くそばかもんがあ

入川 夏聞

本文

      一


「この、くそ馬鹿もんがあ!!」

 父の茶碗が飛んできて、私のほほをかすめていった。その触れたあとが、すうっと冷たい。

(あ。泣いているんだ、私)

 その当時の私は、父に罵倒されたことよりも、危うく茶碗で大怪我をしそうになったことよりも、むしろ父の反対くらいで涙してしまった自分に、失望を禁じ得なかった。私は何を期待していたのか、と強く後悔の念が膨らんでいったことを、今でも覚えている。

「子供を産んで中退するなど、どこの不心得者がすることか! お前は、大学に、いくらかかってると思ってるんだ、ああ!?」

 ダイニングテーブルに、父の拳が振り落とされる。その大きな音は怒号と混じり合い、私の、元より張り裂けそうな胸の内を、乱雑にかきむしった。

「知ったことじゃ、ないわ! なに? お礼でも言ってほしいわけ? あーあー、ありがとうございました、それではもう、払わなくて済んで、良かったですね!!」

 本当は、もう、逃げ出したいと思っていた。怒鳴る父から、この運命から。

「んだと、このくそ馬鹿もんがあ! 逃げた相手はもう忘れるんだ、そう言うとったな? 大学中退のろくでなしの半人前に、何が出来るかあ!!」

「うるさい!!」

 私はテーブルに両の手のひらを叩きつけた。目をつぶっていたから、その拍子に何かが左の薬指に当たり、悲しい音を立てて、砕けた。

 ガラスのコップだった。私と一緒に贈り主に捨てられた指輪が、当たったのだ。鋭く尖った破片が指輪の間にいくつも食い込んで、血がポタポタと流れた。

 はずして、おけば良かった。後から、そう思った。

 なんで、つけていたの……。

 なんで、だまされたの……。

 正直、後悔の数は、父に怒鳴られた数よりも、多い。

 とにかく、当時の私にはもう、父の悪口を並び立てて、その場を逃げ去ることしか、出来なかった。

「万年課長代理止まりのくせに、偉ぶるな! 何よ、自分は高卒のくせに。毎日酔っぱらって帰ってくるか、寝てるか、怒鳴るかしか、してなかった、怠け者のくせに!!」

 しばらく、父を正面にして立ったまま、声も出せずにぽろぽろと涙をこぼしていたが、近づく母の足音から逃げるように、私は家を飛び出した。

 あのときの父は、青ざめた顔をして、ぶるぶると震えていた。手には、私の傷を見たからか、両手にたくさんのティッシュが握りしめられていた。

 私は、あの時が人生で一番、怖かったのかも知れない。


      二


 木更津方面からの最後の料金所を過ぎ、冴子は愛車のアクセルを踏み込んだ。夜更けのアクアラインは、車道脇から中央分離帯に向けて一定の間隔で白い放射模様を描くLEDライトと、沈み込んだ闇を湛えるアスファルトとの間で繰り返される明滅が木目調に装飾された車内をすべり、冴子の赤いルージュの色を時折薄めた。

 父が危篤だと言う母からの知らせは、先ほどから冴子の脳裏に、昔の思い出を甦らせていた。

(こっちは、大丈夫だから……か)

 父は定年退職を目前にして、ガンを患った。末期の胃がんだった。そして、五年。懸命な闘病の末の、危篤。

 スマホを車のメインスクリーンに繋いで確認した母からのメッセージは、こうだった。

“意識はないですが、寝ています。何も心配しないで“

“どうか、頑張ってきて下さい。こっちは、太郎がいてくれて心強いです。だから、大丈夫です”

“さっきは電話しちゃって、ごめんなさい。気にしないで。お父さん、今は静かだから、大丈夫そう。太郎がね、さっきから本当に良く見てくれているの、さすがは春から中学生ね。ずっと汗拭いたり、手握ってくれたり。こっちは、大丈夫だから”

 心配をかけまいとするこのメッセージ達は、冴子の胸に、掴みどころのない不安となって刻まれていた。

 だが、冴子にも戻れない理由がある。今夜、羽田空港より、発つ。行き先は、ロサンゼルス。目的は、世界最大のコンサルティングファーム企業での最終面接である。本国採用と言う異例のチャンスで、今年三十二歳となった冴子にとって、人生最初で最後の機会だった。

(太郎……。苦労ばかりで、ごめんね)

 冴子はハンドルを握る手に、力を込めた。


      三


 家を飛び出してしばらく後に、冴子は太郎を産んだ。孤独な出産だった。恥ずかしくて、悲しくて、冴子は旦那がいないことを遂に病院へは隠し通してしまった。

 “太郎”と言う名前は、父がつけた。少しでも関係改善を図ろうと母が提案してくれたことだったが、父はろくに考える様子もなく、数秒の内に汚い字で半紙に殴り書きして、それを母に押し付けたそうだ。

 母がその半紙を病院に持ってやって来たとき、その紙をドブに捨てようと何度も思ったと言っては泣いて詫びる母に対して、冴子は何も言えなかった。そして、病院のベッドでまだ皮膚の赤透けた我が子を抱きながら、父親もおらず、祖父に殴り書きの名前が与えられてしまった、腕の中で必死に乳房を求めている、この細い細い我が子の姿を見るにつけ、冴子は我が身の不幸よりも、我が子の運命に、涙した。


 太郎を生んだあと、冴子は職につけなかった。

 大学中退では、希望の企業に面接すら受けさせてもらえず、就職エージェントを頼ったが、名のある企業名を述べただけで、失笑された。悔しかったが、やはり太郎が不憫でならず、藁にもすがる思いで彼女は母に相談した。

 一週間ほどして、突然携帯が鳴った。それは、ある小さなIT系コンサルティング会社の社長からだった。すぐに面接予定が組まれ、これまでの苦戦が嘘のように、内定が決まった。社長は、父の知り合いだった。父は昔、その社長の苦境に対して、大変な苦心をして融資を通してくれたのだと言う。

 社長は言っていた。そうして父に助けられた仲間が、それはたくさん、いるのだと。

 冴子には、俄に信じがたい話だった。ともかくも、職を得た冴子は、がむしゃらに働いた。


      四


「くそばか、モンガー!」

 二歳になった太郎が、初めて覚えた言葉が、それだった。

 仕事が忙しい冴子は、初めベビーシッターを雇ったが、すぐ金に困り、背に腹は変えられずに母を頼った。父は当然来ないと冴子は思っていたが、どうやら徹夜や出張で留守のときにこっそり来ていたらしい。

 あとから母に聞いたところによれば、しばらくは太郎を見る度に、「くそ馬鹿もんが、来るんじゃない!」などと、いじわるそうに言っていたらしい。

 冴子はあまりに忙しく、父はあまりにいじわるだった。

 そして皮肉にも、「くそばか、モンガー!」が幼い太郎の口ぐせになった。


 くそばか、モンガー! くそばか、モンガー! と言っては、父のあとをついていく。

 父がどんなにいじわるに罵倒しても、太郎はなぜか、父から離れない。

 ある時、父が試みに「おい、太郎」と、呼びつけてみたところ、それはそれは可愛い笑顔を見せたらしい。父はその日以来、太郎に夢中になった。

 またある時、冴子は軽い気持ちで、父にこんな話をした。

「太郎、今日保育園で仲間外れになって泣いてたって。あの口ぐせじゃ、仕方ないものねえ」

 それ以来、父は人の悪口を言わなくなった。太郎はますます、父になつき、父はますます、太郎を大事にするようになった。


 太郎の七五三のときだった。

「あーあ。お父さん、私の時は二回とも七五三、来なかったでしょう?」

 社務所の待合室で二人きりのとき、ふと冴子がそう言うと、母は静かな笑みを保ったまま、教えてくれた。

 父は、銀行の融資課長代理として、常に顧客との関係性構築に時間を割いていた。平日も、休日も。高卒で大手都市銀行の課長代理になった父の努力が並大抵では無かったことは、冴子にもすでに、知れていた。そして、父の努力の結果、たくさんの人が救われていたことも。

 冴子は、いつか父に謝ろうと、その時はじめて思った。


 それから、二年後、父の胃がんが見つかった。


「おじいちゃん、もうすぐ仕事おしまいだから、これでようやく、太郎とたあくさん、遊べるぞ! 約束だ!」


 背中の曲がり初めた父が、跳ねて喜ぶ太郎を抱きしめ、そして無理をしながらも一生懸命に高く抱えあげていた光景は、いまや冴子の奥深くから悲しみを溢れ出させるシンボルとなってしまった。


――父はいつも、家族との約束だけが、守れない。


 海ほたるの煌めきが、冴子のうるんだ瞳に反射しはじめたころ、携帯が鳴った。


 太郎からだった。彼は、泣いていた。


 冴子はクラッチを蹴り、アクセルを激しく踏み鳴らしながらギアを変え、左脇の大型トラックの前を横切るように、海ほたるへ向かう側道へ、Uターンのためにハンドルを切った。

 大型トラックの大音量クラクションは、いつまでも虚しく、夜空へ響き渡っていた。


      五


 冴子が病院に駆けつけたとき、母はなぜか病室の外で、待っていてくれていた。

 中に入ると、顔に白い布を乗せた父のすぐ傍らで、もう、とうに消えてしまったであろう温もりを一片も逃すまいと、ただ懸命に父の手を握っている太郎の姿が視界に飛び込んできて、こらえきれなくなった。母は何も言わず、嗚咽をこらえながら、また外に出ていってしまった。

 冴子は、何も言葉が見つからず、ただ、太郎の隣に置かれた小さな円形の椅子に腰を下ろした。

「……くそばかもんが」

「え?」

「じいちゃんが、さっき、言ってたんだ」

 冴子は、震える手で、ハンカチを握りしめた。

「母さんに電話して、切って、それで、じいちゃんに向かって叫んだんだ。『母さん来るから! まだ行かないで!』って」

「そう……」

「そしたら、急に、ふっと、目が開いたんだ。すごく眠そうだったけど、頑張ったんだ、じいちゃん、きっと」

「うん……」

「じいちゃん、こう、言ってたよ」


――なあ、太郎。冴子は、ずっと、頑張ってたのになあ。それが、こんなことで、なんで、帰って来るんや……あの、くそばかもんがあ。


 冴子は、泣いた。


――ごめんね、父さん。ごめんなさい。私……。


「母さん」


 父の冷たい体にすがり付く、冴子の背中を撫でながら、太郎は呟いた。


「じいちゃんはね、笑っていたよ」


(了)

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