13:18:51


 +


 ──何がどうなってやがる。


 目の前で起きた出来事を見て、イナバはパニックになっていた。


 20分前。

 自分が寝ている間にギャングに拉致られた上にコーカスカリウムという謎の猛毒を注射され、自分の命が残り3時間しかない事実を知った。


 30秒前。

 機関銃を持った屈強なギャング3人が部屋に襲来し、イナバは絶体絶命のピンチを迎えた。


 もうダメだ。

 毒が回る2時間40分前に俺は死ぬ。


 万事休す。

 そう感じた。


 すると。

 イナバの目の前に『アリス』と名乗る謎の女が現れた。


 現れた途端。


 機関銃を持った屈強なギャング3人を。


 ぶちのめした。


 一瞬で。

 時間にして5秒もかかっていない。

 本当の本当の意味で『瞬殺』だった。


 わけがわからない。

 

 武器を使ったならまだしも。


 ──素手で。


 機関銃を武装した筋肉ダルマたちを制圧するなんて……。


 人間じゃない。

 バケモノだ。


 なんなんだ。

 一体、何者なんだこの女は……。


 イナバは頭を抱え、自分の目を疑った。

 現実とは思えない事態に対し、ひどい困惑を覚える。


 俺は夢でも見ているのか? ひょっとして。


「とりあえず立てる?」


 ふいに、アリスがイナバに訊ねた。


 イナバは「え?」と訊き返した。


 俺に言ってるのか? そう思った。


「ええ、君以外にいないでしょ?」


「あ、ああ」


 イナバはそういうと、ベットに手をついてその場から立ち上がった。かくかくと膝は笑っているが、どうにか立つことはできた。ギリギリ腰は抜けていない。


「いてぇ! いてぇよぉおおおおおお! 骨が折れたぞ! ちきしょう!」


 手首を破壊された生き残りのギャングが、子供のように仕切りに泣き喚いている。

 てっきりアリスに逆襲するか仲間を呼ぶのかと思ったが、両手首を一瞬で潰されたショックで戦意が喪失している。そんな様子だった。


「ギャーギャーうるさいなぁ。人間には215本も骨があるんだよ。たかが2本折れたぐらいで騒がないでよ」


 呆れた口調でアリスはギャングに言い放った。


 いや、2本も同時に折れたら痛いだろ。


 イナバは心の中でつぶいた。


 イナバの心の声を察したのか、アリスがイナバに振り向いた。


「な、なんだ?」


 息を飲み、びくつくイナバに、すっとアリスがイナバの目の前に右手のひらを差し出した。


「ライターある?」


 ライター?

 持っていないけど。

 なんだ? タバコでも吸うのか?


「ううん。まぁ、ないならいいや」


 アリスはそういうと、右目を引っ込めた。

 室内を軽く見渡し、部屋の壁際に設置してある『クローゼット』に目を向けた。

 クローゼットまで歩を進めると、おもむろにクローゼットのドアを開き、「あったあった」独り言をつぶやきながら、クローゼットから『ライター』を手に取った。


「ちょっと昔のホテルならあるよね、こういうアメニティグッズって」


「何に使うつもりだ?」


「頭貸りるよ」


 アリスがイナバにいった。

 頭を貸りるって。

 どういう意味だ?


 イナバがアリスに意味を訊ねようとした。


 すると。


「よっと」


 アリスが目の前から消えた。

 

 どこに行った?


 イナバはアリスを探そうとあたりを見回した。


 ふいに頭頂部あたりに『重さ』を感じた。


 え、なんだ? この重み。

 イナバが頭を上げると。

 ぎょっとなった。


「な⁉︎ なに!」


 ──立っている。

 イナバの額の上に、アリスが爪先立ちで立っていた。


 マジかよ。


 アリスの体型は、華奢で小柄だった。

 身長はおそらく155センチ前後。体重はおそらく40キロそこそこか。逆にいえば最低でも40キロ前後はあると思える。


 その40キロある人間が、こんな不安定な人間の頭の上に立っている。


 なんというバランス能力だ。


 いや、そもそも。

 40キロの重りが突然頭の上に乗っかれば、人間の頸椎なんてそんな頑丈にできていないから、一瞬でおれるはずだ。


 それなのに、アリスを頭の上に乗っている今、首の骨が折れるような重さを一切感じない。

 感じるとしたら、せいぜい文庫サイズの本が乗った程度だ。


 一体、どんな魔法を使っている。

 まさか、体重を自在に変える超能力か?


 ──いやいやいやいや。


 そんなバカな。

 アメコミのスーパーヒーローじゃあるまいし、そんな超能力、この世にあるわけがない。


「じっとしててね。動くと面倒だから」


 中国雑技団のように、アリスはイナバの頭の上に右足の爪先立ちの姿勢のまま、右手でライターに火をつけた。


 火を灯したライターを、天井に設置してある『火災報知器』に近づけた。



 ジリリリリ!



 火災報知器から警報が鳴った。


 室内に設置してあるスプリンクラーが起動し、天井から夥しい量のシャワーが降り注いだ。


「なにをしているんだ、お前」


 イナバの頭の上から降りたアリスに、イナバが訊いた。


「このホテル『シーサイドビーチ』は、オーナーの趣味で指紋認証システムを導入していたり色々設備投資してあるの。だけど、業者に支払う費用をケチっているせいで、色々ずさんな作りになっているわ。たとえば、一つの部屋で『火災報知器』が起動すれば……」


 どたっ!

 ばたばたばたっ!


 部屋の外から激しい物音が聞こえた。


「なんだなんだ!」


「火事か? 火事なのか!」


「きゃあああ!」


 フロア内の利用客たちが外に飛び出し、一様に騒ぎ出した。


 スプリンクラーから降り注ぐ冷たいシャワーを浴び、髪の毛がずぶ濡れになるアリスが、イナバに振り向いた。


「ね? こうなる」


「いや、だからなんでそんなことを……」


 無関係の客を騒がすことに一体どんな意味が……。

 そうイナバがアリスに続けて訊こうとした。

 その時。


「おい、なんだ! これは!」


「ふざけやがってあのクソガキ! ぶっ殺してやる!」


 遠くから、明らかに物騒な口調の男たちの声が聞こえた。


 まさか。


 イナバは穴だらけになった玄関まで歩み寄り、そっと様子を覗いた。


 機関銃を持ったタンクトップ姿の筋肉ダルマたちが、イナバの姿を見つけて指を差した。


「いたぞ! 生きてやがる!」


「ぶっ殺せ!」


 イナバは駆け足で部屋の中央に戻った。


「ぞ、『増援』がきた!」


「何人?」


 わからない。

 慌てて顔を引っ込めたから正確に数えられてないけど、たぶん『5人』はいた。


「ふーん。思ったより少ないわね」


「またさっきみたいにやっつけてくれるのか?」


「いやいや、無茶言わないでちょうだい。奇襲かけるならまだしも、マシンガン持ったゴリマッチョ5人と正面からどつき合いするのは無理よ」


 おいマジか!

 なら、どうするんだ?


「どうするって……『逃げる』のよ。そのために『火災報知器』を動かしたんだから」



 がっしゃん。



 部屋の奥から何か落ちる音が聞こえた。


 音が聞こえた方向に振り向くと、窓の下に、ちょうど人1人が通れる小さな『トンネル』ができていた。


 さっきまでこんなトンネルなかったぞ。

 これは、もしや──。


「き、『緊急非常口』か」


「イエス。業者の手抜きか元からそうなのか、設計上、緊急非常口は『スプリンクラー』と連動するようになってるの」


 アリスは親指を立て、「早く行って」と緊急非常口に入るように促した。


 イナバは緊急非常口に潜り込んだ。

 緊急非常口の中は、かなり急な角度がついたトンネル状の滑り台になっていて、イナバの体はあっという間に地上に滑り落ちた。


「ここは……」


 滑り落ちた先は、ホテルシーサイドビーチの裏手にある『地下駐車場』だった。


「ほら、ぼやぼやしないの! 行くよ!」


 イナバの後に続き、緊急非常口からアリスが滑り落ちてきた。


「行くって、どこに?」


 アリスは立ち上がると、イナバの手を取り、走り出した。


「あれよ!」


 地下駐車場の奥に停めてある黒のセダンを指差す。

 ビュピュと車が解錠する音が地下駐車場内に響いた。

 

 イナバとアリスがセダンに乗り込むと、銃声が背後から聞こえた。


「逃すか! 殺せ!」


 アリスがセダンのエンジンを吹かし、アクセルを全開にする。



 ぎゃぎゃぎゃ!



 高速回転するセダンのタイヤが、コンクリートの地面を激しく擦った。

 イナバがルームミラーに目を移すと、機関銃をセダンに向ける筋肉ダルマたちの姿が映っていた。


「捕まって! 行くよ!」


 アリスが大声を上げた。


 機関銃の弾が、セダンの後部座席とサイドミラーを打ち抜いた。


「ひぃ!」


 イナバは頭を抱えて体を丸めた。


 ばきっ!


 駐車場の出入り口にある駐車料金機のポールをセダンがぶち抜き、猛スピードで地下駐車場から走り抜けた。


 ──5分経った。


 機関銃の銃声や男たちの罵詈雑言が完全に聞こえなくなったことに気づいたイナバが、顔を上げた。


「逃げ切れたのか?」


「ええ、どうにかね」


 アリスが肩を落とし、運転したまま答えた。

 イナバは体を持ち上げ、あたりの様子を見渡した。


 舗装されていない道路。

 低いビルが林立し、そのビルの前にカラフルなパラソルを挿した屋台が並んだ露店街がどこまでも続いている。


 ここは。


「チュウオウ・エリアか! ここ!」


 アリスは肩をすくめ、眉を上げた。

 スマホやカーナビがないから、はっきりとはいえないが、この景色はどことなく見たことはある。


 よかった。

 逃げ切れた!


 イナバは安堵の吐息をついた。


「安心するのはまだ早いでしょ。やること残ってるんじゃないの?」


 アリスが淡々とした口調でつぶやいた。


「やること?」


「今、何時か見て」


 イナバはセダンに備え付けられているデジタル時計を見た。


 13:30:02


 全身に鳥肌が立った。


「毒が効くのって何時だっけ? えと、コーンフレークミックスだっけ?」


 なんだその美味しそうな名前は。


「コーカスカリウムだ!」


「うるさいなー、大声出さないでよ」


 アリスは片耳を塞ぎながら、迷惑そうな表情を浮かべていった。


「で?」


「15時18分だ。毒が回るのは」


「ってことは、あと1時間48分か」


 アリスはハンドルを切った。

 ビルとビルの路地にセダンを潜り込ませ、ブレーキを踏んだ。


「おい、何してる?」


「なにって着替えだよ」


 アリスはそういうと、後部座席に人差し指を差した。


 イナバが後部座席を覗くと、クリーニング屋で包装されるビニール袋に入ったスーツが一着置いてあった。


「サイズは合うはずだからそれに着替えて。このままじゃ風邪引いちゃうし」


 ドアを開け、アリスは車の外に出た。


「おい、どこ行くんだ?」


「あたしの着替えは後部トランクにあるの。あなたは中で。あたしは外で着替えるから」


 アリスが後部トランクに向かおうとすると、イナバが「待てよ」と呼び止めた。


「普通逆だろ? 俺が外で着替えるよ」


「バカ。仮にも狙われてるの君なんだよ? 中にいて。じゃないと、あたしが雇われた意味ないじゃん」


 指をVの字にすると、アリスは自分の両眼を指差し、次にイナバを二本指で指差した。

 いつでも見張ってるから余計なことはするなというジェスチャーだ。


 俺はガキか。


「ああ、わかったよ」


 イナバはアリスの代わりに運転席のドアを閉めた。


 ビニール袋の中には、下着と靴下、革靴も入っていた。全部合わせて2000トーキョウドル(2万円)前後の安物の詰め合わせで、ややジャケットの袖が短く感じた。

 色も紺のストライプで、全体的に中年が着るような安物のデザインのスーツだ。


 緊急事態の今だから我慢するが、普段の俺なら絶対チョイスしないだっさい組み合わせだ。


「ったく、なんなんだ。もう少しマシなのあっただろうに」


 アリスがいないことをいいことに、イナバは独り言をやや大きめの声量でぼやいた。


「これじゃ、ピエロの格好した方がまだマシだぜ」


「助けてもらった分際で、文句が多いね、君」


 げ! 聞かれた。

 イナバが驚き、運転席側に振り向いた。


「は?」


 アリスの格好を人目見て、イナバは言葉を失った。


 赤いリボンタイ白いブラウス、校章が入った黒のジャケット、チェックの短いプリーツカートにブラウンのローファーを履いている。


 その格好……おいおい、まさか。


「……お前、年いくつだ?」


「16」


 イナバは顔を両手で覆った。

 ホテルの女性従業員に変装していた時、赤いルージュやメガネをして大人びた雰囲気をだしていたが、どことなく幼い顔立ちをしている印象を感じていた。


 年齢は二〇代前半かと勝手に想像していた。


 まさか現役の女子高生だったなんて……。

 しかもアリスが着ている制服、なんか見覚えあるなぁ……。

 って!


「その制服、ひょっとして『聖キャロル学園』か?」


「あ、知ってるの? うちの学校」


 アリスが運転席に乗り込み、ドアを閉めた。


 知っている。

 聖キャロル学園といえば、トーキョウの隣のエリア、カナガワ中でかなり有名な『金持ち学校』だ。


「まったく、補習中にジュディスから電話かかってきてさぁ。『今すぐトーキョウに行け』とかいわれてびっくりしちゃったよ」


 ぶーっとアリスが頬を膨らませてむくれる。


 補習中……マジか。

 まさか本当に16歳のガキなのか、こいつ。


 もし本当にそうなら、どうして政財界の著名人たちが寄付する超有名な私学のお嬢様がジュディスみたいなギャングと繋がりが……。


「なんか色々質問したそうだけど、今は辞めた方がいいとと思うよ」


 イナバが口を開きかけたところを、アリスがタイミングよく遮った。


「死にたくないんでしょ?」


 アリスが横目でイナバを見た。

 イナバは自分の胸をきゅっと掴んだ。


 そうだ。

 俺の命は、あと残り1時間30分くらいしかない。


 余計なことで足止めしている余裕なんてないんだ。


「で? どうするの? ジュディスからは『君を助けろ』としかいわれてないんだけど、これからどうするの?」


「……この近くの病院は、たしか『チュウオウエリア大学病院』だったな」


 アリスが「あー」とぼやくと、軽く頷いた。


「保険証持ってなくても受診できるっけ?」


「おい、勘違いするな。じじばばの後ろに並んで『受診』はしないぞ」


 病院で謎の毒にかかったと申告すれば、一般的な医者はまず毒の『正体』を探るために『血液採取』をして調査しようとする。たとえ患者本人が毒の名前を説明しても、万が一誤っている可能性を考慮して、医者は必ず一から調査を行う。

 

 仮に最速で病院に到着して、最優先で診察されたとしても、毒の正体を調べている間に死んでしまうことはあり得る。


「じゃ、なんで病院に行くの?」


「どんな病院でも、ワクチンや血清を生成する『バイオプリンター』が設営されている。それを利用させてもらうつもりだ」


「バイオプリンター?」


「細胞をプリントできる3Dプリンターだ。病院に設置されているバイオプリンターは、成分表さえ入力すれば、その場で『ワクチン』や『解毒剤』を作ることができる」


「へぇー! そんなのあるの!」


 アリスが感嘆な声を上げた。


「ってことは、君、『解毒剤』を自分で作るの?」


 アリスが訊くと、イナバは「当然だ」と自信たっぷりの口ぶりで返した。


「俺の専門は電子戦だ。現代の80%の情報が『電子管理』されている今の時代、俺に探し出せない情報はない」


 雇ったボディーガードが16歳の女子高生だったことに面食らったが、とにかく、外に脱出することはできた。


 5分だ。


 たった5分あれば、コーカスカリウムの『解毒剤』の情報を収集することができる。


「相当な自信だね」


 ぼそっとアリスはつぶやいた。


「それで? あたしは君を病院にまでエスコートすればお仕事完了かな?」


「いや、その前に『ネットカフェ』に寄ってくれ」


「ネットカフェ?」アリスが復唱し、首を傾げた。


「どうして? 病院のパソコン使えばいいんじゃないの?」


 アリスの質問に対し、イナバはかぶりをふった。


「ダメだ。病院は患者の個人情報の漏洩を防ぐために、電子端末はあっても、ネットが繋がっていないスタンドアローンの状態にしてある。これは法律で決まっているんだ」


 たとえ病院に侵入しても、成分表をWeb検索することができるPCがなければ話にならない。

 ゆえに。


「なるほど、『解毒剤』の成分表を入手するためには、外のパソコンからアクセスしてゲットするってことね」


「そういうことだ。大学病院まで、ここからどれくらいで着く?」


「……」


 じっとアリスがイナバを見つめる。

 視線を感じたイナバが振り返った。


「なんだよ」


「あたし、君のこと助けたよね?」


 アリスがいった。

 ああ、そうだ。だからなんだ。


「『ありがとう』は?」


 ──なんだ。

 こいつ、妙なことに拘ってるな。


「全てが終われば小切手で謝礼はする」


「はぁ」アリスがため息をついた。


「イナバちゃんってさ、友達いないよね」


 唐突にアリスが言い放った。


 ……こいつ。

 なんなんださっきから。


「馴れ合いは趣味じゃないだ」


 友達なんているかよ。


 裏社会において親しい人間を作れば、それだけ騙されたり殺されたりする『リスク』にしかならない。


 裏社会の人間は常に腹の読み合いをしている。少しでも油断して他人を信用すれば、騙されてカネを奪われるか、殺されてトーキョウ湾で魚の餌になることだって十分ありえる。


「ヨコハマに住んでいるお嬢様にはわからない感覚だろうが、俺たちの世界は『他人を信用すれば負け』なんだ。それが俺たちの世界だ」


「ふーん、そうなんだ」


 素っ気なくアリスはつぶやいた。


「たしかに、あたしにはわからない世界だ」


 アリスはサイドミラーを見た。

 サイドミラーに映ったアリスの顔は、どこか寂しげな表情を浮かべている。


 イナバは車内に設置されたデジタル時計に目をやった。


 13:33:23。


 一時はどうなるか心配したが、どうにかなりそうだ。

 この時間なら十分だ。


「車を出してくれ。病院の近くにネットカフェがあったはずだ。そこに向かってくれ」


 イナバはアリスにいった。


「はーい」


 アリスは間延びした返事をする。


 どぅるるるるん。


 セダンから強烈なエンジン音が吹いた。


 待ってろよ、クソチャイナギャング。

 解毒剤手に入れたら、てめぇを社会的に抹殺してやる。


 イナバは握った拳を手で覆い、心の中でDDに対して復讐を誓った。



 +



「ちきしょう。どうして……見つからない」


 14:03:05


 イナバの額から大粒の汗が噴き出すようになってから、15分が経過した。


 カタカタカタカタカタカタ。


 パーテーションで区切られた個室。

 丸椅子に腰掛けるイナバは、旧式のブラウン管モニターに映るブラウザ画面を睨みつけながら、キーボードで16パターン目の検索アルゴリズムを打ちこんだ。


 黒背景のウィンドウにいっぱいに数字が表示される。

 表示された数字がぐるぐると激しく変化し、やがて数字の桁数が少しずつ短くなり、最後には1桁の数字が表示された。


 表示された数字は『0』。

 検索結果の数字である。


 ブラウザ画面に映る検索結果の数字を見て、イナバは頭を抱えた。


「どうして……」


 15分前にチュウオウエリアのタカラマチ駅付近にあるネットカフェに到着し、1時間50ドル(500円)のネットカフェに入ったまではよかった。

 よかったが……そこから先は最悪だった。


 表示される検索結果はすべて同じ。

 0であった。


「一件もヒットしないなんてあるか? そんなバカなことが……」


 毒物専門研究施設のサーバーに潜入し、コーカスカリウムという毒物に関わる事柄をすべて検索をかけた。

 あるいは20世紀から現代にかけて開発された生物兵器のリストが保管された陸軍のサーバーや米国ヨーロッパ諸国の製薬会社のサーバーにも侵入してキーワード検索をかけたが、擦りすらしない。


 Queenofhert.comでDDやコーカスカリウムについて何か知っていることがないか、質問を投稿してみたが、30分経っても誰も返事を返してくれない。


 なぜだ。


 ダークウェブを使えば、政治家が囲う愛人の服のサイズも検索ヒットするのに、なぜ今日に限って、俺が必要な情報を1つも探し出すことができないんだ。


 検索アルゴリズムが悪いのか?

 いや、軍のサーバーにも潜り込んでいるだ。これ以上、検索範囲を広げてしまえば、俺が侵入した『痕跡』を残してしまう。IPアドレスを逆探知されて、ここのネットカフェの利用客名簿から俺が利用していたことがバレる可能性が高い。そんなリスクは犯せない。


 ちらっと、イナバはディスプレイの右下端に映る時計を見た。


 14:12:11


 やばいぞ。

 タイムリミットの残り1時間も切ってしまう。

 このまま悪戯に時間ばかり費やすことはできない。


 ちきしょう。


 どうにかして、コーカスカリウムの『解毒剤』の情報を入手しないと、このままじゃ俺は……。


「ねぇってば」


 親指の爪を噛むイナバの背後に、アリスが声をかけた。イナバはびくつき、大袈裟に振り返った。


「なんだ⁉︎」


「店員さんが延長するかって。どうする?」


 コンビニで買ったカップヨーグルトを手に持つアリスは、プラスチックのスプーンでぱくりと一口食べた。


 こいつ。

 俺が必死になっている時にヨーグルト食ってやがる。

 ふざけてんのか。


「お前、俺がどれだけ必死に……」


「見つかったの? 『解毒剤』の情報が」


 じっとアリスはイナバの顔を覗く。

 イナバは目を合わせることができず、視線を落とした。


「いいや、まだだ」


「『陸軍局』のサーバーに潜ることできる?」


 アリスはプラスチックスプーンでディスプレイを指差して、イナバに訊ねた。


「ああ、できる」


「サーバーに潜入したら、5年から10年の『退役軍人リスト』を探してほしいかな」


 ディスプレイを見つめながらアリスはイナバに訊いた。

 

 退役軍人?

 なぜ今、それを調べる? 意図がわらない。


「んっと、多分だけどさ、スーパーハッカーであるイナバちゃんが30分かけてダークウェブの中を丹念に検索かけても『コーカスカリウム』の情報が一件もヒットしなかったのでしょ? だったら、答えは出てるかなって思うの」


「答え?」


「つまり、解毒剤の情報がインターネット上に『存在しない』ってこと」


 アリスは指を2本立てて、イナバに説明した。


「考えらる仮説は2つ。

①『コーカスカリウム』が世の中に出回っていない。

②そもそも『コーカスカリウム』という名前は通称であり、正式名称は別にある。

③情報漏洩防止のため、『コーカスカリウム』の情報をインターネットではなく『紙媒体』などで管理している。

そんなところじゃないかな」


 イナバは顎に手を当て、思案顔になった。


 たしかに。

 アリスの言う通りかもしれない。


 DDがいう『コーカスカリウム』は、俺が知らないだけで、医学の世界では有名な劇薬だと勝手に思い込んでいたが、そもそも最近開発された劇薬である可能性もある。

 それに医薬品とかの場合、製剤名がラテン語などを使っているせいで一般ユーザーが覚えにくいということから、製薬会社が商品名を別の名前にすることがあるというのは聞いたことがある。

 コーカスカリウムもそれと同じ、正式名称は別にあるのだ。きっと。


「あと加えていうなら、敵はイナバちゃんが『ハッカー』だということを知ってるからね。もしあたしがDDなら、インターネット上に情報を置くマヌケなことはしないかもね」


 イナバは黙り込んだ。

 悔しいが、アリスの言う通りだ。


 DDは俺のことを知っている。

 自分の会社の個人情報を抜き取ったくったれクラッカーを時限付きの劇薬で殺そうとしているんだ。

 わざわざ生き延びられる情報を、俺の得意分野であるインターネットに置くバカなことはしないのは当然の処置だろう。


「情報がインターネット上に存在しないまではわかる。だけど、なぜ『退役軍人』のリストを?」


「このトーキョウの街を支配する『ギャング』たちは、もともと10年前に終結した『ニホン海戦争』に従軍した元軍人だったの知ってる?」


「あ、ああ」


 歴史の授業で習ったことがある。

 

 ──ニホン海戦争。

 2020年にテロ事件をきっかけに始まった大規模な非核戦争だ。


 戦争終結するでに20年。

 政治的に米国に敗れた日本の首都『東京都』が、米国管轄の『トーキョウ特別行政区』となり、日本の治外法権エリアとなった。

 

 トーキョウが治外法権エリアとなったのをきっかけに、ニホン海戦争に従軍した日米の軍人たちが、日本のヤクザに代わって、『武器密売』『麻薬売買』といった『犯罪ビジネス』で街を支配するようになった。


 それが、トーキョウの『ギャング誕生』のきっかけになったのは、歴史の授業で学んだことがある。


「トーキョウでギャングやっているなら、DDが退役軍人の可能性はあると思うの。猛毒のことがわからなければ、まずは『敵』についてを調べるのも手の一つじゃない?」


「……」


 イナバはアリスの顔を見つめた。

 この女の子、どうしてこんなに冷静でいられる。

 本当に16歳の現役女子高生か?

 

「ほら、時間ないよ」


「あ、ああ。わかった」


 カタカタカタカタ。


 イナバは素早くキーボードでタイピングし、『陸軍局のサーバー』に潜り込んだ。


 検索対象のアプローチは変える点は賛成だ。

 コーカスカリウムの情報が一つも見つからない今──、敵のことを調べれば、もしかしたらコーカスカリウムの情報に近づくことができるかもしれない。


 DDの本名はドナテロ・デミトリだったはずだ。

 中華系のアメリカ人に絞れば、恐らくヒットするはずだが……。


 ──いた! これだ!


 ディスプレイに映る。陸軍局の『退役軍人リスト』の2030年の欄に、『Donatello Demitori』と書かれた列があった。

 

「ドナテロ・デミトリ。10年前に『不名誉除隊』してるな」


 イナバが『Donatello Demitori』の列をクリックすると、詳細データが写真付きで画面に表示された。


 名前:ドナテロ・デミトリ。

 出身:カリフォルニア州ロサンゼルス。

 年齢:34歳。

 階級:伍長。

 所属部隊:第1312支援部隊。

 不名誉除隊理由:ジュネーブ条約違反。(捕虜の兵士に劇物を使った拷問を行なったため)


「1312支援部隊……」


 ディスプレイを覗き込むアリスが、「ああー」とぼやいた。

 ピンときた。

 アリスの反応に、そんな印象を感じられる。


「なんだ。何か知ってるのか?」


 アリスはふふっと微笑んだ。


「イナバちゃんのいう通りだね。『友達はリスクでしかない』って。行こう」


 え、どこに?


「『聞き込み』よ。心当たりがあるの」


 ディスプレイの上に乗せたカップヨーグルトを手に取ったアリスは踵を返して店を出た。


 イナバは慌ててアリスの後を追いかけた。


 +


 14:42:11。


 チュウオウエリアからセダンを走らせて、およそ15分程経った。


 低いビルの前に立ち並ぶ露天商の景色から一変し、枯れ果てた木々や壁がひび割れた一戸建住宅が並ぶ、寂れた住宅街が目に映るようになった。


 建物の前には、痩せこけて目が据わっているスキンヘッドや派手な格好をした厚化粧の娼婦たちといった、やたら物々しい雰囲気をもつ輩たちがたくさん屯しており、セダンが通るたび、なぜか輩たちが奇異のものを見る目でこちらに視線を送ってきている。


 イナバはあたりを見渡し、どこを走っているのか察した。


「なぁ……まさかだが……ここって『セタガヤエリア』か?」


「大当たり」


 アリスが答えた。

 イナバが振り返り、「え?!」と驚いた。


「うそだろ? どうしてセタガヤエリアに? ジャンキーどもの巣窟だぞ!」


 半世紀前まで富裕層が住む高級住宅街だったが、トーキョウが特別行政区になったのをきっかけに、一気に治安が悪化したエリアだ。


 現在のトーキョウは、大概どのエリアもギャング組織が支配していて、住民からみかじめ料を徴収する対価として警察に代わって治安維持を行なっているものだが、このセタガヤエリアだけは、なぜかどのギャングも支配していない。所謂、無法地帯と化している。


 ギャングたちの支配を逃れようとしたジャンキーたちが、こぞって集まってくるようになったおかげで、ここではクスリを巡っての激しい『いざこざ』が跡を立たない。


「毒のことを聞くならジャンキーに限りるからねー。なんてったって『中毒者』だし」


 へらへらと笑いながらアリスはいう。

 こいつ本気か。

 あんなヤク中たちがコーカスカリウムのことを知っているわけがない。


「ただのジャンキーじゃないわよ。ジャンキーにクスリを売る奴に心当たりがあるの」


「プッシャー(売人)か?」


「まぁね」


 ぱぁん。ぱぁーん。


 銃声が聞こえた。

 イナバが窓の外を見ると、道端で男が人を銃で殺している光景が目に飛び込んできた。


 ここでは人の命は軽い。

 油断すれば、背中から鉛玉をぶちこまれる危険がいつだって潜んでいる。


「な、なぁ。銃はあるか?」


「は?」


「こんな危ない場所、銃なしで歩くなんて物騒にもほどがあるだろ。銃があるなら貸してくれ」


「銃なんて必要ない。あたしがいるもの」


 アリスが自信満々の表情でいった。

 

 ……いや、まぁそうだな。


 素手で機関銃を持った筋肉ダルマたちを一瞬でぶちのめしたあんたには、銃は必要ないよな。それはわかる。


 そうじょなくて。

 俺がほしいんだよ。銃を。



 ききーっ。



 アリスがブレーキを踏んだ。


 び、びっくりした。

 なんだよ、一体。


「おーい、ハンプティ!」


 パワーウィンドウを開け、アリスが道端に立つデブ男に声をかけた。


 ハンプティと呼ばれたデブ男の周りには、薄い肌着のような格好をした娼婦たちが群がっており、へらへら笑いながら何か話している様子だった。


 ボロボロの格好をしたジャンキーたちがウヨウヨいるセタガヤエリアの中で、ハンプティはスーツにネクタイというビジネスマンのような一際目立つ格好をしている。


「シカトするなデブ! こっち見ろ!」


 アリスが声色を変えて、威嚇するように怒鳴った。


 ハンプティの周りに群がる娼婦たちが、アリスの存在に気づいた。

 娼婦たちが深刻そうな表情を浮かべ、ハンプティに声をかける。

 ハンプティが後ろを振り向いた。

 アリスの姿を一目見て、下品な笑顔が引きつった。


「よぉ、アリス! 久しぶりだな」


 ずかずかとガニ股歩きでハンプティはセダンに歩み寄ってくる。


 アリスはハンプティの服を上から下にかけてじっとりと観察した。


「へぇ、いいネクタイじゃん」


 アリスがハンプティのネクタイを褒めた。

 そうか?

 全然似合ってないぞ。タマゴみたいな変な柄が入っているし、はっきりいってだっさいぞ


「軍にいた頃から変わらないわね。相変わらずジャンキーたちに粗悪品売ってるところとか」


「人聞きが悪いな。俺の商品はブランドだ。品質は俺が保証している。わかるか?」


「じゃ、君のところで買った『毒』も品質を保証してくれるの?」


 ハンプティが「ははっ」と渇いた笑い声を上げた。


「当然だ。俺のところで買えばな」


「『コーカスカリウム』も、かしら?」


 ハンプティのへらへらした表情が消えた。


「DDと揉めたのか?」


「呼び捨てにするなんて、あなたも出世したわね」


「俺はもうあいつの下っ端じゃない。1312支援部隊は解体されたんだ。あいつが捕虜に拷問かけたせいでな」


 ハンプティがパワーウィンドウに手を置き、ちらっとイナバに目を遣った。


「なんだ。年上が好みだったのか」


「ただの仕事よ」


「どうだか。俺には関係ないから別にいいが」


 アリスが目を細め、ハンプティを睨んだ。


「『解毒剤』持ってるんでしょ?」


「ああ、そうかもな。だが、コーカスカリウムはかなり希少な毒だ。カネじゃ割りにあわねぇ」


「……カネの代わりに何がほしいの?」


 ハンプティがあたりの様子を伺った後、「耳を貸せ」といいたげに手招きのジェスチャーをする。


 アリスは眉を寄せると、ハンプティに耳を貸した。

 

 ハンプティがアリスの耳元にささやいた。


「一発ヤラせてくれたら、考えてやってもいいぜ」



 がっ。



 アリスはハンプティのネクタイを掴んだ。


「あぐ!」


 ハンプティのネクタイを掴んだアリスは、ハンプティの首を力任せに引き寄せる。


 ウィーン。


 運転席のパワーウィンドウがせり上がり、ハンプティの首がパワーウィンドウに挟まれた。


「快適かしら?」


 抑揚のない声色でアリスはハンプティにいった。


「せっかくのネクタイが仇になるとは皮肉ね」


 サイドブレーキを下ろし、アリスは軽くアクセルを踏んだ。


「な、何するんだアリス……」


「あんたをウィンドウに挟んだままドライブするのよ。それくらい見ればわかるでしょ」


 セダンが前にゆっくり動いていく。

 首をパワーウィンドウに挟まれたハンプティは、セダンに引きずられるように、強制的に地面を歩かされている。


「や、やめてくれ」


 パワーウィンドウに喉を押し潰されているハンプティが、かすれた声でアリスに懇願する。


 アリスは無表情でハンプティに一瞥を投げる。


「犬のうんこで歯を磨いてるの? あんた。口臭やばすぎ。マジで吐きそうなんだけど」


「す、スピードを落としてくれ。頼むよ」


「スピードを落とせ? 何いってるの。今からあげるところよ」


 セダンのスピードが徐々に上がっていく。

 それに比例して、ハンプティが地面を蹴る音が増えて聞こえる。


「コーカスカリウムの『解毒剤』をさっさとよこしなさい」


「こ、ここにはない」


「わかってわよ。あんたが『解毒剤』を持ち歩いてないことぐらい察してるわ。あんたの家まで押しかけてあげるから、場所を教えなさい」


「家にもない……持ってないんだ」


 アリスは前を見て、パワーウィンドウのボタンを強く押す。


 ぐぇっとハンプティが呻き声を上げた。


「つまんねぇギャグほざいてんじゃねぇぞ、デブ」


 低い声で、アリスが暴言を吐いた。


「本当だ! 持ってないんだ」


「なら『解毒剤』を持っている奴を教えろ」


「ど、『Dr.チャップリン』だ! もともと奴がコーカスカリウムを作った! 奴なら解毒剤を持ってるはずだ」


「Dr.チャップリン……? ねぇ、君知ってる?」


 アリスがイナバに振り返った。


 ぽたっ。

 ぽたっ。


 膝の上に赤い液体が滴り落ちる。


 イナバは鼻の下を指先で拭い、指先の血を見つめた。


 視界のピントが合わなくなった。


「お、おい……マジかよ」


 イナバはデジタル時計を確認する。


 14:46:34。


 バカな。


 タイムリミットまで30分以上残ってるはずだ。


 どうして?


 やばい、意識が……。


「ちょ! イナバちゃん? イナバちゃん! ねぇ!」


 アリスがイナバの肩を揺すっている。


 体に力が入らない。


 世界がぐるぐる回り始める。


 カラーだった世界がモノクロに。


 ぐるぐる回って。


 見える世界がすべて暗く塗り潰れた。



 To be continued...

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アリス・イン・クライムシティ 有本博親 @rosetta1287

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