帰巣Uターン

チクチクネズミ

彼女がいないベッド

「いい時期だし、終わりにしよう」


 彼女が提案したのは俺の就活が終わったときだった。特にショックもなかったのは俺たちの関係がであるからだ。


 自分の家から大学まで少し遠いのと、さっさと家族のしがらみから離れたく物件を探したが、どのマンションも家賃が高く途方に暮れていた。そんな時たまたま訪れていた同じ不動産屋で同じく家賃が高いことで悩み、そして偶然にも同じ大学に通っていた奏と巡り合った。

 お互いの事情が全く似通い、奇妙にも気が合ったことから四年間同じ部屋で家賃折半して過ごす契約を交わした。もちろん男女の間ということで四つの協定んでのことだが。


 1.お互いの部屋とプライベートに干渉しない。(特に奏の部屋、入浴中は厳禁)

 2.自分のことはできる限り自分で。(洗濯物は自分のものだけを入れること)

 3.同居していることはバラさないこと。

 4.この契約は大学卒業まで有効である。


 家賃のためだけの関係のみで構築された俺たちはただただ家賃分担をするだけと徹底し、自分たちの好きな時間を過ごし、奇跡的にも卒業するまでの四年間同居していたことを大学の友人たちに知られることはなかった。


「奏はここに住むのか?」

「私も出ていく。女の給料じゃ高くて払えないし、一人だと広すぎるもの。それにようやく自分だけの家」


 卒業が迫りつつある中で粛々とお互いの荷物を片付けながら聞くと、奏は特に思い出も語らずドライな反応で粛々と自分の物を段ボールに詰め込む。その答えは俺も同じ感情であった。このマンションでの同居生活はうるさくて居づらいことばかりだったからだ。


              *


 先にマンションから引き払い仕事場に近い賃貸の一部屋を借りた。奏でと同居した部屋より間取りは狭いが一人で過ごすには十分の広さで、何もない部屋が余計に広く感じられた。


 まず一番に部屋に置いたのはベッドだった。寝転がると、重たい自分の体をスプリングが受け止めて体が沈み込む心地よさが全身に広がってくる。しかもそれが独り占めできるという同居しているときでは味わえなかった。

 大学の同居時代はベッドを買う金がなく、奏も俺も布団で寝ていた。すぐ横になれるベッドと違い、一々敷かないといけないので帰ったら折りたたんだままの布団にダイブなんてよくあることで。しまいには両者ソファーに寝転がっていることもあった。


 どうしてソファーで寝ることになってしまったのか。簡単だ。そこにテレビがあるからだ。お互い自分の部屋でスマホで動画を見るのだが、たまにお互い見飽きてしまい契約時についていたテレビを見て、そしていつの間にか寝てしまうという落ちだ。

 そして翌日にはお互い「契約違反だ」「狭すぎて途中で起きてしまった」と嫌味の応酬が始まるのが常だった。


 だがそうそんな生活とはおさらば! 俺の横にはもう誰もいない。全部俺一人のものだ! とベッドの上で飛んだり跳ねたりして完全な一人暮らしの生活をスタートさせた。


                 *


 一人暮らしを始めて夏のころ、それもボーナスの日の翌日だった。先輩社員たちが一人一人ボーナスに歓喜しているのを横目で見るしかできない鬱憤が溜まり、朝からベッドで寝そべっている。こういう不満があるときは奏か大学の友人たちがはけ口になっていた。だがあれからほとんど会うことも、連絡すらもない。社会人になったら大学時代の人間関係は消えたようになくなるというのは本当だな。

 そんなことを考えていると、シーツから漂う汗臭い匂いが気になった。


「そろそろ洗濯しなきゃな」


 気分転換も兼ねて独り言ちて、シーツを絡め取ると汗の匂いが自分の顔に染み付いてきそうだった。改めても自分の匂いというものは嫌だった。どんなに消臭スプレーをかけても自分の臭い匂いが鼻についてくる。

 それに比べて奏の布団はいつもいい匂いだった。協定でお互いの服は触らないようにしていたが、敷きっぱなしシーツや布団は範囲外でたまに俺が洗うとき奏のシーツからは香水のほかにほんのりとした汗の匂いがあった。

 男のものとは違う甘く芳しい匂い。特に夜遅く帰った翌日のは匂いが濃い。

 人前では小ぎれいにしているのに帰ると服を脱ぎっぱなしにして、床面積を減らしたり。おまけに家ではインスタ映え無視の大量生産重視の料理ばかり作って、余ったからと晩飯の予定を狂わせるわ。何度協定違反だと訴えたか。


 ……あいつ何しているのだろう。一人でやっていけているのだろうか。まさかゴミ屋敷になってないよな。


 シーツを洗濯機の中に入れた後、いつの間にか手は奏の連絡先を探していた。

 彼女のライン画面を開いた時、頭の中で彼女の妄想が広がった。地元で就職しているはずだからまだあそこにいるのだろうか。今まで付き合っている人の話なども聞かなかったのだが、そいつと一緒にいるのだろうか。その顔を知らない男と同じベッドで寝ているのだろうか。

 自分でも驚くほど、奏に対して邪なことばかり浮かんでくる。

 どうして奏のことばかり浮かんでくるのだろうか。大学の連中のことを考えようとしても、奏の顔とあの匂いが邪魔してくる。


 やっぱり、俺は……


             *


「で、結局この部屋に戻ってきたと」

「それはお互いだろ。電話をかけようとした時、お前から電話がかかってきて。しかもまだあのマンションに住んでいるとか驚いたんだからな」

「それはこっちの台詞。まさか住んでいた賃貸を引き払ってこの部屋に戻ってくるなんて馬鹿じゃないの?」

「馬鹿はそっちだろ。せっかく荷物一緒になって纏めたのにまた再契約とか、あの時家賃高いとか言ってたくせに」

「ほかにいいところなかっただけ。少し節約すれば払えるのだから」


 今日運んできた段ボール積み上がっているのを文句言いながら、奏お得意の大量生産したペペロンチーノを頬張る。「再協定結ぶ?」と遠回しに誘ったくせに強情なんだからと俺も残りの好きなニンニクが多いところを自分の皿に盛る。


「それよりも段ボール早く片付けてよ。部屋が狭くなる」

「うるさいな。明日には片づけるから」

「こっちに来たときも三日で片づけるからと言って、結局一週間後になったじゃん」

「あの時は新生活スタートだったから遅れるのは仕方ないだろ。今度は間に合うから」


 相変わらずの嫌味満載の会話だった。しかし奏の顔はにやにやとして満足げである。

 夕食を食べ終えると奏が自分の部屋に誘い、扉を開けるとそこには予想通りというか足の踏み場がないほどノートやら脱ぎ捨てられたスーツ用シャツがころがっていた。


「周りの服とか片付けろよ」

「注目するとこそこ? みてよダブルベッド! いいでしょ。大人買いしちゃった。ベッドが来るまで隣で寝れるように枕ももう一個買ったから」

「それは協定違反じゃ」

「それは旧協定でしょ。あんたが戻ってきた理由もどうせここが理由なんでしょ」


 奏はポンポンとベッドを叩いた。どうも彼女とは毎度のことながら奇妙なことに気が合う。


 マンションに戻ってきて初めての夜、奏のベッドからは懐かしい匂いがふわっと浮き上がった。ラベンダーとシャンプーの混じった匂いで、奏に気づかれないように寝息程度に息を吸う。すると奏の方からも寝息にしては強い息が小さな鼻へと吸い込まれていった。


 数日後、俺のベッドは到着したがそこに俺が横になることはなく、数年して荷物置き場になってしまった。

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