魅せられた男

 このように蝉の五月蠅く鳴く時期になると、思い出すことがある。ひんやりとした大理石の床に、どこか浮世と隔絶されたような空気。一面にはわかったようなわからないような絵が飾られていて、喋る者はなにもない。そこに入るとまるで屍者にでもなったような心持ちになる。少し埃っぽい展示場も、眼鏡をかけた真面目腐った観覧客も、久しく見ていない。近所の美術館は今どうなっているのであろうか。

 若い頃、私は一時期、連日のように美術館に通っていたことがある。その日も例外ではなく、飽きもせず一日中同じ絵の前でぼんやりと座っていた。

 その頃は美術館で期間限定の特別展をやっていた。期間限定、という広告に惹かれ久々に入ってみたところ、私は一枚の絵に無性に魅せられてしまったのだ。それからはその絵の展覧期間中、毎日その絵の元に足繁く通った。これから話すのはその期間のうちの一日、私がその絵を見た最後の日のことである。

 

 絵の中には、西欧風の少女が座っていた。書き物をする手を止めて、一瞬だけこちらに視線を向けた少女。その揺り動く瞬間をひたりと掬い取ったような、そんな絵だった。彼女は時を止められたように、私と目が合い、今私に気づいたような、そんな姿勢のまま平面の中で息をしている。きっと彼女が動くことができたなら、視線の先に捉えた私に気づき、笑いかけてくれるのだろう。いや、笑いかけてくれ。ふと私に気づいて、笑いかけてくれ。そう思わないではいられないような絵だった。

 私がいつものようにその絵の前の椅子に座り、彼女が動き出してにこりと笑ってくれるのを待つような気でそれを見ていると、隣に同じように腰掛ける者があった。

「若いお方、あなたはこの絵によほどご執心のようですね。」

 どうやら私に向けて声をかけているようだ。声の主に目を向けると、そこには初老の男が座っていた。人の好さそうな柔和な顔に、少し草臥れた背広。初老、とは言ったがもしかすればまだ壮年かもしれない。髪は未だ黒々としている。細くしなびたような躯付きが笑顔と共に刻まれた深い皺と相まって実年齢よりも老けた様な印象を与える。

「えぇ、どうにも彼女の魅力に執り憑かれてしまったようでして。ここ数日は彼女に逢おうと毎日のように此処へ来ております。」

 私はにこにことした初対面の男に少しだけ心を許し、彼女が魅力的であることについて話した。どことなく愛嬌を感じさせるその男は、時折相槌を打ちながら一頻り私の話を聞いていた。

 その男は相変わらず温和な笑みを浮かべながら口を開いた。

「いえね、あなたさまと同じ様に、いいえ彼の方が酷かったかもわかりませんが、とにかく絵画に憂き身を窶した男のことを存じ上げておるのです。ですから、参考に、などと差し出がましいことは申しますまいが、そのことをお話させていただきたくてですね…。」

 私は多少の興味を覚え、その話の先を促した。絵画に熱を上げるなど常人のすることではないが、その特異ではあれど無害な嗜好がそう面白い結末を引き起こすはずがない。しかしわざわざ話をするほど珍妙な出来事なのかしらん、と、好奇心が騒いだ。私は生来、奇天烈なものを好むタチなのである。

「これは私の兄の話です。兄は絵描きでありました。それも、いつもいつも、薄気味の悪い片輪の者だとか、地獄の鬼だとか、そういったものを描いておりました。意外にもそういう絵には好き者の顧客が一定数ついているようで、商売は上々、兄は毎日気ままに絵を描いてはそれを売っておりました。

 あるとき、私が母からの伝言をいいつかって兄のアトリエへ入ると、製作途中の油絵がおいてありました。それは下描きから少し絵具を乗せたばかりでしたが、どうにも若い、寧ろ幼いといっても過言ではないような少女に違いありません。先ほど申しましたように兄は化生か凄惨な情景か、気味の悪いものばかり描いておりましたので、私は不思議に思って兄に尋ねました。

「兄さん、随分と可愛らしい絵ですね。特注の絵でもお描きになるのですか。」

 兄は鉛筆を削りながら笑って答えました。

「いいや、あれは誰にも売るつもりはない。偶には何時もと違ったような絵を描いてみようと思っただけさ。なんだい、俺の気がふれたとでも思ったのか。普段の絵にはそんな気持ちの悪いものを、と言うくせに。」

 冗談めかした兄の様子に、私は少しばかりほっとしました。実を言えば、これまで異常なほど猟奇的な絵に拘ってきた兄が突然愛らしい乙女なぞ描き始めたものですから、本当に兄の気がふれたか、それともなにか変なものでも食ったのかと密かに疑っていたのです。しかし兄はいつもの剽軽な調子で、本当になんでもない、只の気まぐれのようでした。

「エエ、そうですか。完成を楽しみに待っておりますね。嗚呼そうだ、どうやら親戚の××さんが亡くなったらしくて、母さんが葬式のことで兄さんを呼んでいらっしゃいましたよ。それじゃ僕は自分の部屋に戻ります。」

 兄のアトリエはまだ売っていない絵や趣味の悪い模型品がそこかしこに置いてあり、あまり長居のしたいものではありませんでした。私はそそくさとその部屋を出ました。絵具や溶剤の独特な匂いが、心做しか私の服にも染みついたような気がしました。

 幾日かすると、その絵は徐々に完成に近づいていきました。私は兄のアトリエに、その絵を見るためだけに顔をだすようになりました。その絵には、人を惹きつける様ななにかがありました。

 艶々とした黒い髪を肩口で切り揃え、じっとりとした大きな目でこちらを見つめる少女。小さな鼻と口がつんととがり、気が強そうな、美しい、十四、五くらいの女の子でした。それがなんだかもの言いたげに私へ向くのです。兄が絵を描き進めるごとに、その生々しさは増していき、今にも動き出して話しかけてきそうな様相となっていきました。徐々に精密になっていく陰影の具合は、絵画と現実の境界を限りなく暈しました。

 ある日私が兄のアトリエを訪れると、その絵は完成したようでした。少女は白く飾り気のないワンピースを着ており、相変わらず小生意気な表情で私を見ています。それはとても誘惑的で、きっと現実にいたら数多の男がぞっこんになっていただろうと思われるような美少女でありました。

 兄は、その絵の前に阿呆のように立ち尽くしておりました。ものも言わず魂を抜かれたようにその絵を見つめている兄があまりにも不気味で、私はそれがどうにも気まずく、なんでもないような振りをして声を掛けました。

「おや、絵が完成したのですね。とても可愛らしいじゃないですか。僕はこの女の子に惚れてしまいそうですよ。さすが兄さんだ、生きているみたいな絵です。」

 おどけた調子で私が言うと、兄は血走った様に私の肩を掴み言いました。

「ああ、お前もそう思うか。これは生きていると、そう思うか。俺にはこの娘がこのカンバスの中で生きて、意思をもって、それに気づかない俺をこの美しい顔で嘲笑っていると、そう思えてならないのだ。この娘は俺と目を合わせて、自分は生きていると伝えようとしているのだ。だから俺は、この絵を見つめていると、悪魔にでも魅入られたかのように目が離せなくなるのだ。嗚呼、俺はとんでもないものを描いてしまったかもしれない。やはりお前もそう思うか。そうか、そうか。」

 兄は半狂乱でした。私もこの絵に理屈では言い表せない不可思議な魅力があるとは思っていましたが、兄ほどとりつかれてはおりませんでしたので、冗談で申した「生きているような」という言葉に兄がこれほど反応したことを不気味に思いました。

「何を言っているのですか兄さん。いくら本物のような絵と言ったって絵は絵でしょう。これを描くために寝ていらっしゃらないのではないですか。疲れているのです。ですからそんな風に不思議に絵が見えるのです。さあ、お昼寝でもなさい。絵具は僕が片付けておいてあげますよ。」

 私は様子のおかしい兄を一刻も早くどうにかしたくて、急かすように言いました。名残惜しそうに出来上がった絵を見つめ続ける兄を半ば無理やり引っ張っていき、布団で寝かせ、早足で自室へ戻りました。先ほどのことを思い出すと、得体の知れない冷や汗が噴き出てきました。兄はどうにも病的に絵に固執している様子で、兄の文言を信じるわけではありませんが、本当にあの絵はなにか恐ろしい物なのかもしれないと思いました。

 次の日から、兄の病的なまでの執着は一層ひどくなりました。アトリエにも入れてくれなくなりました。どうにもあの少女を自分以外の人間の目に触れさせたくないようなのです。

「俺は確かに恋をしているのだ。あの生意気で、それでいて純な少女に心底惚れているのだ。どうしようもないほどに愛しくてたまらない。彼女のことを想うと食事も喉を通らないほどだ。彼女が動かないのが悔しくてたまらない。俺に一度でもいいから笑いかけてほしい。」

 兄はしつこく問い詰める私にそう言いました。確かに、恋をしていると言ったのです。しかし兄は常日頃より春画や桃色小説の類からどうも変態的な倒錯じみた嗜好をしているように思っていましたので、絵画に惚れてしまうという事態にも驚きこそあれ意外なことではありませんでしたが、ある日から決定的にいよいよキチガイじみてきました。

 じめじめとした廊下を歩き、兄のアトリエへ向かうと、やはり中には趣味の悪い調度品や過去の絵がごたごたと並べられていました。ただ、その中で兄は絵を描いていました。絵の中の少女に惚れてから兄は絵筆をとらなかったので、とうとう恋煩いから立ち直ったのかと喜んだのも束の間、兄が筆を滑らせているのは兄が入れ込んでいた少女の絵だったのです。

「兄さん、その絵は完成したのではなかったですか。それともなにか気に食わないところでも見つけたのですか。」

 兄は一心不乱に何事か書き加えておりました。よくよく兄の手元を覗き込むと、それは非常に美味そうな菓子でありました。年頃の娘が好きそうな、キャラメルだとか、クリームのかかった果物だとかが、緻密に、よほど美味しそうに描かれているのです。私はもう一度、兄の近くまで寄って声を掛けました。

「兄さん、どうしたのですか。何を描いているのですか。」

「見ればわかるだろう。菓子を描いているのだ。彼女の気に入るような菓子を描かねばならんのだ。」

 兄は返事をする暇も惜しいといった様子で応えました。

「彼女が言ったのだ。『あたし、美味しいお菓子が食べたいわ。とびきり甘くて小洒落たやつよ。どうしても食べたいの。』とね。」

 もちろん、絵が言葉を話すはずがありません。とうとう兄は気がふれたのです。キチガイになってしまったのです。私は絶句しました。絵に惚れこむばかりではなく、絵の声が聞こえるだなんて、兄は本当にこの絵にとり憑かれてしまったのです。

 しかし、私にはどうしようもありませんでした。それから兄の異常なほどの倒錯癖は一向に治ることはなく、日を追うごとに増すばかりです。毎日毎日その絵の前に座り込んではぶつぶつとその絵と会話していました。もちろん、本当に絵が話す道理はなく、兄の声だけがアトリエに響いておりました。食事も私がアトリエまで運びましたが、手を付けないこともありました。時折筆を持っては、少女が兄にねだったというものを絵に描きこんで、また嬉しそうに絵と言葉を交わしていました。医者を呼んでも兄は見知らぬ人をアトリエに入れたくないと鍵をかけてしまい、マァ精神病にしても暴れまわることはないので放っておいていいだろうと言われる始末です。私も家族もほとほと困り果てておりました。

 しかし突然、兄がアトリエを出て私の部屋を訪ねてきました。私は今度こそ目が覚めたのかと喜びましたが、少しやつれた兄は、変わらず夢を見るような態度でした。

「お前、赤の絵具を持っていないかい。できれば珍しい色がいい。若しくは赤い顔料の代わりになるものだ。」

「学校で使った古いのがありますよ。しかしこんなものなら兄さんもお持ちじゃあないですか。」

「俺が持っているものは全て駄目だった。彼女はもっと紅いのがいいと、どれを使ってもそう言うのだ。」

「なんですか、また彼女ですか! 今度は一体全体どうしたのです。嗚呼、そんな不毛なことはもうおやめになってくださいな。僕は心配でたまりません。」

 私はついそう兄に言ってしまいました。しかし、兄は全く聞こえていない様子で、ぶつぶつと呟いていました。

「彼女は絢爛な紅い振袖が着たいと言っていたのだ。だれにも負けないほど豪奢で魅力的な赤色が欲しいと。どうすればよいのだ。トルコか、西洋のどこかから珍しい絵の具を片っ端から買ってこようか。」

 私はうんざりしてしまい、兄に使い古しの適当な赤絵具を押し付け、部屋から出ていかせました。どうやら兄は父母にも同じことを尋ねたそうで、またいつもの奇行かと私も両親も呆れ半分、心配半分で見ておりました。

ここまで話が進めばもう先のことはお分かりでしょう。次の日、アトリエにあったのは、振袖姿の少女の絵でした。その振袖は赤というよりは毒々しい紫を帯びた黒色でしたが、ところどころ、確かに鮮やかな真紅に染まっていました。兄はその絵の前で、手首から血を流して倒れていました。私が慌てて駆け寄ると、兄は既にこと切れて、血の海にぐったりと身を預けきっていました。

嗚呼、可哀想な兄さん。兄は少女の振袖を描くために、自らの血を絵具としたのです! 魔性の少女が兄に血を要求したのか、兄が自ら血を差し出したのかは定かではありませんが、この絵の闇に魅入られてしまった結果であることに相違はないでしょう。そうして手首を切り、流れる血が躰の限界に達することにも気づかず、死んでいったのです。

少女の絵は、やはり私をじっと見つめていました。本来、人の血というのは絵具ではありません。出来上がった振袖は到底美しいとは思えない代物でしたが、少女はなんだか満足気に笑っているように感ぜられました。その口元には飛び散った兄の血が付いており、人を喰ったような妖艶さを殊更に深めておりました。

老人の長話に付き合っていただいて、ありがとうございます。それでは若い人、絵に魅入られることは時に身を滅ぼすことに繋がると、そう覚えておいてくださいな。」


人の好さそうな老人は、そう話を締めくくって椅子を立った。私は背筋が粟立つような感覚に陥った。

「あの、その少女の絵は今どこにあるのですか。」

 背広姿の背中に向かって呼び止めると、老人は少し考えるような仕草をして答えた。

「あれは兄の死後、好事家の画商が買っていきました。私たち遺族としてもあんな気味の悪いものは置いておきたくなくて、一も二もなく売りましたよ。どうやら、どこかの美術館に飾ってあるとか噂で聞きましたけれどね。」

「そうですか。ありがとうございます。」

 私はそれだけ言って席を立った。帰り際、ふと見えた額縁の中の西洋少女は、少しだけ私に微笑みかけていたような気がした。あれほど絵の乙女が動くの待っていた私だったが、それ以来美術館には一度も行っていない。蝉の声の響く、夏のことであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中学・高校のときの作品倉庫 サイカワリョウ @31kawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る