あやかしカフェの常連客

久佐馬野景

あやかしカフェの常連客

「つまりですね、妖怪というものは存在しないんですよ」

 コーヒーの香りが漂う薄暗い店のカウンター席で、草臥れたジャンパーとダボダボのチノパンといういつものスタイルでくだを巻くのは西田さん。お出ししているのはいつものアイリッシュコーヒーだ。まだ半分も飲んでいないのに、彼女はすっかりぐでんぐでんに酔っ払っている。

 私はまたいつもの話が始まったと、微笑みながら隣のアカシタさんにお出しするガス入りミネラルウォーターの栓を抜く。

「あはは、西田さん。またその話ですか。私は無学なもので、妖怪というものがどういうものなのかもよくわかっていないんですけど」

 アカシタさんがいつもと同じ相槌を打つと、西田さんはカップに手をかけて口には運ばずにぐったりと倒した頭の横に持ち上げた。

「その話はいけません。いけませんよぉ。妖怪の定義論は現状小松和彦の唱えたものが主流になってますが、それだってカバーできない範囲は多分にあるんです。私の手には負えません」

「しかし西田さん。あなたはどうしていつもその話をするんです?」

 おっと、と私はギョウブさんとキンチョウさんのお会計をしながらつい耳をそばだててしまう。アカシタさんがこの話題に踏み込むことは長い常連同士の付き合いの中でも初めてのことだった。

「このお店、匂いが似てるんです」

 西田さんはとうとう頭をカウンターに突っ伏すように倒して、話も半分寝言になりかけている。

「よく晴れた昼日中。私は雨に降られながら星を見たんです」

 それだけ言うと、西田さんは完全に寝入ってしまった。

「アカシタさん、よくないですよ。ひとのプライベートに踏み込むのは」

 私は厨房側から出てくると、カウンターに倒れて寝息を立てている西田さんに毛布をかけてやる。

「あはは、だって気になるじゃないですか。どうして人間がこの店に訪れているのか」

 アカシタさんは鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に描かれた赤舌という妖怪だ。黒い雲に全身を隠し、鋭い爪の生えた手と、大きく口を開いて舌を伸ばした顔だけを出している――という描かれ方をされている。その下には開かれた水門が描かれており、そのことから水を司る妖怪として扱われることが多い――というのは、西田さんに教えられた知識だ。

 西田さんは常連仲間のアカシタさんを、妖怪としての赤舌とは認識していない。

 西田さんはこのカフェに訪れる、ただ一人の人間のお客様だった。

 ここは人間の立ち入る場所ではない。昔からずっとそうだった。訪れるのはあやかしたちだ

け。いわゆる「あやかしカフェ」である。

 だけど西田さんはそのことを知らない。彼女の目には、周囲のあやかしたちはみな、自分と同じ人間に見えているのだろう。

 そうとは知らず、この曖昧な空間に迷い込み、いつの間にか常連客になっている西田さん。そしてどうやら在野で妖怪の研究をしているらしいということを、アイリッシュコーヒーで酔っ払うといつも話し出す。アカシタさんだけでなく、常連のみなさんもなぜこんな人間がこのカフェの常連なのか、ずっと気になっていることだろう。

「このカフェは来るもの拒まず、代金をお支払いいただければ去るもの追わずという経営方針ですので。人間の方でも、お客様ならお客様として扱いますよ」

「ほう。どうにもそうは見えませんけどね」

 アカシタさんが私に向ける目を細める。私は穏やかな微笑でそれに答える。

「いけませんね。狐はどうにも読めません。狸のほうがまだわかりやすい」

「ふふ、ギョウブさんたちが聞いたらきっと怒りますよ?」

 アカシタさんを含めたお客様たちがみな帰った店内。私は西田さんの隣――いつもアカシタさんがかけている席に座って、深い寝息を立てている西田さんをじっと見つめていた。

 私が嫁入りをすることとなった昔のことである。

 人間の立ち入りを完全に遮断した土地を持つ私の一族は、存亡の危機にあった。一人娘の私を嫁に捧げねば立ち行かないほどまでに困窮していた。

 人間に汚染されていない土地――あやかしたちにとっては喉から手を出すほどほしいその財産を持つ一族と婚姻関係を結ぼうとする相手はいくらでもいた。私は家の存続のための手駒として使われることとなった。

 野狐たちが盛大に雨を降らす中、私の嫁入りは始まった。傾いているとはいえ家柄だけには固執している私の一族が用意した花嫁行列は、それは見事なものだった――と聞いている。

 晴天に降り続く雨の中、私を乗せた輿は相手の家の土地までゆっくりと進んでいく。

 その時である。私の輿の前に、幼い娘が転がり出た。

 花嫁行列は騒然となった。娘はあろうことか人間であった。

 人間があやかしの嫁入りを目にすることなど、家名に大きく傷がつくほどまでに不吉な徴であった。相手方に知られればその時点で破談となりかねない。

 協議の結果、娘には巌に口止めをして里に帰すこととした。つまりはこの凶兆を全くのなかったこととして流してしまおうとしたのである。

 幸い、娘はあまりに幼い。目にしたものを正確に伝えるだけの口はないし、時を経ればただの夢であったと結論づけるであろう。転んで怪我をした娘を手当てしている私の耳に、一族のそうしたはかりごとが聞こえてきた。

 さて花嫁行列が何事もなかったかのように相手方の土地に着くと、相手方はまずこちらの用意した持参金の確認に移った。嫁入り道具に結納品をそのまま持ってきたもの――それらは全て書面に纏められており、それらと照らし合わせて間違いがないかと確認をする。

 厳重な確認作業の結果、こちらが用意したはずの紗が一枚なくなっていると騒ぎになった。オシラサマのもたらした蚕の糸で編んだそれは、一族の持つ財産の中で最も大きな価値を持つ逸品であった。

 相手方は大いに怒り、縁談はそのまま破談となった。この悪い噂は大きく広まり、以降私の一族に婚姻を申し込む相手は現れず、そのまま一族は私を残して消えていった。

 私はただ一つ残された財産である禁足地にカフェを建て、それから毎日ここでこうしてお客様をもてなしている。

「ん……ああ、すみません。寝てしまって」

 重そうな頭を起こして、西田さんが目を覚ます。私はいえいえと笑い、厨房側に戻ってコップに水を注いでお出しする。

「すみません……頭いたっ」

 二日酔いならぬ一日酔いである。それもアイリッシュコーヒーをカップ一杯も飲みきらないうちに前後不覚になっている。まるで酒が駄目なはずなのに、西田さんはこのカフェに訪れると必ずそれを頼む。

 からからになった喉を鳴らして水を飲んでいく西田さんを見ながら、私はあの時と同じ笑顔を浮かべる。きっと彼女には、優しい慈愛に満ちた笑みに映っているのだろう。

「あれ、みなさんもう帰ってしまいましたか? ひょっとしてもう閉店時間?」

「いえ。お店はまだ開けてます。暗くなってからいらっしゃる方もいますから」

「そうですか……でもあんまり長居するのも悪いですし、もう帰らないと」

 立ち上がろうとした西田さんは、大きくよろけて椅子に足を引っかける。私はカウンター越しに慌て、座っていてくださいと落ち着かせる。

 すみませんと謝って椅子に落ち着く西田さん。私はもう一杯水を注いでお出しする。

「西田さん、妖怪がもし存在するとしたら、カフェはできるでしょうか?」

「なんですか、それ」

「たとえばの話ですよ。カフェを経営しているものとして、ちょっと気になって」

 二杯目のコップを干した西田さんは、まあ妖怪は存在しませんが――と前置きをしてから話し始めた。

「無理でしょうね。まず妖怪と人間では形状フォルムが違いすぎます。無論、人間に近しい姿をしたものも多いですが、それ以上に妖怪の姿はめちゃくちゃです。旧鼠や鎌鼬のように動物の名のつく四足形ならまだマシなほうで、首だけが飛んでいる舞首に姥が火、人らしい部分より車がメインの朧車や片輪車。サイズ感でも体内にいるとされる『針聞書』の腹の虫から、山を跨いで海で手を洗う手洗鬼と、大から小までバラバラです」

 疲れた口調ながら、饒舌さは変わらない。私が差し出した三杯目の水をまた一気にあおると、西田さんはふと遠い目をして私の顔を見つめた。

「でも西田さんの話だと、妖怪はみんな、人間が想像したものだというじゃないですか」

「当たり前です。全ての妖怪は創作物に過ぎません」

 そう。だからこそこの禁足地はあやかしどもに羨望され続けた――あまりに無意味な土地なのだ。

「じゃあ、もしも妖怪を妖怪として想像できない人間が一人、カフェの常連になってくれたら」

「面白いアイデアですね。その一人の想像力の及ぶ範囲でしか妖怪は姿を保てない――と言いたいところですが、それは難しいでしょう。世間には無数の人間の想像力が働いています。それらが作用し合い、どうあっても妖怪を妖怪たらしめてしまうでしょう」

「そうですか」

 私はがっかりとした顔を作る。

 ああでも、あなたはそれを可能にしているのですよ。

 ここは過去、誰ひとり人間の立ち入ったことのない土地。この土地には一切の人間の想像力が及ぶことがない。

 そう、あなたを除いて。

 ここはあなただけの想像力で描かれる白紙のキャンパスなのです。そしてあなたの想像力は――とてもわかりやすい。

 神秘体験が人間にもたらすものは、なにもそれに迎合する考えだけではない。人は時に自分に大きく影響を与えた体験を、必死に否定しようとする。

 よく晴れた昼日中。雨に降られながら星を見たあなたは、私が与えた一枚の紗を持って里へと戻っていった。

 私は自分の一族が滅び去っていくのを眺めながら、同時にずっと、あなたを見ていたのです。

 あなたは真っ当に育っていった。真っ当すぎるほどに。記憶に焼き付いた狐の嫁入りを自らの手で紐解こうと試み、結果として妖怪の実存を否定するしかなくなった。あなたが頼りにした学問では、妖怪は分析し解体し選別する対象でしかなかったから。安易なスピリチュアリズムに逃げるような弱さを、不幸にもあなたは持ち合わせていなかった。

 だからあなたに、このカフェの常連客になっていただいたのです。

 かつて人の訪れたことのないこの土地で経営を始めたカフェ。あやかしを相手に商売をするのは、あなたの言った通り難関ばかりが立ちはだかる。

 だけどあなたが、妖怪を信ずることのないあなたがこのカフェの常連客である限り、ここではあなたの常識が見事に敷衍される。

 あなたという常連さえ囲っていれば、姿形の異なる相手に合わせて内装やメニューを試行錯誤する必要はなくなる。全てはあなたの想像力の下、みな一様にあなたと同じ人間としての形状でこの店を訪れる。

 そうです。私は昔も今も、あなたという存在を自分勝手に利用して、楽をしているのですよ。

 面倒でしかなかった縁談を破談にするために、あなたに紗を与え、客商売を円滑に行うために、あなたに常連になっていただいた。

「前にも聞いたと思うんですが、マスター、前にどこかで会ったことがありませんか?」

「いやですねえ。毎日こうやって会っているじゃないですか。それが続いてもう何年経つと思ってるんです?」

 あなたは記憶に残っている、花嫁装束の私と目の前の私を結びつけることはできない。なぜならその二つの顔は、全く同じだから。時間の経過という真っ当な感性を有しているあなたは、両者を同一と認めることがない。

 西田さんは笑いながら、ゆっくり立ち上がる。もうふらつく様子はない。

「すみません長居してしまって。お会計を」

「はいはい」

 レジで代金をいただき、お釣りをお渡しすると、西田さんは遠い目で私の顔を見ていた。

「お帰りには気をつけてくださいね。もう暗いですから」

「ええ――はい。またきます」

「はい。いつでもお待ちしてます」

 西田さんは手首に巻いたそれを一瞥してから、私の顔を見て、会釈をして店を出ていった。

 あの日から肌身離さず身につけている紗。それがあなたをここへ導く。

 もしもあなたが本当になにも信じていなければ、ここへ招くことはできなかったでしょう。だけどあなたは、その紗だけは決して手放さなかった。過去をどれだけ否定しようと、手元に残った過去へと続く証拠。あなたはまだ疑いきれずにいる。そんな曖昧なあなただから、ここへ辿り着くことができるのです。

 あなたが日ごとにかつての私とのわずかな――だけどかけがえのなかったひとときの記憶を否定していくごとに、もはやこの世界との繋がりを失いつつあった私の存在は千々に裂けていってしまいそうになっていったのに。

 その紗を、私の罪悪の片棒を持ち続けてくれる限り、私はどれだけあなたに忘却されようともこうして笑顔で接客させていただけるのです。

 私はあなたをどこまでも利用させていただきます。私は自分の存在などは信じていませんが、あなたが認識してくれているということだけは無条件に信じ抜けるのです。

 でもどうか、あなたは私のことは信じないでください。

 だって、あなたが私たちを認めてしまったら、このカフェの経営はずっと大変になるでしょうから。

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