マダム・スプリングの没落的記録

 僕は女が嫌いだ。女というのはいつだって感情的で、責任感というものがまるでない。いや、それは後付けの理由だし、理性的で仕事ができる女性も社会に多数存在することは知っている。ただ、そういう「かっこいい女」みたいな顔してる奴だって、結局いざとなれば社会の庇護対象の中にしれっと混じっている。それが気持ち悪くて仕方ない。

 僕の記憶の中で一番古い「女」は、毎晩下品な色の口紅を塗りたくってどこかに出かけていた。チープなキャバドレスに身を包み、夕食代わりに三百円を置いていく。てらてらと深い陰影をゆらつかせる人工色を血液のように唇に塗る、鏡に向かった母の横顔。その少し下には男に媚びるように強調された豊かな丸い肉塊が卑しく揺れていた。それが僕の記憶だ。トラウマでもなんでもない、些細な幼少期の日常の一風景が、いまでもデジタルの写真のように鮮明に焼き付いている。

 どんなに清純な娘だって、いつかはそうやって男に向かって頬を染めるんだ。男、と限定的な言い方はしないでおこう。異性への求愛行動なら男だってする。むしろ男の方がそれは貪欲だろう。だが女は女同士ですら媚を売る。全方位に向かって取繕うし、時には心的優位に立ちたがるし、とにかく取り入ろうとする。僕はそう思ってる。掃除をしない男子に口うるさくキーキー言ってた学級委員長のあの子も、クラスのマドンナで浮いた噂の絶えなかったあの子も、きっと形は違えど母のように醜く下卑た色香を纏うようになるのだろう。本当に気持ち悪い。どれだけ可愛らしい女の子を前にしても、そういう自分でも自覚できるくらいに面倒に捻くれたコンプレックス意識は僕の中で根強く生きている。





 大学一回生のある日、僕は唯一の女友達であるアゼマチの家で新作のゲームをやっていた。学生アパートの狭い四畳半の部屋で、冷蔵庫からなにかしらを取り出した部屋の主は、どっかりと僕の隣に腰を下ろした。

「あたしに勝とうだなんて百億年早いんだね~。修行して出直してこい。」

 僕はコントローラーを握りしめ、あほのような顔で茫然としていた。確かにこれは新作だが、シリーズ前作を僕は馬鹿の一つ覚えみたいにやりこんだのだ。こんな圧倒的な五連勝を許すほどそれは昔の話じゃない。

 「畦町藍子」と白い糸で縫い取られた、エメラルド色と鶯色の中間みたいなグリーンの高校ジャージ。ずぼらな大学生のお手本みたいな恰好で、彼女は勝ち誇ったように笑っている。気の強そうな目に短く切った黒髪も相まって、その表情は少年のようだ。

「勝った方が近くのコンビニまで好きにパシれるんだったよな。」

 僕は迂闊な約束をしたことを後悔した。傲慢にも僕は自分が勝つと思っていたので、まさか僕が罰ゲームを受けるとは全く思ってなかったのだ。確かに普段はアゼマチの方がゲームには強い。たしなむ程度にゲームをやっている僕と毎日飽きもせず中毒のようにゲームに取り組んでいるアゼマチでは差は歴然だし、だからこそ面と向かって一対一で対戦するゲームは今まで避けてきた。味方にするには心強いが、敵に回すのは勘弁だ。だがしかし、このゲームにだけは自信があった。アゼマチとは長い付き合いだがこいつがこのシリーズをやっていたという話は聞いたことがなかったし、僕は先述の通り経験に基づく自信があった。

「……イカサマだ。」

 友人同士のビデオゲームにイカサマもヘチマもないことは承知の上で、僕は負け惜しみを絞り出す。それを聞いたアゼマチは上機嫌になった。

「この新作を見せたときにえらく食いつきがよかったし自信があるようだったけど、このシリーズをやってたのが自分だけだったと思わない方がいいね! ばっかだな~ほんと。自信満々だったから敢えて『あたしも得意だ』とは言わなかったけど、ここまで見事に負けてくれるとは思わなかった。」

 アゼマチはけらけらと笑いながら言った。楽しくて仕方ない様子だ。僕は苦虫を嚙み潰したような気分になる。外は雪こそ降っていないがかなり寒い。道路が凍っているかもしれない。しかし絶対に勝てると思って意気揚々と罰ゲームを設定したのは僕だ。仕方なく自分のコートと財布を手繰り寄せる。

「じゃあ何を奢ってもらおうかな~……。それじゃハーゲンダッツと蒙古タンメン、あとモンスター。」

 サブカルハッピーセットみたいな注文が来た。ヲタクは五感が麻痺しているから痛覚で辛味を感じるしか快楽を得る方法がなく、蒙古タンメンに固執する、というのは有名な話だが、例に漏れずアゼマチも辛い物が好きである。ちなみにヲタクが虹色、正確には一六七七万色に光るゲーミングデバイスが好きなのも同様の理由からだとも聞くが真偽のほどは定かではない。ヲタクは非常に哀れな生き物なのである。

 僕はアゼマチの部屋を出て近くのコンビニへ向かった。道路はやはりところどころ凍っており、歩行者を待ち受けるトラップのようになっている。トラップ、トラップ、ああトラップと言えばあのゲームも途中でセーブしたままにしていたんだっけ、などととりとめもないことを考えると、コンビニに着いた。店員のやる気のない出迎えの声が響く。母音と子音の区別がついていない特有の声を聴き流し、僕は言われた通りのものを手に取っていく。ついでに自分の分のドクターペッパーもカゴに入れる。ドクペが置いてあるコンビニは珍しい。この店の管理者はよくわかってらっしゃる。ついでに、レジでなにも言わずともモンスターに「ストローはお付けしますか?」と問われたときも、よくわかってらっしゃる、と思った。ゲーマーはエナジードリンクをストローで飲む。効きを良くし効果を長持ちさせるため、というのが理由だそうだがそれはたぶん理由なんて形骸化したファッションだろう。

僕は友人のサガワが「エナジードリンクってのはお手軽に法の範囲内で楽しむ麻薬だと思うんだ。体に悪いし大局的に見ればなんのメリットもないのに中毒性と一時の高揚が得られる。ちょっと太宰みたいだね。君とか、レポートという《戦地》に身を置いているときに魔材に頼りがちになるところなんて、すごく太宰的だと思うよ。」と言っていたのを思い出した。エナジードリンクの話に太宰を絡めてくるあたりに文学部の気障なところが現れている。「誰が斜陽だ。」と軽口で返したらあいつは満足そうに笑っていた。僕の数少ない友人はこんな奴ばっかりだ。いや、今はサガワのことはどうでもいい。

とりあえずアゼマチも魔材はストローで飲むだろうから、店員の質問には肯定で返す。どういう客がくればこんな店になるのか。魔材にはストローがつき、ドクペが常時置いてあるコンビニ。この近辺の住民の生態は少し興味深いものがある。きっと近隣の家のうち五軒に三軒は浅野いにおの漫画とアジカンのCDが置いてあるのだろう。僕は純然たる偏見でこの地域にレッテルを貼った。

 コンビニから少し歩き、吹けば飛ぶような木造アパートの階段を上る。アゼマチの部屋はこの二階だ。一階にも空き部屋があるのに二階に住んでいるのは防犯上の理由だろうが、こんな文化遺産すれすれのボロアパートで防犯もへったくれもないだろうとは思う。アゼマチはあれで一応女子であるから親御さんが心配したのかもしれない。しかし彼女はそこらの男より男らしいし、もしなにかあったとしてもならず者の方が裸足で逃げ出すだろう。

「ウーバーイーツで~す。モンスターって普通のでよかった?」

 クソみたいな声掛けをして返事も待たずにドアを開ける。アゼマチは部屋の中央でなにかを不思議そうに眺めていた。

「ん、ご苦労。」

 手元のそれに気を取られているアゼマチは、僕の方には一瞥もくれず生返事を返した。

「なんだそれは。とうとう恋人でもできたか?」

 アゼマチが持っている、金属光沢を放つそれは、確かに女性ものの口紅だった。僕は女性が嫌いなので化粧品やなんかには疎いが、それでもわかる。紛れもなくそれは口紅だった。

「いや、魔材にストローつけろって言うの忘れたから家にストローはないかと引き出しを漁ってたら、前にダチに誕生日プレゼントでもらったやつが出てきてさ。」

 そう言ってアゼマチは口紅の蓋を外してみせた。自然の唇の色にとても近い、しかし多少可愛らしい雰囲気の、落ち着いたピンク色だ。

「使ってみたら?」

 アゼマチは首を振った。

「いや、使ったら売れないし他人にもあげられなくなる。」

 口紅なんてフリマで売れるのか、やったことないから知らないけど、と彼女は付け加えた。それもそうだ。僕が見たところ彼女は自分でそんなもの使うようには思えないし、だれかにあげた方が口紅も喜ぶだろう。

「お前、これいる?」

 アゼマチは冗談交じりに僕に向かって口紅を差しだした。あいにく僕にそんな趣味はない。丁重にお断りした。




 アゼマチとは一か月ほど会わなかった。僕のバイトが忙しくなったからだ。特段時間を無理に作って会うような間柄ではないので珍しいことでもない。その日はサークルの飲み会だった。僕は女性が嫌いだが、恐怖心があるわけではないので、女の群れを避けながら、話しかけられたときは当り障りのない、少なくとも表面上は当り障りのない態度で答えた。そうして飲み会の隅でジョッキの氷を眺めていると、不意に声をかけられた。

「若人たるもの、社交の場では楽しまなきゃだめだろ。」

 いつも通りの気障な言い回し。こざっぱりとした服装にスカしたマッシュルームカット。実用性よりもファッション性を重視したデザインの黒縁眼鏡に、形のいい瞳が笑っている。文学部の友人・サガワだ。若人たるもの、僕のことなんて放っておいてお好きなところで愛想を振りまいてくればいいのに、とは言わなかった。

「なんだよサガワ、来てたのか。てっきり今夜も女とお楽しみかと思ってた。」

 挨拶代わりに軽口を叩く。こいつには女の影が絶えない。しかも同時進行で複数の影が出たり消えたりしている。本人曰く「僕も相手の女の子も本気じゃない。そこに恋とか愛とかが絡まないんだったら、それはチェスの相手をすることとなにが違うんだい。」だそうだ。実際、女性関係でもめているところは見たことがないので、相手の女も了承済みというのは本当なのだろう。お盛んなことだ。

「人づきあいは大切にするさ。例えそれが特に意味のないサークルの飲み会でもね。しかも今回は定例ってだけじゃなく四年の先輩の結婚祝いも兼ねているんだろ? 野次馬根性がうずいちゃうよ。」

 初耳だった。大学生で結婚する人間は僕の周りでは少ない。確かに見渡すと普段はヒエラルキーの二段階目あたりにいる女の先輩が輪の中心で喋っている。

「へえ、あの先輩、結婚するのか。こう言っちゃなんだが特段美人というわけでもないし、大学生で結婚なんてするような雰囲気じゃないと思ってたけどな。相手は誰なんだ? 同じ大学の人?」

「いやぁそこまではわからないけどね。でも同じ大学ならもっと相手のことも噂になっているだろうよ。」

サガワは甘そうな酒を傾けながら言った。

結婚、か。僕は結婚に対して非常に否定的な感情を持っている。家族を持つなんてそんなの惰性と慣性で日々を歩むことが確定するようなものではないか。馬鹿らしい。しかも子供ができる、なんてのは最悪だ。「赤ちゃん」なんて可愛らしい呼び方をするからそのおぞましさにだれも気付かないのだ。「新しい命を授かる」という言葉も嫌いだ。生殖の産物と言え生殖の産物と。トルストイは性交渉を生殖という唯一の目的において肯定したが、僕は性交渉なんて生殖を伴おうが伴うまいがおぞましいものだと思っている。人類なんて滅びてしまえばいいのだ。僕はそんな中高生のようなマインドから脱しきれない。若人たるもの、そのくらい潔癖で過敏でなきゃいけないだろう、なんて思ったりもする。

「結婚は人生の墓場、なんてよく言ったものだよ。結婚なんて首に鎖をつけて飼われるよりも悪い。なにせ幸せっていう麻薬で思考力を奪われてるんだから。」

 僕は嫌悪感を隠さずに言った。サガワは僕の女嫌いも知っている。きっと面白い観察対象くらいに思っているのだろう。まあ別にそれを咎めるつもりはないけれど。

「でも当人たちが幸せならいいんじゃないか? 麻薬だってそうだ。まわりは心配するけどそれは自分で選んだ道だし、やってる本人は人生楽しいさ、きっと。それに麻薬は反社会的勢力の養分になるけど、結婚なんてだれの迷惑にもならないし、次世代の労働力を生産してくれるんだからありがたいことだろう。」

 サガワは楽しそうに言った。きっとこいつはこんなことを本気で思っているわけではなく、僕の言ったことに反論したいだけだろう。こいつはそういう節がある。どちらかというと討論に近い意見交換で他人とそれらしいことを言い合いたいだけなのだ。そういう不毛な議論を好むという点で僕とこいつは似ているのかもしれない。

「そりゃ自分たちだけで楽しく腰を振って幸せな家庭を築いてくれればそれでいいさ。でも反社の彼らはカタギの人間を撃たないけど、結婚至上主義者たちは僕らに結婚がいかに素晴らしいものか説いてくる。それどころか人はみな結婚を人生の理想の形だと思っているというあまりにも傲慢な前提のもとご高説を垂れてくるんだ。気持ち悪いったらありゃしないよ。」

「君の恋愛嫌いは筋金入りだね。正直に白状すると、僕も結婚にはあまり興味がないや。一人の女の子に愛を誓うなんてできやしないし、遂行できないとわかっている契約をするほど僕は不誠実じゃないさ。守るべき家庭なんてものができたら本当に人生の墓場だ。当人の意思なんてあってないようなものだよね。子育てには莫大な金がかかるし、そんな中で趣味なんてまともにやってらんない。」

 サガワの顔はアルコールで少し赤くなっている。酒が回ってきて、人をおちょくるような飄々とした気障な態度をとるのが面倒になってきたのだろう。この男はそういう態度がかっこいいと思っているし、現に何十人もの女がそれを見てうっとりしたような阿呆面で「素敵だわ、とかのたまう。でもそれはあくまで見栄を張ってるだけだから、気が緩むと段々と本音が出てくる。馬鹿な奴だ。しかし僕も僕とて単純な思考回路をしているので、サガワが僕の意見を肯定したことに多少の満足感を得、そのまま調子に乗って続けた。

「そもそも子を産み育てることを是とする風潮がおかしいんだ。人間は知的生命体だろう。未だにセックスなんて野生動物みたいな卑陋な行為が当たり前のように存在していること自体、疑問を持つべきなんだ。しかも快楽を得るための娯楽としてなら百歩譲って認めよう。体の一部を他人の内臓に突っ込むという行動の是非はともかくとして、快楽を目的とするならタバコや酒、マリファナと一緒だ。しかしそれが生殖の方法として広く歓迎されていることが気に食わない。」

「試験管ベイビーを量産すべきだってことかい。」

 サガワは笑っていた。彼のジョッキの酒は空になりかけている。アルコールが生み出した体のほてりと興奮を吐き出すように、僕らは話し続けた。

「なに、生殖が他の方法で行えないなら人類なんて滅びればいいさ。むしろなぜそこに至らない。次世代なんて言ったって生まれてない奴が文句を言うかい? 人類が滅びたってだれも困らないんだよ。大概の人間は同調圧力で結婚せざるを得ないから結婚して、そして子供を作ってるだけだ。結婚なんてものがなくなればそういう煩わしいものから解放される。」

 自分でも酔いが回ってきていることを感じる。思考が伴わず、吟味のなされていない感情的な、でもそれだけに僕の心の中でアイデンティティの根幹のあたりからでてくる言葉が、口から勝手に出てくる。しかしサガワはそんな滅裂な僕の言をきちんと引き取ってくれた。

「そりゃ確かにそうだ。だれも困らないな。今生きてる僕らは死なないんだし、まだ生まれてない人間に関しちゃそんなもの考慮に入れる必要すらない。少子化による社会制度の問題なんか、生きることの在り方の前じゃ些末な問題さ。恐竜だって絶滅したんだ。人間が絶滅することを恐れて一生を結婚や生殖なんかに縛られるなんて馬鹿馬鹿しい!」

 徐々に熱が入り語勢を強めていくサガワとは反対に、僕は少しずつ酔いが醒めていった。ここでこんな没意義な議論をしたって人類は滅亡しないし、きっとサガワも十年後には結婚する。僕が言ったことは本心だけど、詭弁だというのは僕もサガワも知っていて、それでも尚そういう青臭いことを言い続けるのだ。この感覚はわかる奴にだけわかればいい。サガワはきっと僕にとって最高に『わかる奴』なのだろう。

 だんだん面倒になってきた。サークルの飲み会なんて僕には向いていないんだ。意義を見出せないものに延々と縛られることがそもそも僕は嫌いだ。幸い、今日は人が多い。僕一人がそっと抜けたところでだれも気付かないだろう。会費も前払いだ。僕はサガワに「飽きた。帰る。」とだけ言って、席を立った。

 振り向くと、サガワは既に甲高い声で騒ぐ連中の輪に溶け込んでいた。見栄は張りなおしたようで、いつものスカした態度に戻っている。すぐに剥がれる化けの皮なんか無意味極まりない、と思うがきっと僕の前以外ではそこそこうまくやっているのだろう。僕は大嫌いな結婚というものをさんざんこき下ろすことができたことに満足しながら、酒と煙と浮世の匂いの充満する店内を後にした。




 新歓コンパが終わった次の日、僕はアゼマチと街中の書店でばったり会った。アゼマチと僕は好きな漫画が共通しがちなので、もしかしたら同じ漫画の新刊を買いに来ていたのかもしれない。久々に会ったアゼマチは、女性らしい、なんだかファッション誌にでも載っていそうなスカートを着ていた。

「なに、お前、イメチェンしたの。」

 僕はそう尋ねた。アゼマチは普段から男物の服を好んでいたが、それはどちらかと言えばシンプルな男物は選ぶのに時間がかからないという理由であり、ファッションにこだわりがあるわけでも男になりたいというわけでもなさそうだったから、なにか心機一転、服装にこだわりが出たのかもしれない。本来であればそれは既に僕の嫌いな女の姿だったが、僕は長い付き合いからアゼマチを信用しきっていた。やわらかい女物の服を着ていてもアゼマチはアゼマチだし、その中身は男勝りで性別を感じさせない、いつもの僕の知っているアゼマチだと思っていた。


「恋人ができたんだ。」


 その一言は、僕に電気椅子くらいの衝撃を与えた。二の句が継げなかった。

「彼氏ができたしさ、そしたらやっぱ可愛いって思われてたいじゃん。今まであんまり気にしてなかったけど、意外とこういうのも着てみるもんだね。ようやくスカートにも慣れたよ。これからデートなんだ。」

 少し楽しそうに言う彼女の唇は、少し色づいていた。それはもしかしたら、あのときの口紅かもしれない。

 アゼマチには僕の女性に対する偏見のことを話していなかったから、かろうじて「へえ、よかったじゃん。」とだけ言った。にこにこしながら、もうすぐ約束の時間だから、と立ち去った彼女の後姿は、僕の嫌いな女そのものだった。着飾り、恋愛に現を抜かす、愚かな女だ。ああ、なんて醜いのだろう。

 僕は吐き気をこらえながら書店を出た。裏切られたような気分だった。もちろんアゼマチはなにも悪くないし、勝手に信用してわかったような気になっていた僕が全面的に悪い。しかし、それにしても割り切れない気分だった。アゼマチだけは違うと思ってた。長い付き合いの中で、彼女を男だと思っていたわけではないが、彼女だけはどうしようもない女という存在には属さないと思っていた。結局あいつも女なのだ。女というものに例外などないのだ。女性らしく、なんてかけらも思っていなかったアゼマチだって、きっとこのまま結婚してそのうち子供を産んで、優しく模範的な「母親」に変わっていくのだろう。なんて気持ち悪い。このグロテスクさになぜ気づかないんだ。すくすく育つ子供たちを見守りながら、毎日毎日同じような日々を消費して、「幸せだね。」なんて言うんだ。それが理想の形で、それを目指してあくせく婚活に精を出す。馬鹿らしい。僕には一生理解できないだろうし、それを理解したときが人生の墓場だ。ほとんど洗脳みたいなものだ。幸せという真綿で首を絞める。幸せな家族、という幻覚を見ながら涎を垂らして痙攣する麻薬中毒患者だ。醜くて醜くて仕方ない。

庭付き一戸建てをローン組んで買って、それでなにかを成したような気になってる大人。これが幸せなんだよ、素朴な日常の中にこそ幸せがあるんだ、なんて嘯くのだ。悟ったような顔の大人なんて、実際は開いたのは悟りじゃなくて股だ。諦観とセックスしているようなもんだ。そりゃ気持ちいいだろう。女ってのはそんな醜さを全部集めたようなものだ。最悪だ。

思考がぐるぐると回る。結婚という事象のこと、アゼマチのこと、家族という存在のこと、女ってやつのこと。全部全部嫌いだ。気持ちが悪い。


僕はスマホを取り出し、電話をかけた。


「なあサガワ、女ってなんで口紅を塗ると思う?」

『そりゃあ本能的に生殖がしたいからだろ、突き詰めればだけど。』

 サガワの気障ったらしいロマン的な言葉を期待していた僕は、珍しく生々しい彼の言葉に落胆した。やっぱり僕は女が嫌いだ。

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