ノスタルジィ・ラッシュアワー
稀山 美波
ノスタルジィ・ラッシュアワー
「また来年のお盆だねえ。あんたはさ、不器用で人付き合いが苦手だから。そっちで上手くやれてるのか心配だよ」
外では、ひぐらしが静かに鳴いている。
窓の外から見える田畑は朱色に染まり、ほのかに夜の香りが鼻腔をつく。縁側から差し込む夕焼けが我が家の中を燃やし尽くす中で、母の背中がぽつりと呟いた。ひぐらしの声よりも微かなその声は、薄く広がる赤の中へとじんわりと溶けていく。
「心配しないでよ母さん。なんとかやってるって」
努めて明るく言ってみせるが、母の背中は答えない。急に古郷を飛び出してしまったのだ、それも無理はない。仕方のないことだとわかっていながらも、背中を百足が這っているかのようなもどかしさと、ちくりと胸を刺すような心苦しさを感じてしまう。
「母さん、背中が小さくなったな」
居間で小さくまとまっているその背中は、かつて俺が見ていたものよりも、遥かに小さく弱々しく見えた。盆が来る度に、確実に年老いていっている。ゆっくりと衰退していくこの田舎とまるで繋がっているかのように、母も小さくなってゆく。
カナカナカナ……と徐々に小さくなっていくひぐらしの声は、まるでこの田舎と母を暗示しているかのように思われた。茜色の中に消え入るそれと同じように、母も消えてしまうのではないか、そんなことを考えてしまう。
「また来年の盆も来たいからさ、ちゃんと準備しててくれよな、母さん。だから、元気でいてくれよ」
何も言わない小さな母の背中を名残惜しく眺めながら、俺はそっと家を出た。大きく溜息をついて、俺は田舎を後にする。
しまった、と思った時には、もう遅かった。
一年振りに母の姿を見れた嬉しさから、随分と長居をしてしまったのがよろしくなかった。辺り一面は、帰路を急ぐ者たちで一杯となっており、ぎゅうぎゅうに詰まった乗り物が遥か先まで続いている。
Uターンラッシュ、毎年のことではないか。
誰も彼も、この日のこの時間に古郷を離れるのだ。それは仕方がない、仕方がないことなのだが、やはり参ってしまう。
これを味わう度に、『来年はもっと早く古郷を出よう』と誓うのだが、喉元過ぎれば熱さ忘れるのが人間の性か。俺と同じような人間が、同じようなフォルムの物体に乗ったまま、ひどく疲れた顔をしている。
全く進む気配のない列を眺めるのは退屈以外の何物でもないので、俺は視線を横へ移し、ぼんやりと古郷の風景を眺めていた。
相変わらず緑しかない田舎だと、改めて実感する。
眼前に広がる田園風景も、その先にある雑木林も、その遠くにうっすらと見える深い山も、すべてが緑色なこの土地を、『田舎』以外の言葉でどう表現してくれよう。
田んぼへ流れる水の音に混じり、ひぐらしの物悲しい鳴き声が染み入っていく。そんな田舎和音に、低く響く蛙の声も混ざり出した。いよいよ日暮れが近いのだ。赤く染まった緑色が、段々と黒く染まっていくのが見える。街灯も少ないこの田舎では、そういった色々が著しく変わっていく様子を濃く感じることができる。
「ああ、ほんと、田舎だな」
ぽつりと、自嘲気味にそう言った。
「ほんと、俺の田舎だよ」
それは自嘲か、羨望か、郷愁か。
呟いた俺自身も、わからずにいた。
ただやはり、俺はこの田舎がたまらなく好きなのだ。この盆が終わって帰れば、夕焼けを見ることは叶わないが、この景色を見る度に俺はとてつもない帰郷感に襲われる。
遠く離れてしまっても、古郷を思う気持ちは変わらない。
一年しか離れていないのに、ひどく懐かしい、ノスタルジィな気分に苛まされて仕方がない。古郷を、母を、俺はやはり愛しているのだ。
「あれ、
じわりじわりと古郷の景色が遠ざかって見えたのは、列が進んでいるのか、俺の瞳に涙が溜まっているのか。それすらもわからなくなっていた時、ふと自分の名前を呼ばれ、はっと我に返った。
声のした方へ振り向くと、高校生くらいであろう男子が、俺の乗っているそれに幅を寄せて近づいてきていた。
「
「わかんねえよそんなの。司は……」
「二十五歳で」
「そっか、じゃあ丸々十年会ってなかったのか。いやあ懐かしい。お前、大人になったなあ。けどすぐ司だってわかったぜ。」
それは、俺の家のすぐ近くに住んでいた、邦彦という青年だった。彼は俺の親しい友人だったが、高校生となった時に古郷を離れたので、それ以来会っていなかったが、そうか彼も帰郷していたのか。
「そう言うお前は変わらねえなあ」
「当たり前のこと言うなよな。お前んとこの母さん、元気か?」
「いや、あんまりだな」
「そらそうだな。仕方ない」
まるで十年前と同じように、邦彦は俺に笑顔を見せてくる。俺の中で疼いて仕方がなかった郷愁が、彼に出会ったことでさらに高まっているのを感じた。十年前と変わらぬその表情に、まるで時が巻き戻ったかのような錯覚を覚えてしまう。
「そうだ、覚えてるかよ司。坂本ん家の親父いたろ、あの恐ろしい雷親父だよ」
「うはっ、いたなあ。やめろよ思い出させんなよ」
「その坂本の親父さ、さっきこの列の後ろの方で見たぜ」
「マジかよ。あの人も古郷出たのか。うわあ、会わないようにしよう」
かつで友人同士だった俺たちは、当時を取り戻すかのように、長いこと話し続けた。思い出を語らい、笑い、肩を叩く。その何気ない一時が、この帰郷の間だけ成立する幸せが、俺にとってはかけがえのないものだ。
その楽しい時間はあっという間に過ぎ、ひぐらしの声も蛙の声もすっかりと止んで、古郷の姿は見えなくなっていた。辺りは闇に包まれて、芋洗い状態だったUターンラッシュも鳴りを潜めている。
俺と邦彦を乗せたそれは、どんどんと闇の中を進んでいく。
盆が終わりを告げようとしているのだ。
「それにしてもよお。こいつ、どうにかならんのかね。遅いし硬くて尻は痛いし、たまんねえや」
そんな中、邦彦は自らが乗るそれの尻辺りを叩いて、わざとらしく肩をすくめてみせた。叩いて奏でられた乾いた音の中に、どこか水気のある瑞々しさが混じる。
「いつものことだろ」
あまりに当たり前のことを言う邦彦に呆れて、大きく溜息を漏らしてしまう。
「今年の盆に用意されてた茄子は、特に乗り心地が悪くて仕方ねえや。動物らしい形なんざ求めてないってのな、俺たちは。行きで乗ってきた
邦彦を乗せた茄子と割りばしの乗り物――死者の魂を乗せる『
「なんだよな、胡瓜と茄子の乗り物って。もっといい乗り物はなかったのかね」
「胡瓜は馬を、茄子は牛を表しているそうだ。現世に来る時は早く来てくれるようにって馬を、現世から去る時はできるだけゆっくりできるようにって牛を、らしい」
魂だけの存在である俺たちは、胡瓜の精霊馬に乗って、あの緑豊かな田舎へと帰省した。そしてお盆が終わる今、茄子の精霊馬に乗って冥界を目指す。
その足の遅さから、毎年魂共のUターンラッシュはえげつないものとなっているが、今年はそれでよかったのかも知れない。高校時代にこの世を去った友人と、こうして長く語らうことができたのだから。
「じゃあな、司。また来年、お盆にな」
やがて、邦彦と彼を乗せた茄子の牛は、闇の中へ消えていった。
直感というか第六感というか、とにかくそういったもので感じ取れるのだが、俺も消える時が近い。また来年のお盆まで、俺は冥界で眠りにつく。
先ほどのラッシュアワーとは打って変わって静かな闇の中、心に灯ったノスタルジィを、俺は口にする。
「じゃあね母さん。また来年」
意識と姿が闇に溶ける中、一瞬だけひぐらしの声が聞こえたような気がした。
ノスタルジィ・ラッシュアワー 稀山 美波 @mareyama0730
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