火炎の孵化

 西の山が燃えていた。夜更けの暗闇を許さぬとでもいうように、真っ赤な炎が轟轟と、ただ黒い影となった山を吞み込んでいた。それを見ていた嘉助の瞳の中にも、お天道さんのような輝きが映り込んでいた。子供が見るものじゃないと父親が言った。嘉助はしばらく呆気にとられて燃え盛る空を眺めた後、慌ただしく右往左往する大人たちの肢の間をぬって山に向かって駆け出した。風は解けかけた雪の心地よく染みる冷たさを運んでいた。暗闇の中を、燃える山の光だけを頼りに走った。嘉助はだんだんと自分の頭の中が沸騰し、ただ赤い炎のみがこの世にあるように思えた。山のしけった匂いが低い草と共に足に絡まる。足はすぐそこにあるはずなのに、闇に浸かって見えなかった。地布の袖が細い低木に引っ掛かり、枝を折った。しかし嘉助は煌々と山を覆う火から目が離せなかった。前を向いて、ひたすらに走った。すると急に視界が開けて、眼前に真っ赤な炎が広がった。ここが、境目なのだと嘉助は思った。周りを見渡すと、遠く右のほうに、こちらに背を向けて立っている影があった。嘉助はおおいと声をかけた。人影が嘉助の方を向き、手に持った松明を振った。おおい、こっちだ。嘉助は声のするままに人影に向かって歩いた。あまぎ、やっぱりお前か。あまぎは歯を見せて笑った。応、おれがやったのだ。山に火を放てばどがいに美しいじゃろうと思ったのだ。あまぎの両眼は炯々とし、炎の紅が頬を染めていた。濃やかな肌の陰影と薄く桃のようなうぶ毛に、嘉助はよく濡れた不思議に河臭い芳香の蛙を連想した。嘉助はあまぎの腕を掴んだ。白粉を塗ったようなすべっこくて細い腕だった。なあしてお前はこがいなことばっかりしよる。お前くらいのむすめごは皆もう子守やら家の手伝いやらをしているじゃろう。あまぎはつまらなさそうな顔をした。冷たい風が炎に照らされて生々しい温度を含んだ。遠くに大勢の足音が聞こえた。嘉助は言葉を止めて耳を澄ました。大人たちだ。あまぎは松明を燃える山の中に放り込み、そっと茂みの中に身を隠した。嘉助も慌ててそれを追い、横に潜り込んだ。


 乾いた山は三日三晩燃え続け、そしてようやく四日目の朝にその火を収めた。乾燥続きだったからと放火を疑う者はなかった。当のあまぎはもう興味を失ったように平生と変わらない様子だったが、嘉助はいつあまぎが疑われるかと気が気ではなかった。遊んでいるときであっても目をつぶると山姥の舌みたいな炎が山を嘗め回す光景が瞼の裏に浮かんだ。真っ黒な空と真っ黒な山の木々に、炎だけが不気味に赤く輝いていた。嘉助は怖くなって、つい最近近所に嫁いだ五つ上の姐さんのところに行った。姐さんはあまぎと違って優しくて、抱かれると柔らかかった。嘉助、姐さんはこん家の人になったとよ、そう何遍も来てはいかん。姐さんは少し困っていたがやっぱり優しい声だった。白く肥えた冷たい指が嘉助の髪を撫ぜた。姐さんの腋や首からは、木の実を煮詰めたような強く甘い匂いがした。それを嗅ぐと嘉助はなんだか離れがたくて、何度も何度も姐さんのところに足を運んだ。姐さんはいつでも困ったような顔で嘉助を抱きしめてくれた。李の実や蕗の薹を腕いっぱいに持ってゆくと姐さんは喜んだ。桜が咲いて、散って、そのころにはもう嘉助も野火のことなどすっかり忘れていた。

 田植えの季節には豊作を願う祭りがあった。暗がりに篝火が威勢よく燃えていた。女たちは着飾って、薄く華奢な着物で、紅を引いて踊った。その中には姐さんもいた。真っ白な顔に浮かび上がるような鮮やかな紅がなまめかしくて、嘉助は変な気持ちになった。姐さんは女たちの群れの中で踊っていた。大ぶりな髪飾りが高い音を響かせ、姐さんの顔に影を落とした。ほかの女とぶつかり、ほほほと口元を隠して笑った。嘉助は姐さんが姐さんでないような気がして肚の底が冷たくなった。目を逸らせなかった。姐さんが嘉助に気づき、少し口端を上げてほほ笑んだ。嘉助にはそれが姐さんではなくて鬼に見えた。だくり、だくりと自分の鼓動が耳の中で反響した。空間がすべて一続きになったように感じた。体が痺れて動かなかった。姐さんの後ろに巨大な女郎蜘蛛が在って、その糸で絡めとられるような気がして、嘉助は猛烈な恐怖に襲われた。

「ばからし」

 途端に右から声がした。あまぎだった。詰まるような空気が急にほどけて、姐さんはもういつもの姐さんに見えた。嘉助は気が抜けてぱちくりと目を瞬かせた。お前は踊らないのかと嘉助が問うと、あまぎはあんな踊りをするのは”月のもの”がきた女だけだと答えた。嘉助はちらりとあまぎの横顔を盗み見た。踊りを見詰めるあまぎの顔は冷めていて、なにかを憎んでいるようですらあった。祭りの太鼓が調子を上げて、女たちの踊りも激しくなった。ア、ソレ、アッパッパ……と若衆たちが囃し立てる。着物のあわせが乱れ、乳房がまろび出た。生ぬるい、肉の弾性を持ったそれは、姐さんが動くのに合わせてまるで生き物のように揺れた。若衆の一人が姐さんに歩み寄り、手を引いた。姐さんは可笑しそうに笑ってその手を引き返し、若衆を困らせてはまた笑った。姐さんの夫はなにも言わなかった。嘉助は息を呑んでそれを見ていた。あまぎは足元の砂地に唾を吐き棄てた。眉根を寄せて、ちらりと踊っている村娘たちを睥睨してから、踵を返した。おい、祭は始まったばかりやぞ、どげんすっとや。あまぎは答えずにずんずんと歩いてゆく。おい、聞けよ、あまぎ。あまぎは答えない。ざんばら髪が揺れて白いうなじが見え隠れした。祭の火が後ろ向きに遠ざかり、周囲は宵闇に暮れた。嘉助は声をかけながら後をついていった。あまぎはやっぱり答えなかった。二人は山の方に近づいて行った。普段はあまり使わない、行商人たちが通る山だ。祭の音がすっかり聞こえなくなっても、まだあまぎは歩き続けた。嘉助はしびれを切らして、おいとひときわ大きく言ってあまぎの腕を掴んだ。姐さんのあたたかくてやわい腕とは違って、細くて頼りない、まだ何にもなっていない腕だった。あまぎはぴたりと止まって、ゆっくり振り向いた。目には薄く涙が溜まっていた。

「おまんも、あげなのがええんじゃろ」

 嘉助はその意味を捉えかねた。姐さんのあの恐ろしい踊り姿は好かなかったし、しかしそれがあまぎとどう関係があるのかもわからなかった。

「おれも、いつかああなるんじゃろうな」

 あまぎはそう言って、嘉助の手を振り払い、また歩き出した。その先は山だった。どこ行くんだ。嘉助は辛うじてそれを喉から絞り出した。上じゃ。あまぎは言った。誰にも見つからないところに。まだ夜は肌寒かった。嘉助はまだ進むあまぎを追おうとして、やめた。

「あまぎは菩薩さんみたいじゃ」

 なんだ、それ。あまぎは振り返らずに少し笑って言った。

「寺のぼんさんに聞いた。菩薩さんは男でも女でもないんじゃと。」

 あまぎは一度止まって、口を開き、少しためらって、何も言わずに口を閉じてまた歩き出した。嘉助はもう追わなかった。そして、走って祭に戻った。篝火はずいぶん燃え残りになってきていた。村の爺が後片付けをしている以外、人はいなかった。


嘉助は村を出て、町の商家で住み込み奉公をした。村を出るとき、姐さんはいじめられたらいつでも戻ってくるんだよと抱きしめてくれた。お日様みたいな匂いがした。それから何年も過ぎて、体は大きくなり、最後に見た姐さんと同じくらいの年になった。給金も少しばかりだがもらえるようになって、嘉助は奉公仲間と共に色街に赴いた。女郎の甲高い呼び声と、酔った男たちの野卑な笑いが渦を巻いている。嘉助はなけなしの金を懐で握りしめ、まわりを見渡した。侘助花魁のお通りだぞ。威勢のいい声と共に、数人の禿を引き連れた豪奢な女がゆっくりと歩いてきた。しゃなりしゃなりと高下駄を鳴らし、派手な着物に大きな結髪が人の眼を引き付ける。嘉助も群衆と同じように硬直し、彼女を見つめた。美しい女は嘉助を見るや、歩みを止め、そして遊女らしからぬ早足で嘉助に歩み寄ってきた。

「おまえ、嘉助かえ」

 嘉助は驚き、まじまじと女の顔を見つめた。侘助花魁はそんな嘉助の様子を無遠慮に見て、妖艶な笑みを浮かべた。

「”あまぎ”でござんす」

 嘉助は声が出なかった。客にとってやると楽し気に言う侘助花魁に押し切られ、嘉助は座敷に案内された。おまん、あれからなあしよったと。人買いに捕まってしもうてなあ。あまぎはこここと口元を抑えて笑った。嘉助はその姿を見るとゾッとした。悪いが俺は帰る。嘉助が立ち上がると、あまぎは背中にすがりついた。もう少し遊んでおいきよ。嘉助は耳鳴りがして、自分の背中に居るのは鬼じゃないかという幻影が頭に浮かんできた。祭の日の姐さんと同じ白粉の匂いがした。いけずな人。襖を勢いよく開けた。視界が開けて、少しだけ平静を取り戻した。なああまぎ。侘助花魁は顔を上げて嘉助と目を合わせた。

「おまんには野火が似合っていたのに。」

 嘉助は今にも泣きだしそうだった。あまぎは嘉助から目を逸らさなかった。ふと笑って、あまぎは消え入りそうな声で言った。

「酷な人でありんすなァ」

 嘉助は何も言えなかった。そのまま、代金だけ置いて、座敷を逃げるように出た。帰りがけに、十にもならないような禿の少女とぶつかった。転びそうになった少女の腕をとっさに掴んだ。それは細くて、白粉の匂いのしない腕だった。


                     【了】

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