アリス・イン・クライムシティ
有本博親
コーカスゲーム編
12:23:26
+
イナバが目覚めた時、世界は回っていた。
天井がぐるぐるぐるぐる。
LEDの照明がぐるぐるぐるぐる回っている。
ぐるぐるぐる。
ぐるぐるぐる。
おえ。
気持ち悪い。
マジで吐きそうだ。
なんだこれ。
病気か?
腹の中でごちたイナバは、上半身を起こし、あたりを見渡した。
白い壁に。
白いカーテン。
白い照明。
白いテーブル。
唯一、白じゃないのは、部屋の壁際奥に設置されている大型モニターだけだった。
ここどこだ?
俺の部屋じゃないみたいだが…。
ホテル?
なんだか知らないが、ホテルの部屋にいるのか? 今俺は。
ホテル……。
いや、このホテル。
知っているぞ。
三つ星ホテル。
ホテル『シーサイドビーチ』だ。
窓の外にトウキョウ湾が広がっている。
トウキョウ湾とスカイツリー。
それにフジサンが見えた。
白を基調とした部屋の装丁に見覚えがある。
それに、フジサンがあの角度で見えるホテルは『シーサイドビーチ』で間違いない。
ここがホテル『シーサイドビーチ』の一室なのはわかった。
そして自分がキングサイズのベッドに仰向けで倒れていて、激しく目を回している状況なのも把握した。
唯一わからないのは。
なぜ、俺が三つ星ホテルの部屋のベッドでぶっ倒れているのか。
それだけだ。
イナバはベッド横にあるスタンド台に振り向いた。
愛用しているフチなしのメガネが置いてある。
メガネを手に取って顔につけると、まずたをぎゅっと強く力を入れて、ぱちぱちと瞬きを2回ほど繰り返した。
目の焦点が定まらない。
物が二重に三重にも重なって見える。
目覚めた瞬間より幾分か平衡感覚は戻ってきているようだが、頭の中はまだ激しく揺れているように感じる。
「うっ」
くらっときた。
思わずイナバは頭を抱える。
この揺れの感覚はなんだ。
酒か?
いや……大学時代の連中とウォッカ一気飲み勝負をしたことがあるが、あれと比較すると100倍ひどい酔い方をしている。
酒じゃないぞ、この酔いは。
《ようやく目が覚めたか》
突然、大型モニターに電源がついた。
イナバはメガネを外し、目頭を手で揉む。
メガネをつけ直し、顔を上げて目を凝らしてモニターを見つめた。
!?
脳の揺れが止まった。
「お前は」
《優雅な朝を迎えて幸せ者だな。イナバくん! こんな豪華なホテルに寝泊りもできたんだ。俺たちに感謝しろよ。クソったれハッカー》
タンクトップに坊主頭。肩に肥った鳥の刺青を入れた男がモニターに映っている。
──この男。この顔。
知っている。
名前は、ドナテロ・デミトリ。
通称『DD(ドードー)』。
コウホク・エリアを縄張りにしている中華系ギャング団のリーダーだ。
なぜDDが俺のことを知っている!?
《なんだ。そのツラ。なんで俺様がお前のことを知っているかって聞きたそうなアホヅラだな。いいぜ。親切な俺様が教えてやるよ。3日前のことを思い出しな、クソハッカー》
3日前……。
なにがあったけ?
えっと。
たしかクレジットカード会社の『顧客データリスト』を盗んだっけな。
会社名は、なんだ。
ど、ど? ど……『ドアーズ』だ。
去年か一昨年に設立された顧客数も数百人ほどしかいない小規模クラスのザコ会社だった。
そうだ。思い出したぞ。
クレジットカード会社のくせに、個人情報を保護するファイアウォールがお粗末すぎたものだから、カフェで注文したアイスコーヒーが来る前に、全顧客リストを吸い出すことができたんだった。
「なんだこの素人会社は。これじゃ盗んでくださいっていってるもんじゃねぇか! うははは!」って腹の中で大爆笑したのを覚えている。
それからドアーズの顧客リストをダークサイト『Queenofheart.com』で1万トーキョウドル(日本円で100万円)で叩き売りしたんだ。
──で、手に入れたカネでその日は贅沢して知り合いの女の子たちに高級ディナーを奢ったんだっけ。
《思い出したか、クソハッカー。そうだ。『ドアーズ』だ。その『ドアーズ』はな、俺の会社なんだよ!》
ぞくっ。
寒気が走った。
なんだと?
ドアーズがギャングの会社だって?
事前に調べた時はそんなこと……。
まさか!
《下調べが甘いんだよクソガキ! 誰がギャングの『フロント企業』だとばれるようなことをする? ドアーズの代表は俺様のオンナが経営しているんだボケ!》
イナバは口を手で覆った。
バカだ。俺は。
大バカも大バカだ。
ギャングが資金源確保するために、金融会社をフロント企業にするのは常套手段だ。
恋人や愛人。
あるいはまったく関係性のない他人。
第三者からギャングとの繋がりが悟られないように、カタギを代表に仕立て上げる。よくある手口じゃないか。
普通、勘づくだろ。
仮にもクレジットカードの会社が、あんな子供騙しのファイアーウォールを設置している時点でおかしいと気づくべきだ。
《クソハッカー。よくも俺様の会社の個人情報を盗みやがったな。覚悟できてるんだろうな?》
モニター越しにDDがイナバを指差した。
すると。
カメラがズームアウトした。
ズームアウトとしたことにより、DDが立っている部屋の全貌がフレーム内に映った。
イナバは目をむき、絶句した。
白い壁に。
白いカーテン。
白い照明。
白いテーブル。
そして、白いシーツが敷かれたキングサイズのベット。
そのキングサイズのベットには、見覚えのあるマヌケ男が大の字になって倒れている。
俺だ。
気を失っている俺がベットの上に倒れている!
《はは、赤ん坊みてぇな間抜けヅラで寝てやがる。バカ丸出しだな》
DDが寝ている俺のそばに座ると、顔を持ち上げてぺちぺちと頬を叩いた。
カメラのフレームの外から、DDの部下らしき男たちの嘲笑する声が入ってきた。
《今からてめぇを挽肉にして、トーキョー湾の魚の餌にしてやろうと思ったが、それじゃおめぇが必死にもがくツラを拝むことができねぇ。それにおめぇをこの場で殺せばホテルの従業員の掃除の手間が増えるしな》
寝息を立てている俺の両頬を鷲掴み、DDは「あん? 聞いてるのかてめぇ?」と声をかけた。
起きる気配がまったくない。
たぶん、かなり強力な睡眠薬か何か盛られたんだ。
どうりで頭が揺れるわけだ……。
《そこでだ! てめぇの罪を償わせるために、俺様が画期的な『アイディア』を思いついた!》
パチン。
DDが指を鳴らすと、タンクトップにジーンズ姿のいかにもギャングという風体の筋肉男がカメラのフレームに入ってきた。
筋肉男がイナバの体を仰向けからうつ伏せに転がし、イナバのズボンをずり下ろした。
うそ……だろ!
おい、待て!
《安心しろ! てめぇのケツのバージンは奪わねぇよ。俺様のコックはてめぇが死んでからたっぷり使ってやる。その代わり、このオモチャで遊んでやる》
筋肉男の右手に、ペンのような何かかが握られていた。目を凝らして見てみると、それがペンではないことをわかった。
注射器だ。
あれは『注射器』だ!
何か注射針の先端から紫色の液体が垂れている。
なんだ。
あの注射器に詰まっている『紫色の液体』は?
ぶすっ。
注射針がイナバの尻の肉に突き刺された。
「うわぁああああ!」
自分の尻に得体の知れない『紫色の液体』が注射される映像を目の当たりにし、イナバは悲鳴を上げた。
《どうだ? サイコーの気分だろ? てめぇの体にぶち込んだのはコーカスカリウムっていう遅行性の『猛毒』だ! 発症すれば全身の代謝機能が全て停止し、呼吸不全と心停止で即死する!》
DDは自分の腕時計を外し、カメラに文字盤が映るようにカメラのすぐ前に近づけた。
文字盤は、朝の9時18分を指していた。
《6時間後だ。てめぇの寿命は6時間後で尽きる! どうだ? 名付けて『コーカスレース』!! いい名前のゲームだろ? くははは!死ぬ前にせいぜいてめぇのやったことを後悔してろ! ボケナス! がははははは!》
ぶつ。
ざざざー。
モニターの映像が切れ、砂嵐が映った。
顔から汗がだらだらと滝のように流れる。
どくっどくっと、心臓の鼓動が強く高鳴った。
イナバはベッド横に置いてある置き時計を奪い取った。
現在の時刻は、12時30分だ。
もしDDが今日の9時18分にウィルスを注射したのなら。
タイムリミットは、3時間12分……。
「ちきしょう!」
イナバは叫んだ。
頭を抱え、何度も「くそ! くそ! くそ! ちきしょう!」と、ぼやくように悪態をついた。
なにがコーカスレースだ。
だっせぇ名前をつけるんじゃねぇ。
──いや。
そもそもそ、なんでドアーズのことを1ミリも疑わなかった。
クレジットカード会社のくせに、ファイアーウォールがおざなりだという時点で、怪しいと気づくべきだったのに……俺のばかばかばかばか!
くそ!
くそ!
くそぉ……。
かつて俺は国防省の防御プロトコルも突破したことがある。
3時間だ。
いくつも設置された複雑なファイアーウォールを3時間で突破したのは、戦後において俺が初めてだろう。
この世界で俺は無敵だ。
物理暴力では最弱だったとしても、ネットの世界では、どんな壁だろうと敵だろうとねじ伏せることはできる。
──なんて調子に乗っていたら、このザマだ。
ちきしょう。
どうする?
どうすればいい?
あのキレたギャングのことだ。
コーカスカリウムは、たぶんその辺の町医者にかかったぐらいで解毒剤がもらえるようなチャチな毒なんかじゃない。
俺を殺す気満々だ。
マジモノの猛毒に決まっている。
イナバは部屋の窓際に置いてあるテーブルに目を向けた。
テーブルの上には、ダイヤル式の旧型電話が置いてあった。
ベットから飛び降りたイナバは、テーブルの旧型電話を使ってフロントに電話をかけた。
コール音が二回鳴った後、電話口から「フロントです」と声が返ってきた。
「もしもし! 頼みたいことがある! ネット接続されているラップトップを一台貸してくれ! 大至急だ!」
イナバは電話口でまくし立てるようにいった。
どんな猛毒だろうと、必ず『解毒剤』は存在するはずだ。
コーカスカリウムの解毒剤が何なのか、どこで手にい入るのか、まずは『情報』を手に入れかい限り話にならない。
ダークサイト『Queenofheart.com』は犯罪都市トーキョウのあらゆる『黒い情報』を網羅している。
『Queenofheart.com』にアクセスできれば。
コーカスカリウムの情報を取得することができる。
……はずだ。
「え? なんといいました?」
電話に応対したフロントが、驚いたように訊き返した。
イナバは苛立った。
「ラップトップ! ノートPCだよ! あるだろ? そこに?」
「……申し訳ございません。当ホテルで貸し出しサービスを行なっているPCはホテル一階にあるデスクトップPCのみでございます。デスクトップPCをご利用なさいますか?」
デスクトップ……。
くそ、持ち運びができないじゃないか。
ちきしょう。背に腹は変えられない。
「ああ、わかった。利用するよ」
「1時間ご利用につき、450トーキョードル(4500円)となります」
なに?!
高っ!
ぼったくりか! ふざけんな! この……。
イナバはフロントに向かってクレームという名のあらん限りの罵詈雑言をぶつけようとした。が、その刹那、重大な事実に気付いた。
しまった!
俺、拉致られてここにいるから、カネを持っていない。
く、くそぉ……。
「すまん、デスクトップの利用はキャンセルするよ。そのかわり、この電話って『外線』は使用できるか?」
「使用できます。『外線』の利用は、お部屋サービスの料金に含まれています。『外線』を利用する場合、ダイヤルの0ボタンを押してからご利用お願いいたします」
イナバは「ありがとう」と伝えると、フロントとの通話を切った。
もうシノゴノいってられない。
あそこに電話をするのだけは死んでも避けたかったが、もうそんな悠長なことがいえる余裕はない。
ちきしょう。
てめぇの詰めの甘さを本当に恨むぜ。くそったれ。
腹の中で散々ごちるイナバは、フロントに教えてもらった0番をプッシュし、電話番号を入力した。
コール音が5回鳴った。
くそ、まだか。
イナバは顔を擦り、貧乏ゆすりする膝の上で人差し指をとんとんと強く叩いた。
「はい、株式会社『クイーンオブハート』です」
電話口に出たのは、甲高い女の声だった。
「俺だ。イナバだ。今すぐあんたらの『ボス』に繋いでくれ。緊急事態なんだ」
「ボス?」
電話口の女の声が、戸惑った様子で訊き返してきた。
イナバは舌打ちした。
「ジュディスだ! あんたの雇い主、ギャング団の女ボスだよ!」
「ギャ、ギャング? あの?」
「いいから自分の上司にこういうんだ! 『白ウサギからハートの女王に緊急伝達だ』って」
「あ、あの?」
電話口に向かってまくし立てたイナバは、一方的に電話を切った。
+
──15分後。
電話がかかってきた。
イナバは親指の爪をガジガジ噛んでいたのをやめ、受話器を取った。
「この私に電話を折り返しさせるなんて、いい度胸してるわね。白ウサギ」
低い女の声が電話口から聞こえた。
聞き覚えのある声だ。
イナバは声を聞き、ほっと安堵した。
「白ウサギ。あんたが電話に出た女の子はギャングでもなんでもない、ただのカタギの受付嬢よ。カタギに自分が勤めている会社の上司がギャングだというのを教えるなんて、あんまりじゃないかしら」
「ああ、だろうな。30年前ならそうかもな。だが、今のトーキョウは30年前と違う。この街じゃよくあることだ。自分の勤め先がギャングのフロント企業だなんてのは」
「……緊急事態って何かしら?」
イナバはこれまでの経緯をジュディスに説明した。
「ふーん、つまり、DDとかいうチャイニーズにあんたははめられて、あと3時間ぐらいで死んでしまう猛毒打たれて死にかけてるってこと」
正確にはあと2時間45分だ。
額に溜まった汗を手の甲で拭いながら、イナバは心の中でつぶやいた。
「そうなんだ。もうどうすることもできない。このままじゃ俺は全身に毒が回って死んでしまう!」
「そりゃお気の毒様」
ジュディスは他人事のようにいった。
「おい! 冗談なんかじゃないぞこれは! マジでピンチなんだよ!」
「でしょうね。ピンチなのはひしひしと伝わってくるわ。で? あんたはこのジュディスに何をしてほしいの?」
イナバは下唇を舐め、前髪をかき上げた。
「『ボディーガード』を1人雇いたい。あんたのところから」
「ボディーガード? なぜ?」
「決まってるじゃないか。『解毒剤』を手に入れるためだ」
「言っている意味がわからないわ。『解毒剤』を手に入れるなら、病院で処方してもらうべきじゃないの?」
そうだな。
普通の発想ならそこに行き着くだろう。
「だからこそ、『ボディーガード』が必要なんだ」
もし俺がDDなら。
標的である俺をこのまま野放しにはしない。
もし、俺が病院とか薬局とかで運良くコーカスカリウムの『解毒剤』を手に入れてしまえば……猛毒でもがき苦しむ俺の姿を拝めなくなる。それどころか、復活した俺に逆襲されてしまうこともありえる。
俺がDDなら、徹底的に俺の動向を見張るだろう。
どんな手段を使ってでも。
俺が『解毒剤』を手に入れることを阻止するはずだ。
「俺は死にたくない。どんな手段を使ってでも、何がなんでも『解毒剤』を手に入れるつもりだ。だが、奴は俺を殺すことに躍起だ。俺が解毒剤を手に入れようとしたら、恐らく『殺し屋』を送ってくる」
「それで『ボディーガード』を雇いたい。そういうこと?」
「そうだ。病人には付き添い人が必要だろ?」
ふーっと息を吐く声が聞こえた。
おそらくタバコの煙を吐いたのだろう。
「白ウサギ。そういう仕事は『警察』や『民間警備会社』に依頼するべきじゃないのかしらね? 少なくとも裏社会のギャングにお願いすることじゃないわよ」
イナバは頭を抱えた。
「つまらないジョークだな。ジュディス。警察に行くぐらいなら死んだ方がマシだろ」
治安の良い町に住むただの一般人なら、迷わず『警察』に駆け込むべきだ。
だが、ここはトーキョウだ。
ヨハネスブルクの2番目に犯罪発生率が高い街だ。
この街の『警察』は、腐りきっている。
賄賂をギャングから受け取り、一般人から罰金という名のタカリをする。
ゆえにこの街の商人たちは、みかじめ料を払ってギャングを用心棒に雇って身を守っていたりしている。
あいつらに期待するだけ無駄なことだ。
「『民間警備会社』もそうだ。あいつらは金さえ積めばすぐに寝返る連中だ。信用できない」
「あらら、白ウサギ。まさかあんた……私の組織が慈善事業のボランティア団体か何かと勘違いしてないかしら?」
低い口調でジュディスはいった。
「今回のあなたの件、話を聞いてる限りだと、すべてあなたの自業自得に起きたことよ。ろくに下調べもせずにギャングのフロント企業に手を出して型にはめられたアホな青二才を、どうしてこのジュディスが助けないといけない? あなたも犯罪者の端くれなら、自分でなんとかしなさい」
冷たくジュディスが突き放した。
正論だ。
至極真っ当で、反論の余地がない。
確かにその通りだ。しくじったのは俺自身だ。自業自得だ。
だが。
「……だから、あんたに連絡したんだ。ピンチの俺を救えるのは、俺に『借り』があるあんたしかいないからな」
「借り?」
「そうだ。あんたがギャングのボスになれたのも、敵組織の情報を俺があんたに売ったおかげだっていうのを忘れたわけじゃないだろ?」
「……ずいぶんと昔のことを引っ張り出してくるのね」
「ああ、そうだ。俺はまだあの時の借りを返してもらっていない。だから、その借りを今返して欲しい」
「ほぉ、ずいぶん強気ね。いつもと違って」
「強気にもなるさ。なにせ命がかかってるからな。もしあんたが俺の頼みを断るなら、俺は残り6時間を使ってあんたの組織を壊滅させるためにあらゆる破壊工作をやってのける。冗談なんかじゃないぞ。本気だ。あんたらの情報サーバーにファイアーウォールを設置したのは俺だからな、1時間もあれば実行できるぜ。こっちは」
煙を吐く音が聞こえた。
「……私を脅すつもり?」
「ああ、そう聞こえなかったか? 俺は文字通り必死だ。生き残るためならなんだってする。あんたが俺の頼みを聞いてくれるなら、どんなに遠くにぶん投げたフリスビーだろうとテニスボールだろうと尻尾振って取って来てやるよ。これからもあんたらが優位になる仕事をなんだって引き受けてやる。約束だ」
イナバは心臓を掴むように胸を強く掴んだ。
構成員2万人の最凶ギャング団の女ボスを前に啖呵を着るなんて、普段の自分には絶対できない。
死ぬとわかっていれば、なんだってできる。
昔の人の言葉は本当だな。イナバは心の中で深く噛み締めた。
「面白いわね、白ウサギ」
ふふふふとジュディスの笑い声が聞こえた。
「ヘタレのあんたがこのジュディスに駆け引きを仕掛けてくるなんて、本当笑える。気に入ったわ」
「気に入ってくれて結構。だがな、ギャングのあんたから聞くクソみたいな説教や正論なんて今は聞きたくない。俺が心底聞きたいのは、『心配するなイナバくん。私が片付けてやる。なんでも解決するスーパーマンが大急ぎで向かうから、冷静になってそこで待て』って言葉だ。もう一度いうぞ。それ以外は聞きたくない。絶対にだ」
ベッド周りをうろうろと立ち歩きながら、イナバはけたたましくジュディスにまくし立てた。
ジュディスの深いため息が聞こえた。
心底呆れたような、深くて大きいため息だった。
「…………心配ないわ、イナバくん。私が片付けてあげるわ。今から『アリス』が大急ぎで向かうから、そこで冷静になって待ちなさい」
棒読みでジュディスはイナバが要求する台詞を返した。
イナバはベッドに腰を下ろし、安堵の息をついた。
「これで満足?」
「ああ、それだよ。聞きたかったのは」
「生きていたらまた会いましょう。幸運を祈るわ」
ぶつ。
電話が切れた。
イナバは立ち上がり、洗面所に向かった。
ああ、ちきしょう。
どうして俺がこんな目に……。
洗面所にある鏡に映る自分を見て、「くそっ」と悪態をついた。
高校生の頃。
ネットで読み漁ったインフラの知識を元に、上場企業のサーバーにクラッキングをした。
犯罪行為だということはわかっていた。
捕まれば懲役5年の刑に処されることも、調べてわかった。
興味本位だった。
本当に映画みたいに大企業のサーバーに侵入できるのか、好奇心でやってみた。それがきっかけだった。
あっさりと企業の秘匿情報を手に入れることができて、俺は自分の生きる道を見つけた。
これだ。
俺にはこれしかない。
世間の偽善者どもはクラッキングは犯罪行為とかなんとか批判するが、俺からすれば、頑丈なセキュリティ対策を施していない企業がアホなだけだといえる。
餓えたライオンの群れの中に、足の遅いインパラが迷い込んだらどうなるか。誰が見ても結果はわかるだろ?
ここは犯罪都市トーキョウだ。
このトーキョウでは、食うか食われるか。
その2つしかない。
アルコール依存症の母親を持つ俺は、10歳の頃、病院の判断で施設に送られた。
そして15歳の時に、俺は施設を脱走した。
施設を脱走した俺は、俺と同じ境遇のストレートチルドレンと徒党を組み、店の商品盗んだりして、その日暮らしの生活をするようになった。
盗んだノートPCをいじくって、ハッカーの真似事みたいなことを試しにやってみたら、マジで情報を盗むことができた。
盗んだ情報をギャングたちに高値で売れば、その日は仲間と贅沢ができた。
そうやって、俺はトーキョウで生き残ってきた。
仲間が狡猾なギャング団にはめられて、酷い目に遭ったり、時には殺されたという話も聞いた。
死にたくない。
ホームレスのように、路地裏の生ゴミを漁るような惨めな生活をするなんてまっぴらごめんだ。
いいもの食って。
いい家に暮らして。
高い車を乗り回して。
女の子はべらして。
誰もが羨む贅沢な生活をしてやる。
自分のスキルをフルに使って、俺はこの犯罪都市でのし上がってやる。
そう心に固く誓って、今の今まで生きていた。
「くそ!」
イナバは奥歯を噛み、腰を下ろしたベッドの上で貧乏ゆすりをした。
なんだ。
もし神様がいるなら、そいつは俺に向かって「イナバくん。あなたはこれまで散々悪いことをしてきたんだ。そのバチが当たったんだよ」といいたいのか。
ああ、そうだ。
俺は悪党だ。
そのうち報いを受けるのは覚悟している。
だけど、これはそうじゃない。
報いなんかじゃない。
これは俺がマヌケなだけの失態だ。
自分のスキルを過信して、調子に乗って下調べを疎かにした完全なミスだ。
どうせ死ぬなら、もっと派手なことをして死んでやる。くだらねぇ凡ミスごときで死んでたまるか。
絶対生き残ってやる。
どんなことをしてでも絶対に生きてやる。
イナバは強く拳を握り、自分が犯罪者としてトーキョウで生きることを決意した時のように、固く心の中で誓った。
キーッ。
ギャルギャル。
ヴォンヴォンヴォン。
なんだ?
やけに外が騒がしいな。
イナバはベッドから立ち上がり、窓に歩み寄った。
「なに!?」
目をむき、全身の鳥肌が立った。
ギャングだ。
タンクトップに刺青を肩に入れた筋肉マッチョのいかつい男たちが、ホテルの前に車を停めて続々と降り始めている。
まさかあのギャングたち。
DDの手先?
何しにきた? まさか……俺を殺しにきたのか?
はっ。
と、イナバは我に返り、気づいた。
急いでベッド横にあるスタンド台の固定電話を手に取ると、電話本体から繋がっている電話線の元口を手繰っていった。
電話線の元口に、電話線を複数接続できる『電話線タップ』があった。
イナバは電話線タップを引き抜き、床に置いて思いっきり踏んづけた。
ばきっと割れた電話線タップの中から、緑色の『基板チップ』がこぼれ落ちた。
──やられた。
『盗聴器』を仕込まれていた。
さっきまでのジュディスとの会話をすべて、DDたちに聴かれてしまった。
バカか俺は。
さっき自分でいったじゃないか。
俺なら標的の動向を徹底的に見張るって……。
当然、盗聴もしてくるはずだ。
そんか当たり前のこと、なぜ予測できなかった。テンパリすぎにも程があるだろ。
盗聴されていることに気づかないで外部に救援の電話をするなんて……一度ならず二度もやらかして、本当大バカ野郎だ、俺は。
イナバは部屋の玄関に走った。
部屋の外の様子を覗こうとドアノブを掴んだ。
あれ?
円柱型のドアノブを右に回そうとしても回らず、左に回そうとしてびくともしない。
どういうことだ?
なんで出られないんだ?
「おい、これ……」
イナバはドアノブの上部に設置してある物体の存在に気付いた。
この黒い親指サイズの小さな画面は……。
まさか『指紋認証』か?
試しにイナバは親指を指紋認証画面に押し当ててみると、画面上から赤く光る線がゆっくり下に降りていき、イナバの指紋を読み込んだ。
すると。
《エラーです。もう一度指を当ててください》
「ちきしょう!」
イナバはドアを殴った。
こんな安ホテルの部屋なのに、設置するのに40万トーキョウドル(4000万円)する指紋認証システムを導入しているなんて、バカかこのホテルの経営者は。
って、そうじゃないだろ。
やばいぞ。
この状況。
マジでやばすぎる。
焦燥するイナバは、部屋中にある窓という窓を調べた。
「ああ、マジか」
どの窓も開閉する鍵がついていない。
オフィスビルと同じ仕様で、外側から業者が掃除するタイプだ。
窓ガラスを割って脱出するか?
いや、ダメだ。
仮に窓ガラスを割ったところで、外壁を伝って降りれるようなスペースはない。
窓の外の景色と地面との距離を見る限り、おそらく部屋は10階以上の高さに位置している。
スパイダーマンとかじゃない限り、垂直の壁を降りるのは不可能だ。
なら『通気口』はどうだ?
風呂場にある『通気口』からなら脱出でき──。
って……アホか俺は。映画の見過ぎだ。
あんな体のでかい白人俳優が匍匐前進で通れるほど、ビルの通気口がでかくない。
だいたい、どこと繋がっているかよくわからない場所に入り込むなんて、無謀にも程がある。脱出できずに勝手に袋小路に詰まって自滅する危険もあるんだぞ。
くそ!
くそ!
くそ!
くっそぉっ!
完全に閉じ込められた。
もう部屋から自力で脱出することは不可能だ。
イナバはスタンド台にある置き時計を手に取った。
13:02。
残り2時間10分。
ドアからは出られない。
窓からも出られない。
通気口も通れない。
なら、残った選択肢は3つだ。
①部屋のどこかに隠れてギャングたちが立ち去るまでやりすごす。
②ギャングたちが部屋に入った瞬間を狙って、電気スタンドを武器に奴らに不意をつく。
③もう助からない状況なら、いっそ自殺する。
この選択肢の中で。
生き残る可能性があるのは②だ。
ギャングたちは俺が部屋から脱出できないのを知っているから、①は絶対に通用しない。③も論外だ。自殺するぐらいなら、ギャングの誰かを道連れにしてやる。
イナバは電気スタンドのコンセントを抜き、電気スタンドの支柱パーツを握って、ドアの前に立った。
ドタドタドタ!
廊下に男たちの足音が響いた。
そっと、イナバはドアのロトスコープから外の様子を覗いた。
がちゃ。
ドアの前で、タンクトップのギャングが『機関銃』を構えるのが見えた。
鳥肌が立った。
イナバは無我夢中で部屋の奥に向かって駆け出し逃げた。
ががががががががが!
三つ星ホテルのドアが、割れた煎餅のように破片が床に散らばった。
硝煙が室内に立ちこもる。
頭を抱えて床に蹲ったイナバは、びくつきながら顔を上げた。
むんずっ。
髪の毛を掴まれた。
「びびったか? クソガキ」
筋肉ダルマの刺青男が、イナバを無理やりベッドの上に投げ飛ばした。
ギャングは3人。
全員、黒のタンクトップにジーンズ。首筋や腕に刺青を入れている筋肉ダルマだ。見分けはつかない。顔も3人とも厳ついゴリラみたいな印象だから、三つ子かと思えてしまう。
「電話なんかしやがって。てめぇ、覚悟できてるんだろうな?」
「ひぃいいいいい!」
3人のギャングが持つ機関銃の銃口が、イナバに向けられた。
「殺さないでくれ! 頼む! 頼むよぉおおお!」
「うるせぇ! 死ね」
視界が白黒に暗転した。
死ぬんだ。
俺。
ここでゴミ屑のようになって死ぬんだ。
それがわかった。
はっきりと。
報いか。
これは俺がやってきた報いなのか?
悪いことをしたからバチが当たったっていいたいのか?
──そんな。
そんなこと信じたくない。
だって、このトーキョウには俺よりも人を不幸にして旨い汁をすすってるクソ野郎はごまんといる。
それなのに、俺だけが貧乏くじを引いたというのか?
ちきょう。
ふざけるな。
そんなの納得できるか。
毒で死ぬのにあと2時間もあるのに。
こんなところで。
俺は死ぬのか。
こんな結末あってたまるかよ。
死にたくない。
まだ25歳なのに、こんな惨めな死に方をしたくない。
神さま。
もう一度チャンスをくれるなら、俺はなんだってする。
善人になるなら善人になる。
もう二度と法律を犯すような悪いことはしない。
だから、頼む。
チャンスをくれ。
生き残るチャンスを俺に……!
そうイナバは心の底から願った。
顔面が涙で濡れてくしゃくしゃに歪みながらも、イナバは深く深く懇願した。
「あのぉーー、すぃませぇーん」
声が聞こえた。
ギャングたちとイナバが振り返ると、眼鏡をかけた若い女性従業員がキッチンカートを押して部屋に入ってきた。
「えーとぉ、お取り込み中ですか?」
女性従業員がきょろきょろとあたりを見渡している。
ギャングたちが女性に機関銃を向けた。
「見りゃわかるだろ。消えろ、女」
「あー……すぃませぇん。そうでしたかぁー、ところで……ひとつお訊ねしてよろしいでしょうかぁー?」
女性従業員がイナバに指を差した。
「あの方は、ひょっとして『イナバ』様でしょうか?」
「うるせぇ…てめぇには関係ないだろ」
ドスを利かした低い声で、ギャングが女性従業員を恫喝する。
「イナバ様でお間違いないのですね?」
「やかましい! 死にてぇのか!」
ぱんっ。
破裂音が室内に響いた。
イナバが見ると、女性従業員がギャングの頬に平手打ちしていた。
どさ。
巨漢のギャングが床に崩れ落ちた。
「は?」
「え?」
サブマシンガンを持ったギャング2人が唖然となった。
一体、何が起こった?
状況を理解できないギャング2人が、呆気にとられた。
その瞬間。
めきっ。
イナバから見て左側に立つギャング。
そのギャングの上半身が、突然、横Vの字に曲がった。
左フックだった。
女性従業員の左腕が、ギャングの横っ腹に深々と突き刺さっていた。
「がっ」
横っ腹に左フックをもらったギャングの目が、ぐるんの白目になり、地面にうつ伏せで倒れる。
「な、なんだてめぇええええ!」
残ったギャングが、女性従業員に機関銃の銃口を向けた。
刹那。
べきっ。
渇いた破裂音が室内に響いた。
「ぎゃあああああああ!」
ギャングの悲鳴が轟く。
機関銃を持つギャングの両手首が、曲がってはいけない方向にぐるっと曲がっていた。
機関銃を地面に落とし、筋肉ダルマのギャングが号泣しながら膝立ちした。
「いてぇえええ! いてぇえええよぉおお!」
女性従業員が「はぁ…」とため息をついた。
「まったく情けない。ギャングなんだからいちいち泣かないでよね」
なんなんだ。
これは。
一瞬で3人のギャングを。
しかも機関銃で武装した筋肉男たちを倒しただと?
一体、何者なんだ?
「トーマス・J・イナバだね」
ベットにしがみつくイナバに、女性従業員が声をかけた。イナバはびくつき、「あ、ああ。そうだ」と返事した。
「まさか、君が?」
イナバは目をむいた。
「ええ、アリスよ。よろしく」
女性従業員が眼鏡をとった。
アリスと名乗った女性の黒い瞳に、口を開けて唖然とするイナバの姿が映っていた。
To be continued...
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