小狐と迷える剣士
葵月詞菜
第1話 小狐と迷える剣士
あの小狐と初めて会ったのはいつだっただろう。
確か、小学校高学年の頃だったように思う。あの頃は剣道に夢中な少年だった。
近くに住む祖父が剣道場を開いていたこともあって、朝早く起きて朝稽古、学校から帰ったら夕方の稽古と今考えると信じられないような毎日を送っていた。
両手、素足の裏にまめを作っては潰し、また新たに作っては潰すの繰り返し。だがそんな痛みすらも忘れる程、楽しくて仕方なかったのだ。
どうやったら相手からより早く確実に一本を取れるのか。祖父を相手に、二つ年下の弟を相手に、道場に通う稽古仲間たち相手に打ち合った。
その無我夢中さが功を奏したのかどうか、いつの間にか
ある日、誰もいない道場で一人素振りをしていた時だった。
ふと視線を感じて目を向けると、開け放していた扉からこちらを覗いている小さな獣を見付けた。初めは犬か猫が紛れ込んできたのだろうと思った。
しかし、その獣はひょっこりと顔を出すと、目をキラキラさせて喋ったのだ。
「兄ちゃんすごいな!」
「は?」
思わず振り上げた竹刀を頭の上でピタリと止める。かろうじて手を離さなかったのは、試合中何が何でも離さないという意識がここでも無意識に働いていたからだろうか。
獣はぴょこんと道場に足を踏み入れようとして、
「足拭いた方がええ?」
「……ちょっと待って。今そっち行くから」
八霧は竹刀を下ろし、一度深呼吸をしてから入り口の方に歩いて行った。
獣は大人しく八霧がやって来るのを待っていた。傍まで行って、そこにいるのが小狐だと分かる。ただし普通とは少し様子が違っていた。二足歩行で目の前に立ち、コートのような衣服に身を包み、毛糸で編んだ小さな鞄を斜め掛けにしていた。
(また変なやつが寄って来た……)
八霧は内心やれやれと溜め息を吐いた。急に言葉を話す獣が現れて彼が冷静でいられるのは、このような非日常が珍しくないからだ。幼い頃から、わりと人間以外の存在と関わることがあった。
「お前どっから紛れ込んだんだ?」
棚からタオルを取って小狐の足を拭ってやる。小狐は暴れたり逃げたりすることなくされるがままになっていた。
「ちょっとこの辺散歩してただけやで」
関西弁を聞くのは初めてのパターンだな、と思う。
足を拭かれて床に上げてもらった小狐は、竹刀の周りのぴょんぴょんと跳ねながら興味深そうにそれを見つめた。
「なあなあ、もっかい振ってえや」
「ん? 素振りか?」
小狐が頷くのを見て、八霧は少し距離を取ってから竹刀を構えた。息を整えて、素振りを始める。小狐は先程のように目をキラキラさせて見入っていた。
(何なんだこの狐)
今まで同じように小動物が近寄って来た場合、一緒に遊んでとせがまれることの方が多かった。だがこの小狐は、ただ八霧の素振りを見ているだけで満足そうだった。
「お前、こんなの見てて楽しいの?」
「楽しいで。兄ちゃんの振りは綺麗やな。剣士みたいや」
「そうか?」
小狐に褒められてもどう反応していいのか分からず、八霧は視線を泳がせた。
その日、弟が道場にやってくるまで小狐はずっと八霧の一人稽古を見学していた。
「キリはホンマに剣道が好きなんやなあ。楽しいてしゃあないって体中で言ってんのが分かる」
あれから小狐は毎日のように現れた。八霧が一人だけの時にしか目の前に現れることはなかったが、こっそり稽古を盗み見ているようだった。
「そうだね。今はどうやって勝つか考えながら練習して、実際に試合で勝つのが楽しくてたまらない」
汗を拭いながら本心を吐露すると、小狐も嬉しそうに頷いた。
「キリはきっとまだまだ強なるやろなあ。わいも楽しみや」
それから中学に入学する少し前まで小狐は姿を現し続けた。中学で八霧が部活で剣道を始め、学校で過ごすことが多くなっていくにつれ、だんだんと会わなくなっていった。
あれからもう六年以上経つだろうか。
月が明るい夜、八霧は誰もいないひっそりとした道場の中に一人立っていた。
片手に持った竹刀を何となく振り上げる。
八霧は中学三年の時に剣道から離れた。一年、二年と全国大会の個人戦で結果を残してきたにも関わらず、三年の最後の夏の大会を最後に竹刀を置いた。
別に誰かにこっぴどく負けたとか、挫折した、というのとは違う。それまで勝っても負けても楽しくて楽しくて仕方がなかった剣道が、ある日ぷつりと糸が切れたようにわくわくしなくなってしまい、やる気もなくなってしまった。
三年の夏の大会は地方予選で負け、それまでの成績で強豪校の高校推薦の話もきていたのに断ることになった。祖父を始め先生たちもまだ期待してくれていたのは分かっていたが、どうにも八霧自身の熱意は失せていて、どうにもならなかった。
逃げたと言われても仕方ない。結局、祖父や剣道を続けている弟とも距離を置きたくて遠い県外の高校に入学した。寮生活を送り、そのままその地で大学に進学した。
たまにこうして帰省すると、何となく道場に顔を出すことはある。弟や祖父から稽古をつけてもらっていた少女に稽古をせがまれると気まぐれで相手もするが、それでももうあの時ほどの熱量は戻って来なかった。
(そう、今までは)
八霧は馴染んだ動きで真っ直ぐに竹刀を振り下ろした。ビュンっと風を切る音が聞こえた。掌には硬くなったまめの跡が微かに残っている。
「キリ、また始めたんか?」
「まーね」
入り口から聞こえた声に当たり前のように返し、素振りをもう二回程してから竹刀を下ろした。
入り口にはあの変わった小狐が二本足で立ってこちらを見ていた。
八霧が動く前に、すでに勝手知ったるふうに近くの棚からタオルを拝借して自分で足を拭いている。慣れたものだな、と思わず笑ってしまった。
「大学でさ、仲良くなったやつがまさかの剣道馬鹿だったんだよ。気をつけてたんだけど、ある時オレが昔剣道やってたことバレてさ」
それからしつこい程の勧誘を受け、とうとう八霧が折れて一度稽古に参加をしたのが運の尽きだった。
八霧は困った風に眉を顰めながら、しかし口元には笑みを浮かべていた。
「久しぶりに本気で稽古したら、思いのほか楽しかったんだ」
稽古でバテることはなかったが、当然ながら動きも勘も鈍っていた。思い通りに動かない体が若干歯痒くも気持ちはわくわくとしていた。
「その友達はキリより強いんか?」
「まあそこそこ。――オレからは一本も取れなかったけどね」
ニヤリと笑うと、小狐は愉快そうに笑い返した。
「さすがキリやなあ。わいも見たかったわ」
「冗談。あんな鈍った姿見せらんないよ」
かつて小学生の八霧を剣士のようだと言ったこの小狐に、そんな無様な姿を見せるわけにはいかない。
(あの頃と同じようには行かないかもしれないけど)
あれから六年がかかってしまった。だが再び、八霧の中でわくわくするような高ぶりが熱をもっている。
「もうあのまま離れても良いかなって思ってたんだけどなあ」
ここらでまさかUターンすることになるとは。
自分の竹刀をそっと撫でる。ずっと実家に置いていたものだが、弟が手入れをしてくれていたのですぐに使えた。
「大丈夫や。八霧はきっとまた剣士になれると思うで」
「何だそれ」
小狐があまりにも自信満々で言うので、八霧は苦笑しながらも本当にそうかもしれないと思ってしまった。
「楽しみやなあ。今度は試合も見に行こかな」
「お前は一体どこまで散歩に出かけるつもりなんだ」
八霧の現在の大学はずっと西の地方である。この小狐は散歩だと言ってそんな所まで現れるのだろうか。――いや、ただの狐ではなさそうなのであり得るかもしれない。そもそも一体どこに住んでいるのか。
「ほらキリ、竹刀振ってえや」
「はいはい」
小狐があの頃のように目をキラキラさせてこちらを見る。
八霧は小さく笑い、息を整えてから竹刀を大きく振りかぶった。
小狐と迷える剣士 葵月詞菜 @kotosa3
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