
信号が青になり、一台左折し、一台、左折のランプを点滅させていたが、やめて、直進していった。すっかり空いた道路を、スピード上げて。
欣二の車の番になった。ずっと長い間、目標にしていた信号の。
欣二も左折ランプを点けていた。
左折しても、渋滞は続いている。
どうする?
考えて、ランプのレバーを起こした。
うんざりだ。
俺はもう、帰るぞ。
右ランプを点けて、グルッと、車をUターンさせた。
ドンッ。
Uターンしたところで、後ろから追突された。
欣二はエアバッグに受け止められ、ビックリした顔を上げた。
妻も同じく、目を大きく見開いて、蒼白の顔をしていた。
「だ、大丈夫か」
後ろを見ると、子どもたちもビックリして、真っ白な顔をしていた。あれだけ泣きわめいていたのが、一瞬で止まっていた。
欣二は自分の手が大きく震えているのに気づいた。面白いように震えて、止まらない。
ようやく追突した車を見た。若い男が、額に手をやって(クッソ)と悪態をついている。
こっちが見ているのに気がついて、睨んできた。
欣二はゾクッとして考えた。どっちが悪い? そりゃあUターンした自分が悪いかも知れないが、ここはUターン禁止ではないだろうし、十分距離はあるのを見てUターンしたんだ、あっちがスピードの出し過ぎなんだ!
「もう、何やってんのよ!?」
妻がキレて、わめいた。
「なんでUターンなんかするのよ? 引き返すなら引き返すで、先に行けばぐるっと回れる安全な道があるでしょう!?」
そうかも知れない。無理にUターンなんかしなければ良かったのかも知れない。
でも、先って、どこまで行けばいいんだ? 港の敷地はまだまだ続いているし、反対は……バイパスだぞ? バイパスの向こうに回って、どれだけ迂回することになる?
俺だってな、俺だってなあ、うんざりしてんだよ!……
ドアを開けて、ドライバーが降りて来た。自分の負傷具合をアピールするように額に手を当てて、思い切り顔をしかめて。
妻が喚く。
「どうすんのよ? あなた一人でやってよね」
フン、と窓の方に身を縮込ませる。
男がやって来る、
どこ見て運転してんだよ、馬鹿やろう!
と怒鳴りつける気満々で。
………… ………… ………… …………
ああ、苛々する、どうしようもなく。
欣二はシフトレバーをバックにすると、思い切りアクセルを踏み込んだ。
追突したセダンを後ろに跳ね飛ばした。
運転手が額のことも忘れて慌てふためく。
「て、てめ、な、何やって・」
「あなた、何やってんの?」
妻の声は非難より恐怖で震えている。
欣二はレバーを前進にすると、ハンドルを切り、ふ頭への道に入った。
事故を見物していた歩行者たちが驚いた顔で見送る。
「あなた、なに、やめてえーー」
妻が恐怖の悲鳴を上げる。
車は、渋滞の左レーンを無視して、右の対向車線を走っている。
欣二は思い切りクラクションを鳴らした。
「どけどけどけーーっ」
プププププー、プップップーーー、
慌てて避ける対向車が、避け切れず、
「どけーーっ」
欣二は斜めになった対向車の側面を突き飛ばし、ドアを凹ませ、車体を回転させながら、アクセルを踏み込み、スピードを上がるだけ上げた。エンジンが聴いたことのないものすごい音を上げる。ガンガン、車がぶつかっていく。欣二の車も左右にガタガタ揺れた。妻が悲鳴を上げる。子どもたちも悲鳴を上げる。欣二は笑った。
「わはははははは。陸の砕氷船だ! おらおらおら!」
ガンガン車をぶっつけ、弾き飛ばしていく。
駐車場に突入した。
警備員が「止まれ! 止まれ!」と停止させようとするが、その気の全くないスピードにおののき、必死に避けた。
「ほら、見ろ。しらせだ! でっかいだろう?」
ずんぐりとも思える巨大なオレンジの船体が、ぐんぐん迫ってくる。
やっぱり、全然間に合わなかったのだ。
船内に入場する、上部への長いスロープには、船体に沿って、長い人の列が出来ている。
今並んでいるだけで、もう時間いっぱいだろう。
「大丈夫だ。父さんが、しらせに乗せてやるぞ!」
欣二はスロープ目がけて一直線に車を走らせた。
「あなた、やめてえーーーーーーーー」
妻が叫び、後ろにのけぞった。
・・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・
ギイイイイイイイイイイッッ・・・・・・・
車はタイヤから黒い煙を噴きながら滑り、スロープに突っ込む寸前で止まった。
欣二はハンドルを硬く握り、肩を怒らせて、ゼエゼエ、息をついていた。
気がつくと、座席に張り付いた妻が恐ろしい顔で自分を見つめ、後ろの子どもたちはしくしく泣いていた。
欣二は辺りを見回した。
危うく轢かれかけた人たちが腰が抜けたような恰好をして、恐ろしそうに欣二を見ていた。
後ろを振り返れば、自分が跳ね飛ばして来た車が、あっちこっち、また周りの車にぶつかって、惨憺たる有様だった。
皆、欣二を恐ろしそうに見ていた。
欣二自身、ルームミラーに自分の顔を見て、ぞっとした。
「あ、あなた……」
妻が弱々しく、努めて優しい声で、呼びかけてきた。
「落ち着いて。ね? 大丈夫だから。ね?」
「何が」
「え?」
(何が大丈夫だって?)
こいつはいつも、その場その場で適当なこと言いやがって……
(大丈夫じゃあ、ねえよな)
ミラーで背後の様子を見て、笑いたい気分になった。
「降りろ」
「え?」
「降りるんだ、三人とも。早く」
妻も子どもたちも、大人しく車を降りた。
「き、君。エンジンを切って、降りて来なさい」
警備員たちがじわじわ迫ってくる。警戒しているが、顔には激しい怒りがはっきり表れている。
欣二はギアをバックに入れ、アクセルを踏んだ。わあっという悲鳴と、この野郎!という怒声がわき起こった。
欣二はギアを前進に入れると、ふ頭の岸に沿って走り出した。並んでいた人々が悲鳴を上げて逃げた。
ぼろぼろになった車はもうさっきまでのようなスピードは出ない。
欣二はアクセルを踏み続ける。
ふ頭の先端が迫るが、それでも踏み続ける。
俺はもう、二度とUターンなんかしないぞ。
泣きながら、それでも最後の男の意地を通した。
END
ネバー・ターン・バック・アゲイン 岳石祭人 @take-stone
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