愛の歌

 ぼくはスマホのチャットアプリを開いて、もう一度送られてきた場所を確認した。S通りのD坂総合病院。確かに、目の前にある玄関口の立て看板と名称は一致する。どうやらここらしい。

 太陽を背にでっぷりとした巨躯で鎮座する病院の東玄関口は、夏の最中だというのに蝉一匹鳴かず、いやな湿った空気だけが辺り一面に淀んでいるように思われた。周りの木々が深緑色の葉で陽の光を遮り、制服のシャツにまで翳ったまだら模様を作っている。どうやら主要な入り口は別にあるようで、腰の曲がったしわくちゃの老婆だけがよたよたとおぼつかない足取りで入っていった。もしこれがB級ホラー映画だったら、式三番の面の妖怪でも出てきそうな舞台だな、という場違いな感想が湧いた。

 一歩足を踏み入れると、院内は寒いくらいに冷えていた。冷気が剥き出しの腕を伝ってくる。腰の高さくらいの小窓から警備員の男の人に面会に来たことを伝え、幾何かの個人情報と引き換えに首から吊り下げるタイプの面会許可証をもらう。リノリウムの床をスニーカーでぺたぺたと歩いていると、警備員さんが言っていた通りにエレベーターが見えた。なるほど、その隣にあるのが正面玄関で、本来はそこから入って受付に座っているお姉さんから手続きをしてもらうものなのだろう。エレベーターの前にはソファがいくつかあって、それらは全部人で埋まっていた。病人の群れを横目にエレベーターに乗る。ゆっくりとぼくを乗せた箱が上昇していった。


 サガワツツジは馬鹿な女である。きっかり一週間音信不通だった彼女から久々にチャットの着信があったのが今日の六時限目の休み時間。三日前にぼくからメッセージを送ったときには悪い風邪をこじらせたのだろうとしか思っていなかったが、どうやらそれどころではないらしい。入院したという返信に、仔細も知らないまま学校が終わってすぐに駆け付けた次第である。

 なにせ恋人なのだ。たとえその入院の理由が市販薬のオーバードーズであると書いてあっても、むしろ書いてあるからこそ、心配するに決まっている。馬鹿な女だとは思っていたが、もともと不安症の兆候はなかったように思う。いつもほよほよと笑っているような女だ。なにかあったに相違ない。


 チン、という高い音がして、エレベーターの扉が開いた。苦いような清涼なような淡い薬品の匂いと、病人特有の嫌な臭いが鼻を突く。左右を見回すと、どうやらぼくは運がついていたようで、警備員さんが教えてくれた病室の番号はすぐ近くだった。右手の方に少し進み、三つ目の部屋に、「佐川つつじ」とプレートがあった。1人部屋らしい。なんともブルジョワなことである。

 黄色いカーテンを開け、病室に入ると、ツツジの寝ているベッドの傍らに座っていたのは水の滴るような色男であった。

 色男は、低いチープな丸椅子に長い脚を折り曲げて座り、小さな果物ナイフで林檎を向いていた。眼は長い睫毛が伏せっていて、深い黒髪と相まって愁いを帯びている。形のいい鼻と頬骨には、湿ったような薄い皮膚が、こまやかな陰影を描いていた。

「きみは」

 色男は低い声で言って言葉を止め、ちらりと秋波めいた視線でぼくを見遣り、興味無さげにまた視線を林檎に戻した。

「きみは、ツツジ嬢の友達かい」

 不思議と響く、重い梵鐘の音のような声だった。美貌に気圧されそうになりながら、ぼくはどうにか言葉を絞り出した。

「……誰ですか、アンタ」

「僕が訊いているんだ。きみはツツジの友達かね?」

 不愉快そうに少しだけ語調を強めて色男は言った。刃渡りの短い果物ナイフが規則的に動き、林檎の皮の赤色を反射して煌めいた。

「う、あ、恋人です」

 気圧されてぼくは言い淀んだ。少し迷ったが仕方がない、ここは正直に言った方がいいだろう。別にぼくとツツジが恋人関係であることを隠し立てする必要は全くないのだが、恋人、と改めて第三者に言うと得体の知れぬひやりとした後ろめたさが心臓の裏側のあたりにあった。

 言って、ぼくはなんだか腹立たしいまでの疑念にかられた。そうだ。ぼくはツツジの、この病室の主の恋人なのだ。じゃあ目の前にいる彼は一体全体誰なのだという話である。そんなぼくの心持ちも知ってか知らずか、美青年はきゅうと眉根を寄せ、真剣そうに林檎を剥いていた。

「あの」

「僕かい?ツツジの兄だよ」

 彼はぼくの言葉を待たずに鬱陶しそうに言った。それでもぼくの疑惑の視線を感じ取ったのか、彼はその長身痩躯で立ち上がり、のろのろと自らの鞄を引き寄せ、右手で林檎の汁が付かないよう慎重に学生証を外付けポケットから抜き取ってぬっとぼくの前に突き出した。骨ばった細長い指だった。

 意外なことに彼は大学生だった。近くの某名門大学の文学部の三回生。学生証には証明写真の横に「佐川春樹」と黒々と印字してある。鋭い美貌と威圧感からしててっきり女衒か、そうでなくともまともな職の人間ではないと思っていたのだが。


「……ああ、そういえば“良い人”ができたとツツジが前に話していたな。そうか、君がそうなのか」


 林檎を切り分け皿に盛りつけてから、ようやく色男、もといハルキさんは言った。かたりと音をたてて果物ナイフが机に寝そべる。

 ツツジは壁の方を向いて布団を抱きしめながら寝ていた。どうやら嫌な夢を見ているようで、目を固く閉じて歯ぎしりしている。時折唸るような声が聞こえてきて、まるで猫みたいだと思った。しろくふにふにとした細っこい足が病院着から覗いていた。

「なんとも可哀そうなことにうちの可愛いツツジ嬢はね、風邪薬でオーバードーズしようとしたんだよ。それも、いくつかの薬のちゃんぽんでね。馬鹿な子だよ本当に」

「それは知ってます。理由は、理由はなんだったんですか」

「あー、ね。感じやすい子なんだよ、ツツジは。人一倍ね。何て言うのかなァ…… とにかく、なにもかも嫌になっちまったんだな。それでこの有様さね」

「そんなことじゃあなくて、もっとなにかないんですか。少なくとも学校では目立ったトラブルはなかったはずだ。家庭で、なにか、なにかあったんでしょう」

 ハルキさんは表情を弱めて、首筋をぽりぽりと掻いた。汗の滲んだ鎖骨が、薄手の黒いシャツから晒された。

「そうは言ってもね、なにせツツジがまともに喋れるようになってからまだ二日と経ってないんだ。一週間前に病院に担ぎ込まれたときには半狂乱どころの話じゃなくて、泡拭いて痙攣して暴れての繰り返しでさ。いやあれには僕も驚いたな。医者からはもう文字も読めなくなるかもしれないとまで言われたんだ。まああんなのはリップサービスみたいなモンだろうけどね。それよりもお嬢が起きたら自分で訊いてみたらどうだい、きみ」

 ハルキさんはそう言って立ち上がり、窓をあけて桟にもたれかかった。西日の差す窓からは、生きているのか死んでいるのかわからない老人が車椅子を押され散歩しているのが見えた。

「ときに、少年。」

 視線がぼくに刺さった。ハルキさんはおもむろに金色のパッケージのピースを取り出し、ライターで火をつけて吸い始めた。煙が窓の外に流れていく。

「一般的に、病院内では喫煙厳禁ですが」

「だから窓を開けたんだろう。それで、ツツジと交際をしているのかい」

 疑るような嫌な目だった。枝垂れた睫毛の奥から、大きな真っ暗い瞳がぼくを睥睨していた。口元は紫煙でゆらりと覆われていて見えない。

「ええ、そうですよ。そう言ったじゃありませんか。恋人なんですよ」

 じっとりとした沈黙があった。ハルキさんは値踏みするような、舐るような視線を隠そうともせずにひとしきりぼくを見つめ、ふとねむりこけているツツジに視線を移した。

「きみは運命の相手がいると思っている類の人間かい。プラトニックな、美のイデアを追い求められると、この世にはぶつりと分かれた運命の相手がいると思っているかい」

 だったら、とハルキさんはぼくに視線を戻して言葉を続けた。

「だったら、きみはツツジと遊ぶべきじゃない。なんてったって、ツツジは、まあ僕もそうだけれど、恋愛に関しちゃ畸形もいいところだからね」

 彼は緩慢な動作で煙を吸った。ツツジが寝苦しそうに呻き、寝返りをうった。細い手首に繋がった点滴の管が揺れて軽い音を立てた。

「僕らはダメなんだよ。他人を愛することなんてできっこない。ツバキ兄さんもそうだった。ア、きみ、ツバキのことはツツジから聞いてる? そう、じゃあいいや。兎にも角にも、ツツジに手を出すのはやめたほうがいいよ。きみの望むような恋愛なんかできないから。そういうものなんだよ。何が悪かったのかと言えば僕らの親だろうし、もう少しひねたことを言うなら時代の所為なのかもしれないけど、やっぱりこれは生まれつきのものなんだろうね。ツツジはね、きみのことなんかこれっぽっちも愛してないよ。本人がどう思っているかはしらないけれどさ。ただ、断言できる。ツツジはきみを通してもっと別のものを見ているんだ。或いは自分自身でピグマリオンごっこをしているのかもしれない。どちらにせよこのお嬢さんはきみを愛してなんかいないんだ。だってそれは不可能だからね」

 ハルキさんはゆっくりと言葉を選びながら、しかしぼくの入る余地も与えずに言った。それはまるで自問自答しているかのようだった。

「例えばね、きみはツツジに何を求めている? まあなんだっていいんだけれどさ、それは何一つ返ってこないんだよ。それが歪なところなんだ。僕らの歪んだところなんだよ。先天的にこう、頭のどっかが欠けてるんだよ。むしろ多すぎたのかな。だからきみは」

「それがなんなんですか。別にぼくは何も求めちゃいないし、ただツツジのことが好きなだけなんです。そういうものでしょう、恋愛って」

 ぼくはたまらずハルキさんの言葉を遮った。正直なところわけがわからなかったし、兄だからって畸形だのなんだの言っていい道理はないと思う。長身の美青年は「わっからないかなァ」と小さく呟いてもじゃもじゃと綺麗な黒髪を掻きまわし、足元の方の虚空に視線を泳がせた。

「きみにゃあちと難しいかもしれないな、少年。なんてったってこれは壊れちまってる人間にしかわからないものだ。見たところきみは上手に成長してるからね。親御さんに感謝をおしよ。なんていうかなあ、やっぱりこれは後天的なものなのかなあ。いや、やっぱりあのお袋の腹から生まれてきた時点でこれは先天的なものなんだろうね。絶対にそうなんだ。愛ってもんがわからないんだよ。正しい愛情が。エロースが僕らのことを嫌っているんだろうね。」

 冷房の効いた病室で、開け放した窓から忍び込んだ夏の重い空気がぼくの二の腕を掠めた。壁も床も濁った白色で、なんだかこちらも病気になりそうだと思った。

「そもそもね、恋愛なんてのは、チェスの相手をするのと同じくらいの気持ちでやるのが一番いいんだ。お互いにね。相手も自分も、本気じゃないくらいが。この世に恋も愛も存在しないんだよ。本質的にはね。突き詰めれば全て本能的な醜い醜い執着に還元されるんだよ。全部、きみが愛だと思っているのは、ただのオブラートに包んだエゴなんだ」

「さっきから穿ったことばっかりでうんざりだ。そんなにまでしてぼくとツツジが付き合うのを否定したいんですか? プラトニックな、本当に精神的な愛があったっていいじゃないですか。ぼかァ彼女がなんだったところで気にしませんよ。アンタの言うような畸形だってね。彼女とぼくの間にあるのはあくまでも非常に適切な、互いに相手を信じてるってだけの純粋なものなんです。肉欲なんかじゃない」

「は、若いね。きみは可愛い。本当に」

 ハルキさんは嘲るような笑みを浮かべた。わずかに歪めた口の端から、泡のように紫煙が零れた。

「僕は別に性的欲求を馬鹿にしているわけじゃないんだよ。だから、精神的な、観想的な愛情を求めるなと言っているんだ。それはツツジには猛毒だからね。体が受け付けないんだよ。理解もできない。僕も詳しいことは知らないけれど、妹のことだからなんとなくはわかるんだ。どうせそういった類のことで参っちまったんだろうってね。まったく」

「……百歩譲ってそうだとして、それはアンタが決めることじゃあない。なんならぼくでもなくて、ツツジが決めることだ」

「当のツツジ嬢がこうだから僕が出しゃばってるんだよ。それになにもきみを僕の思い通りに動かそうってんでもない。老婆心からの警告だよ。ただのアドバイス、人生の先輩としてのね」

 そんな風には思えなかったが。ここまで牽制どころか姑みたいな嫌味を言われて忠告と受け取れるほどぼくも馬鹿正直ではない。

「いいかい。あのね、神は死んだんだ。プラトニックなものなんかを求めるのはやめておきなさい。“純粋”なんてのはないんだよ。善い恋愛なんてのもね。ひと皮剥けばそこにあるのはエゴだけなんだ。それを自分の目で確かめたらきっとツツジはいよいよイカレちまう。きみがどうなろうと僕はどうでもいいんだけど。なあ、真善美の先の先、第十の散歩の終わりに見えるのはただの薄汚い肉の塊、ただのエゴなんだ。僕はそれをツツジに見せたくないんだ。肉欲に任せた一夜だけの恋愛ごっこなんてのはむしろ健全なんだよ。プラトニックな愛なんていう幻想を追い求めるよりかはね。情欲を本能と最初から割り切ってやる分には問題ないのさ。ただ、」

 彼はそこで言葉を切った。次第に語調に熱が入ってきて、ヒステリックな響きを帯びてきたところだった。ハルキさんは長い睫毛をゆっくりと瞬かせ、随分短くなったタバコに一瞬だけ口をつけて、離した。そして神経質な仕草で頭を掻きまわし、何事もなかったかのようにまたぼくを見据えた。

「そうだ、ツツジは美術部を辞めたと聞いたけど、本当かい。なにかきみに話していたかね」

 なんだか彼は今までの威圧的な態度が崩れ、言葉も上の空になっているように思われた。

「いえ、まだ辞めてはいないと思いますよ。ただしばらく部活には顔をだしていないみたいですね。絵を描くのが嫌になったとは言っていました」

「はあん、それは半年ほど前から。違うかい」

「え、ええ。たぶんそれくらいです」

「ツツジが腐りはじめたのもそのくらいだろう。きみは絶賛別居中の僕と違ってお嬢と毎日会っているんだから、多少は気づいていたんじゃないのかい? まあおおよその検討はついたよ。ありがとう。ツツジの目が覚めたら絵は描き続けろと伝えておいてくれ」

 ハルキさんはそう言って、コツコツと気取った革靴を鳴らしてぼくに歩み寄り、フッと煙を吐きつけた。タールの重いパープルヘイズにぼくはたまらずくしゃくしゃに顔を歪めた。

「はは、可愛い顔が不細工になった」

 ハルキさんはタバコを携帯用の灰皿に押し込み、意地の悪い笑い方をした。そして艶めかしい翳りのある美しい顔をずいと近づけて、低い顔で言った。

「いいかい、僕の妹を泣かせたら殺す」

 色男は口端を少し上げ、ふいとまた顔を離し、革靴を鳴らして病室を去っていった。

 牽制どころか火の玉ストレートを喰らってしまった。サガワハルキは思っていた以上に危ない人間かもしれない。いつの間にか背中には脂汗で制服のシャツが張り付いていた。


 んむう、という馬鹿みたいに間の抜けた声が響いた。あわてて医療用ベッドに駆け寄ると、ツツジがゆっくりと目を開けた。長い睫毛が眠たげに涙で濡れていた。

「おはよう。目、覚めたの」

「ん」

「なにか要る? ごめん、気の利いたものは持ってきてないんだ。なにせ入院したって聞いて、動転しててさ。水とか買ってこようか」

「ん、ん、みず」

 ツツジは夢うつつといった調子で返答した。とりあえず、お姫様は、ハルキさんの言い方に合わせるならお嬢は、水をご所望らしい。

 「南棟C」と書かれた案内表の横の自販機でミネラルウォーターを買った。病院というのは当たり前だが病人が多くて気が滅入る。病室に戻ると、ツツジは上半身を起こしてのびをしていた。

「ありがとう。ごめんね、わざわざ」

 ツツジはぼくを見上げて言った。均斉のとれた顔立ちはしかし青ざめていて、普段はプラムの実のような唇にも血の気がない。やはり回復はもう少しかかるのだろう。

「い、いや、そんなことはいいんだけど。何があったのか説明してくれないか。もちろんきみがよければでいいから」

 ツツジは受け取った水のペットボトルに視線を落として少し黙った。薄い肌は乾いていて、触ればすぐに傷つきそうに思われた。

「あのね、なにもわからなくなっちゃったの。なんて言うかなあ。とにかく全部がさっぱりって気分になっちゃって。それで、嫌になってね、薬をいっぱい飲んだら嫌なこと忘れられるって隣のクラスのみーちゃんに聞いたから試してみたんだけど、どうやら加減を間違えちゃったみたい」

 小さな子供が言い訳するような口調だった。

「あのね、ハルキさんがさっきまで居たんだ。ほら、そこに林檎置いていってあるだろう。それで、ハルキさんが、絵は描き続けろって」

「あら、ハルキ兄さんが。珍しいわ。そう。もしかして、ツバキ兄さんのことも聞いたの」

「いいや、そのツバキ兄さんって人のこと、ハルキさんも言いかけてたけど、誰なんだい。きみにはまだ兄さんがいるのかい」

「いたわ」

 病室には嫌な沈黙が訪れた。好奇心に負けて藪蛇をつついてしまったとぼくは後悔した。

「死んだのよ。半年前。首をくくってね。遺書はなかった。いくら調べても目立ったトラブルもなかったわ」

 ツツジは硬い表情で、淡々と言った。感情を出さぬよう取繕っているのが痛々しくすらあった。

「変な人、本当に変な人だったわ。私たち兄妹のことをみんな心が畸形なんだって言ってたのよ。思い出しても嫌になっちゃう。ほんと」

「ああ、別に畸形だっていいさ。今は身体障碍も個性だって言われてるし、そんなものじゃないのかい」

 ぼくの返答はお気に召さなかったようで、彼女は小首を傾げて唇を尖らせた。

「それで、きみはなにがわからないんだい。世界の真理やなんかだったら大昔の賢人でも誰一人わからなかったんだから、諦めたほうが賢明だよ」

 ペットボトルのキャップがパキリという音を響かせて開かれた。ツツジ嬢は一口水を飲み、考え込むように虚空を見つめた。ふわふわの長い黒髪が窓から入る不埒な風に靡いた。ぼくは西日のいよいよ赤くなった窓に近寄り、ガラス戸を閉めた。

「愛って言葉はね」

 ツツジが零すように話し始めた。

「いつだってイメージがあるの。大きなギリシアの彫刻が私を睨みつけていて、青いゴム毬は欠けてるの。そのイメージには確かに奥行きがあるはずなのに、なぜか立体感がなくて、私は逃げようとするんだけど、どこにも逃げられない。油絵みたいな世界なのよ。愛っていうのは。それでね、半年前、ツバキ兄さんが死んでからは、そのイメージにツバキ兄さんもいるの。なんだか、嫌になっちゃうなァ。兄さんは無表情で私のそばに黙って立ってるの。そんな人じゃなかったのよ。なに考えてるかわからなかったけど、いつもにこにこ笑ってた。でもイメージの中の兄さんは違うのよ」

 ツツジは一旦言葉を切って、林檎に手を伸ばした。

「そいつは単純だ。きみはその、お兄さんが亡くなったことにショックを受けているんだよ。きみ自身は気づいていなくて、違うと思っているかもしれないけど。心の問題っていうのは往々にしてそういうことがあるものさ」

「違うのよ。そんなことじゃない。あくまでも私を困らせているのは愛ってものなのよ」

 林檎をちまこいフォークに刺したまま彼女は言った。そこにはぼくが意図をわざとずらしたことへの非難が混じっていた。

「ねえ、愛ってなあに。キリストはなんで、性欲でのセックスを嫌ったの? なんでそれはいけないことなの?」

「そりゃあ醜いからだろ。少なくともキリストと、キリストの大好きな神様にとっては」

「正しい愛ってなに? ねえ、淫売婦は愛を与えていたのに、なぜ悪者扱いされるの? 純愛を精神的売春と呼称して、それで反論できる人はいるの? ママがパパに殴られた後に、嬉しそうにベッド・ルームに行くのはなぜ? 愛からエゴをとったら何が残るの? 性が汚らわしいものならなにが美しいの? 表裏一体の愛の裏の部分を私はどうすればいいの? イメージの中で私はいつでも迷子になっているのよ。ベールを被ったキスがなぜ罪じゃなくて、たくさん愛し合うことがなぜ罰せられるの? 私はセックスをしないことが美しい恋愛だと思っていたけれど、善く生きることが正しいことだと思っていたけれど、セックスは愛じゃないの?」

 薄い頬には血色が出てきて、ツツジの口の動きはまるで本人の制御下にないように加速度的に早くなっていった。夕焼けの赤色が濃くなるのにつられるように言葉が溢れる。

「キリストは、なにから生まれてきたの? 神はいったい全体マリアに何を授けたの? 神は正しいの? 神は愛を愛していないの? ねえ、神は」

 偏執狂めいた言葉は終に泣きそうになっていた。ツツジは救いを求めるようにぼくを見た。

「あなたは私を、本当に愛してる?」


「当然だろ。ぼくはきみのこと、めちゃめちゃになりそうなくらい好きだよ」

 一拍おいて、ぼくは答えた。確かに本心からの、心の底からの言葉なのに、それはぼくとツツジの間を上滑りしたように感ぜられた。


「ごめん、帰って。私、ここのところ本当に酷いの。薬のせいじゃなくってよ、なんていうかなあ、参っちゃったの。また、またイメージがあるのよ」

 彼女は頭を押さえ、呻くようにして言った。ぼくはどうすることもできずに立ち尽くし、「帰って、お願い」というツツジの声で踵を返した。病室はやっぱり白く濁っていて、しかしなんだか赤くちかちかと明滅しているように思われた。

「明日も来るから。なにかお菓子でも持ってくるよ。好きだろ、甘い物」

 なんとかそれだけ言って、病室を出た。どうしたらいいかわからず、ぐるぐると答えの出ない嫌な気持ちだけが悶々とあった。北側の玄関に人はいなかった。夏のうだるような暑さは日の光と一緒に弱まっていて、しつこい蝉の声だけが夏であることを訴えていた。


 その日の夜、ぼくは夢を見た。そこは見渡す限り鈍色の闇で、ぼくは白く光る一羽の小さな兎だった。四方八方が暗闇なのに、ぼくは自分がゆっくりと落ちていっていることだけはわかった。優しく小舟に揺られているような、或いは母親の羊水に浸かっている胎児のよな気分だった。聴覚の利かないぬるい闇はひどく不気味で、不安になる。いつの間にか、ぼくの周りには人の脳髄の神経細胞のようなものが、辺り一面に張り巡らされていた。闇のなかでネットワークを繋ぐそれらは銀色で暴力的なまでにギラギラと輝いていた。ぼくはやっぱりまだ落下を続けていて、その蜘蛛の巣のような脳細胞の光の間をゆるやかに揺蕩っていた。ふと目の前に、そのギラギラとしたものの隙間が闇で満たされているところを見つけた。その闇はいまにも粘性の光の筋に押し潰されそうで、しかしどうにか揺れ動きながら微かに黒々としていた。

 ぼくはそれがツツジの形であることに気がついた。そのギラギラに囲まれた暗闇は、確かにツツジであった。あ、と、兎のぼくは理解した。これが愛なのだ。この何もない、深い闇こそが、この虚無こそが愛なのだ。ぼくは嬉しくなって、その闇に接吻をした。これが愛なのだ。これこそが、ツツジの求めていた愛なのだ。ぼくは、明日病院に見舞いに行ったら、ツツジにこのことを教えてやろうと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る