8-4. 謝らないでくださいっ!






「アーシェさん?」


 立ち止まったままの私に、ニーナは振り返って笑いかけた。

 笑顔を浮かべてはいる。が、その細められたまぶたの奥で彼女の瞳が震えているのが分かった。

 胸が痛む。けれども……私は伝えなければならない。


「悪いな、ニーナ――ここでお別れだ」


 そう言うとニーナは私を見てキョトンとしてみせる。そしてすぐにまたニヘラ、と笑って手を差し出してくる。その腕も震えていた。


「……何言ってるんですか、もう。冗談言ってないで早く帰りましょうよ?」

「冗談じゃないさ。私にも行きたい場所がある」

「わがまま言わないでください。私、もうヘトヘトなんです。誘拐されてからロクに寝てないですし、アーシェさんに抱っこしてベッドに連れてってもらわないと、このままぶっ倒れて野垂れ死んじゃいます」


 もう一度ニーナが私の腕をつかもうとしてくる。しかし私は一歩下がって彼女のその手を避ける。そうするしかなかった。


「ニーナ」

「ダメですよ、アーシェさん……」笑顔がクシャリと歪んだ。「こういう時は『なんで私がそんなことせねばならん』とか『勝手に野垂れ死んでろ』とか言ってくれないと。いつものアーシェさんだったらそんな感じで罵ってくるじゃないですか」

「……スマン」

「謝らないで、くださいっ……! 謝られたらそれじゃまるで……まるで……」


 見る見るうちにニーナの顔が涙で濡れていく。両目から止めどなくあふれ続けたそれが足元に小さな溜まりをいくつも作って、その上に彼女が崩れ落ちた。

 ニーナもきっと分かってたんだと思う。私が一緒に戻る気がないということを。だからこそ、いつもどおりを装って笑顔を向けてきたし、震える腕で私を連れていこうとしたんだろう。実際、そのせいで私も揺らいだ。差し出された手を強く握りしめて、何も悩まずに流されてしまえばどれほど楽だろうと思った。

 けれど、けれど。私はその道を選べなかった。


「ダメ、なんですかっ……? 私たちと一緒に戻ってまた楽しく過ごしましょうよ? 前とは違っちゃってるかもしれないですけど……戻ったらみんなバラバラになってるかもしれないですけど、それでも私たちは絶対もう一度会えます。だから、だから……」

「ゴメン――それから、ありがとう。けれど……私は行かなきゃならないんだ」


 私なんかと一緒にいたいと願ってくれることは、とても嬉しい。ニーナのような人間に求められるなんて、私はとんでもない果報者だ。

 だけど……今一緒に戻ったってダメなんだ。戻ったところでたぶんずっと私の中で、過去に対する羨望と後悔が残り続けてしまう。そんな状態で戻ったら、きっと魂喰いであろうとなかろうと私は過去に喰い潰されてしまう。そんな気がする。

 私の想いを正直に伝えると、ニーナは顔を両手で覆って嗚咽を漏らし始めた。その声を聞くのは辛いし身を引き裂かれるような思いだ。だが私に彼女を慰める権利なんてあるはずもなくて、かと言って突き放すこともできない臆病で中途半端な自分が情けなかった。


「大尉」

「隊長」


 呼ばれ、うつむいていた顔を上げるとアレクセイとカミルの二人がニーナの両脇に立っていた。その後ろにはアレッサンドロもいる。三人はそれぞれニーナの肩を叩いたり背中を擦ったりと慰めていたが、やがて彼女を立ち上がらせると私に向かってアレクセイが小さく微笑んだ。


「行ってください、大尉」

「アレクセイ……」

「ニーナちゃんのことは大丈夫ッス。事情は分かんないですけど、アーシェさんもやらなきゃいけないことがあるんスよね?」

「迷うなって、隊長。アンタ、この時のために今まで生き抜いてきたんだろ?」

「アレッサンドロ、カミル……」

「大丈夫だって! アンタがいなくたって俺らは俺らで生きていく。どんな形だろうが、アンタがそっちを選んだことを後悔するくらい楽しい人生を謳歌してやるって。

 なあ、ニーナ?」


 明るく笑いながらカミルがニーナの肩を揺すると、しゃくりあげながらもニーナはコクンと小さくうなずいた。

 ああ、まったくどうして。本当にクソだクソだとこの世界に墜ちた当初は思ってたし、事実クソみたいな人生ではあったが、ここに来て仲間に恵まれてしまった。おかげで後ろ髪を全力で引っ張られてる。


「感謝する。それじゃあ――行ってきます」


 そんな想いを断ち切って、ぎこちないだろう笑みを作りながら私は私の行くべき過去の世界を頭の中に思い描いた。

 すると私の体も光に包まれていく。ふわりと浮遊感を覚え、ゆっくりと浮き上がっていって大柄なアレクセイとカミルの二人もたちまち見下ろすほどになった。

 マティアスたちの例に漏れず、次第に私の体も時間が巻き戻されていく。ただでさえ細くて未成熟な手足がますます幼くなっていくが、私の場合は特殊だ。ある程度小さくなると今度は逆に成長を始めた。肌の色も変わって正真正銘大人の肉体へと変化していく。


(この姿は――)


 ニーナには見せたくないな。アイツには「アーシェ」としての姿だけを記憶しておいてもらいたい。

 そんな我儘な願いに応えるように、まとう光の強さが増していってニーナたちの姿がかろうじて透けて見える程度になった。これなら外からも私の姿は見えまい。けれど、うっすらであってもニーナたちの姿は私の記憶を刺激してくる。


(計画を始めた頃はクソッタレな人生が続くとしか信じて疑わなかったが――)


 この世界での人生も、やはり悪くなかったと今は思える。孤児で惨めな扱いを受けようが、魂喰いにされようが、戦場で仲間を多く失おうが私の人生、捨てたもんじゃない。

 だって――こんな私を涙しながら見送ってくれる人たちがいてくれたんだから。

 視界がにじむ。目をこすってもすぐにまた光が反射して、もうニーナたちの姿をハッキリ見ることは適わない。

 一度は緩やかになっていた上昇速度がまた加速していく。またたく間にニーナたちから離れていって足元の彼女たちが小さくなっていく。


「待ってますからッ!」ニーナの叫び声が聞こえた。「いつまでも! 何処にいても私、待ってますからッ! アーシェさんが帰ってくるの、待ってますからッ!!」

(ああ、チクショウ……!)


 そんなこと言われたら、そんなふうに言われたら。

 膝から私は崩れ落ちた。どれだけ歯を食い縛っても、どれだけ目を力いっぱい閉じても私の奥底から湧き上がってきた嗚咽は止まる事を知らず、涙があふれて頬をあっという間に濡らしていった。


(バイバイ、みんな。そしてニーナ。言わなかったけれど、私はお前のことが――)


 そうして私の意識は真っ白に塗りつぶされて。




 不意に意識が戻った時、私は両足でしっかりとした地面の上に立っていた。

 周囲を通り過ぎていくあふれんばかりの人。鼻をつく排気ガスの匂い。おびただしい数の車がぎっしりと周辺の道路を埋め尽くし、エンジン音とタイヤの摩擦音が耳をつんざく。

 見上げれば高い建物がグルリと私を取り囲み、いつまで経っても終わらない工事のために背の高いクレーンが忙しなく荷物を吊り上げ続けていた。

 懐かしい景色に、私はしばし呆然とその場で立ち尽くしていた。が、すれ違う人と肩がぶつかってようやく我に返った。

 そして思う。


(帰って……きたんだな)


 私が過ごしてきた場所――横浜に。





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