6-5. 私の中の誰かが呼びかけるんです






 女を睨んでいたはずだった私の視界が、ニーナの顔で埋まっていく。吐き出される息が頬をくすぐってむず痒い。ニーナの閉じたまぶたと赤くなった頬が目に入ってきて、こんな状況にもかかわらず「こいつのまつげ、長いんだな」なんてどうでもいいことが頭を過った。


(あ……)


 ニーナの舌が私の歯と歯の間を強引にこじ開け、単なる肌のふれあいとは違うダイレクトな温もりが伝わってくる。突然のことに対する驚きよりも心地よさと気持ちよさが勝って、このままニーナを抱きしめたくなる。思考がとろけて、何も考えたくなくなっていく。それほどに、コイツとのキスは甘かった。

 口の中に血の匂いが広がるまでは。


「っ……!」


 反射的にニーナを突き飛ばす。が、その時にはすでに私の喉は注ぎ込まれた血を飲み下してしまってて、魂の味とはまた違った甘く狂おしい匂いが口の中に満ちていた。

 もっと、もっと飲みたい。まるで吸血鬼みたいな思考が私を埋め尽くす。だがなんとかそれを押し返し、その衝動を悟られないように血で汚れた口元を拭ってニーナを睨みつけた。


「ニーナ、お前何を……!?」

「ごめんなさい、アーシェさん」不安そうな顔でニーナが告げた。「でもそうしろって……私の中にいる誰かが呼びかけてくるんです」


 お前の中にいる誰かっていうのは、クロノスのことに違いない。だが、血を飲ませてどうするつもりだ? そう尋ねようとしたが、それよりも体の変化の方が先だった。

 ドクン、と私の心臓が大きく跳ねる。それを端初に、体中に力が満ちていくのが分かる。ただでさえ濃密な魔素で満たされている私だが、それを遥かに凌ぐ濃度の魔素が充満してあふれんばかりになる。


「これは……」


 思わず感嘆のため息が漏れた。思考はクリアに。体はより軽く。これまでよりずっと多くの魂を並列化できるし、簡単に深くまでアクセスができる。


「え? ええっと……私の血を取り込むことで一時的にアーシェさんの魂と脳のリミットを解放した……だそうです」


 ふむ。話だけじゃ原理は不明だが、要は私というハードを一時的にオーバークロック状態にしたと解釈すればいいか。しかしさすがは神の混じった血と言うべきか。さっきから体に活力が満ちて、逆にジッとしとくのが難しいくらいである。ニーナの血をもっと飲みたいと思ったのも、きっとクロノスの魂が混じってるせいだろう。そうに違いない。そういうことにしておこう。異論反論は認めん。

 それはそれとして……分かる。今だったら簡単に――


「――ぶちのめすことができそう……だっ!」


 感覚としては軽く地面を蹴っただけだった。だが脚にはとてつもない反動が伝わってきて体は爆発的に加速。これまでに感じたことのないほどの速さで世界が流れ、やがて一瞬で使徒の女の目の前に。奴のさっきまで余裕ぶってた表情はかき消えて、驚愕に染まった瞳が私のそれと交差した。

 動きに私自身も面食らいつつも、拳を女の腹に叩き込む。その速度も我ながら凄まじかったがさすがというべきか、使徒の女もなんとか反応して身をよじった。だがかわすには至らず拳が脇腹にめり込み、骨を砕く感触を残して女の体が大きく吹き飛ばされた。

 地面を削りながら激しく女が転がっていって、赤く染まっていた白装束が今度は土で茶色に汚れていく。

 転がった女を追いかける。ヤツが体勢を立て直すのと私が追いつくのはほぼ同時だったが、次のアクションは女の方が早かった。

 私との間に浮かび上がる魔法陣。読み取ったその複雑さと輝きから、これまで以上の威力が込められていることが容易に想像できる。

 放たれる。白閃が煌めき、迫る。けれど、今の私には大したものに見えなかった。

 一歩だけ体をずらす。それだけで十分。

 そしてまた一歩前へ。

 術式をかわされることは予想していたんだろう。私が前へ出るとすかさず術式をまとったヤツの拳が私めがけて繰り出されてきた。

 が、遅い。脳の処理能力が爆発的に向上した今の私には、とんでもない速さで繰り出されたであろうその一撃さえスローモーションにしか見えなかった。

 かわす。それも、前へ出ながら。

 ヤツの懐に入り込み、虚空目掛けて振り抜かれた腕を掴む。そこに膝を叩き込むと、普通の人間よりも遥かに強化されているだろうその腕があっけなく不自然な方向に折れ曲がった。


「ぁっ……!」


 神の人形のくせに一丁前に苦痛は感じるらしい。女の口から苦悶が漏れて、それでもなお反撃を止めようとはしない。

 膝を私の腹に突き立て、並行して背後からも術式を放つ。少し前であれば私に小さくない痛痒を与えただろうし、下手すれば一度くらいは死んだかもしれん威力だ。

 だが膝を右手で軽く受け止め、そして術式の方は振り向きさえせずに防御術式で受け止める。今の私にとってその程度、神の像に中指おっ立てるくらい容易い。

 ならば、と女が拳を振り下ろしてくる。次いでもう修復したらしい、ついさっきへし折ってやった方の腕を私の心臓目掛けて突き出してきた。しかしその両腕を私はしっかりと掴みとる。


「離、せっ……!」

「分かった」


 女がこめかみに青筋を浮かべながら力任せに腕を振り払おうとしてくる。だが私は心優しいし、誰かを束縛する趣味なんてないんでな。要求通りあっさり離してやった。

 すると予想外だったのか、女がバランスを崩してたたらを踏む。そのタイミングで女の元に踏み込み、その横っ腹に掌底を打ち付けた。

 吹き飛ばされてあっという間に遠ざかっていき、けれども終わりじゃあない。


「が、あぁっ……!」


 吹っ飛んでいった女の背後に高速で術式を展開。今の私だとちょっとした術式でも周囲に甚大な被害を与えてしまいかねん。なので威力はそのままに、けれど新たに極端な指向性を付与してから術式を解放した。

 女の背後で局所的な大爆発が起きる。威力を抑えてなお爆発音が最深部全体に響き渡って空気をビリビリと震わせた。

 そして目の前には弾き飛ばされた女が近づいてきていた。かろうじて防御術式で威力は削いだようだが、爆煙をたなびかせながらまったく無防備な姿でこちらへと飛ばされていて。

 目論見通りの姿となった敵の姿を見て私はニヤ、と口端を吊り上げた。そして女の全身を抱きとめると――その首に喰らいついた。


「……、……!」


 人間に比べて遥かに少ないが、吹き出した血が私の顔を汚す。一息に喉の肉を飲み込んでもコイツからは魂の旨味も何も感じられなくて、まさに人形だ。だからこそ……私も遠慮なくその肉を喰らえる。

 もがく女の腕をへし折り、今度は首から今度は胸に向かって噛みちぎっていく。ビクンとヤツの体が跳ねるが、しっかりと腕でホールドして逃さない。

 喰らう、喰らう、喰らう。魂喰いの衝動に身を任せ、またたく間に肉を、骨を、そしてヤツという存在を喰らう。

 やがて私の口が心臓に届いた。血に塗れた顔を迷わず女の胸の奥にうずめ、歯でくわえて肉体から引きちぎる。

 その瞬間、女の体から力が抜け落ちていったのを感じた。それとほぼ時を同じくして私の体からも一気に力が抜けた。重力が急に仕事を再開したかのごとく、たかが数十キロの女の体を支えることさえできずに一緒にその場に倒れ込んでしまった。


「アーシェさんっ!!」


 ……凄まじく体が重いな。どうやらオーバークロック状態が終わったらしいことはなんとなく分かったが……これは反動がきつすぎる。なにせ脳も体も精神も疲労感がやばい。まだ頭は多少回るが、メンタル的にはもう何も動きたくないし、体は体で重力が十倍どころか百倍になったみたいに地面に寝そべったまま貼り付けられてしまった感じだ。おかげでまともに起き上がることもできなくて、あろうことかニーナに抱き上げられてようやく体を起こせるレベルである。


「……大丈夫ですか?」


 これが大丈夫に見えるんなら、今すぐに塩水で目ン玉洗ってこい。そんな悪態が思い浮かぶが心配してくれる相手にかける言葉じゃないので押し黙った。もっとも、そもそも口も開ける状態じゃないんだが。

 私としたことが情けない限りである。まあ、おかげで使徒でさえ圧倒できたんだから文句はない。

 腕一本動かすのも難儀するくらいだが、とりあえずくわえたままの心臓を飲み下す。味もへったくれもないので喰う魅力なぞゴミクズレベルだが、仮初だろうと多少なりとも魂は存在してるんで、への足しになればと思ってもしゃもしゃ噛み潰す。


「……」

「そんな目で見るなって」


 ニーナが「うえぇ……」とでも言いたげな視線を向けてくる。

 目の前で心臓が噛み潰されるのは、当たり前の話だが普通の神経だと気持ち悪いってのはよく理解できるから仕方のない話である。とはいえ、ちょっと傷つくぞ。

 ともあれ、使徒の心臓を喰らったら多少は疲労感も柔らいだ気がする。あくまで気休め程度だが、いつまでもこうして寝そべっているわけにはいかんからな。


「アレクセイたちは――」


 目を閉じてしまいたくなる衝動を振り払って部下たちへ視線を向ければ、どうやらまだ持ちこたえてくれているようだ。相変わらずヴィクトリア一人の方が優勢ではあるし、アレクセイたち三人ともあちこちに傷を負ってるうえに消耗も激しそうだ。

 これは早いところ介入してやらんと厳しいか。正直、今の状態だともう長くは保ちそうにないし、と思って自分の脚に一発活を入れて立ち上がった――ところで、突然ヴィクトリアが動きを止めた。


「神の使者を倒したか……さすがだな」


 アレクセイたち三人を相手に散々動き回っていたにもかかわらず、ヴィクトリアは涼しい顔をしてやがる。対するアレクセイ、カミル、アレッサンドロの三人組は生傷だらけの汗みどろ。オッサン二人はともかく、比較的若いアレッサンドロまですでに息絶え絶えでぶっ倒れそうだ。三人に共通した思いは間違いなく「助かった……」という安堵だろうな。それが表情から筒抜けである。

 普通なら情けないと罵声の一つでも浴びせてやるところではあるが、ヴィクトリア相手なら仕方ない。というか、あのババアがただの人間にしては異常すぎるんだよな。


「部下たちが遊んでもらったようだが、遊ぶのもここまでだ。ここからは私も仲間に入れてもらうぞ。何なら一対一サシでやり合うか、ヴィクトリア?」

「よかろう、成長した貴様の実力を試してやる……と言いたいところだが」ヴィクトリアは構えを解いた。「さすがに貴様を相手にしては不利が過ぎる。散々滅茶苦茶にされたのは業腹ではあるが、ここは私の負けを認めざるを得まい」

「ずいぶんとあっさりだな。負けるのが嫌いな貴様ならもうちょっとあがくかと思ったよ」

「確かに負けるのは死ぬほど嫌いだが、負けると分かっている戦いを続けるほど愚かじゃない。それに」彼女は倒れた使徒の女を一瞥した。「そこの女には正直うんざりしてたんでな。だからシェヴェロウスキー、貴様が倒してくれて清々したというのもある」

「なるほどな」

「溜飲も下がったことだし、ニーナ・トリベールのことは潔く諦めよう。彼女を連れてさっさと行くがいい」


 顎で入り口を指して私たちを促してくる。早く出ていけということらしいが……


「勘違いするなよ、ヴィクトリア。貴様が見逃すんじゃない。私たちが貴様を見逃すんだ。兵士たちを連れてここから出ていけ」


 ヴィクトリアはちゃんと正体を理解していないだろうが、後ろの巨大機械はおそらくもう一つのDXMだ。こんなもの放置してここから去れるか。

 だがヴィクトリアは私を見て鼻で笑った。


「強がりはよせ、シェヴェロウスキー。貴様が相当に消耗しているのは分かっている。今の貴様なら、刺し違えればニーナ・トリベールを殺すくらいはできるつもりだぞ」

「……」


 見抜かれているか。少しずつ動けるようにはなってきているとはいえ、殺そうとしてくるヴィクトリア相手にニーナやアレクセイたちを守り切るのは難しいかもしれん。もうちょっと時間をおけばなんとか逃げ切るくらいには体力も回復するだろうが……仕方あるまい。私たちが撤退するとしようか。

 しかめっ面をしつつ手を上げてアレクセイに撤退を指示。私自身も入口へと向かおうとした。

 何はともあれ、これで今回の事件も一応の片がついた。そう思って気を緩めかけた、そんな時だ。


「く……くくくくくく…………」


 どこからともなく不気味な笑い声が響き始めたのだった。







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