4-5. 顔を確認しておこうと思っただけだ
――Bystander
まるで深い泥沼の中に沈められているみたいだ。
まどろみの中で感じる体はひどく重い。そこから抜け出そうとニーナは必死で手を動かした。
泥をかき分け、なんとか浮上しようとする。けれど息は苦しくて、かき分けてもかき分けても一向に楽にならない。今にも水底まで沈んでしまいそうで、むしろこのまま諦めてしまった方が楽になれるし、そっちの方が良いんじゃないかと思ってしまう。
(でも、でも……!)
その度にアーシェの事を思い出して自分を奮い立たせる。もう一度、いや、何度だって彼女に会いたい。毎日ギュッと抱きしめてもらいたい。その一心で彼女は再び泥をかき分けて息を吸おうともがき続けていると、やがて光が差し込んできた。
あと少し。最後の力を振り絞り、彼女は光に向かって手を伸ばして――
バシャリ。夢から覚めた彼女を出迎えたのは臭くて冷たい水だった。
「休憩の時間は終わりだ。仕事に戻れ」
顔をしかめながら目を開けるとそこにはバケツを持った兵士が立っていて、人とも思っていない冷徹な眼差しをニーナに向けていた。
バケツを放り出し、ニーナの顔のすぐ傍を転がる。カランカランと軽くて耳触りな音が耳から脳を刺激し、彼女の頭がようやく動き始めた。
(ああ、そっか……)
自分は今――帝国にいるんだったっけ。今さらながらの事実を思い出しながら濡れた顔を袖で拭うと、ヨロヨロと重たい体を引きずって机へと向かう。
ニーナがさらわれてすでに一週間、ここで強制的に労働に勤しみ始めて五日が経過していた。
土木作業が一日中行われてるせいで、いつだって頭の中はけたたましい工事音でいっぱいだ。固くて尻が痛くなること間違いなしの安くてささくれた椅子に座れば、目の前には途方も無い数の魔法陣と図面が机いっぱいに広がっている。
ここにいる限り果てしなく続きそうな仕事にめまいを覚えつつ振り返ると、そこには彼女が見たこともない巨大な機械らしきものが鎮座していて、今なお大量の人員と建機を用いた発掘作業が休みなく行われていた。
(私っていったい……何の作業をさせられているんだろう……?)
こんな地下に連れて来られて、しかもこうやって術式と構造の解析作業をさせられているのだから、これが後ろの機械に関わる何かの作業だと言うことは分かる。けれどもその内容はどれも見たことさえないものばかり。いったい何の機械なのだろうか。そんなことばかり頭を過る。
「手が止まっているぞ」
「っ……」
考え込んでいると、通りがかった帝国の兵士がニーナの横っ面を叩いていった。ジンジンと痛む頬をニーナは撫でると、形だけは解析を進めているよう取り繕いながら思考を続ける。
(想像でしかないけれど、帝国がこれだけ人とお金を掛けるなんて――)
答えは一つしか思いつかない。間違いなく戦争の道具だ。ニーナが生まれ育った村を焼き、両親を殺した戦争のための道具に違いない。それが王国に向けられる。ニーナが出会った人たちを殺す。何よりアーシェたちに向けられるかもしれない。そんな考えが、なおさらニーナの思考のやる気を削いでいた。
(そういえば――)
さらわれる前に、アーシェの口から帝国の古代兵器がどうだとかいう話を聞いた気がする。古代の兵器なんて作り話みたいだが、アーシェはそういった冗談をいうタイプじゃないからきっと本当で、後ろの機械がその古代の兵器なのかもしれない。それなら自分が見たことのない術式を大量に解析する意味も分かる。
そして、自分がさらわれた意味もまた、今なら理解できる。
「ニーナ・トリベール」
名を呼ばれてニーナはビクリと体を震わせた。ただでさえ良くない顔色をさらに青ざめさせて振り返れば、彼女が予想したとおり作業服を着た研究員とヘルメットを目深に被った兵士が二人立っていた。
その手に、緑色の液体が入った注射器を持って。
「連日すまないが、コイツを見てくれ」
まったく申し訳無さそうでない口調でそう告げると、研究員の男は机の上にいくつもの資料を並べた。そこにも術式の写しが描かれていて、どれもが複雑で難解でありニーナを絶望感が蝕んでいく。
「書かれている術式の中身が分かるかな?」
「……いえ、わからないです」
ニーナはうなだれながらそう答えざるを得なかった。
知っている術式もあったが、書かれているものの殆どが初めて見る術式だった。これまでの人生で学んだものはおろか、
まだ、自分が知らない術式が使われているのか。下唇を噛んでニーナは頭を抱えたが、そんな彼女を気遣う様子すらなく研究員の男は告げた。
「そうか。なら――また『ライブラリ』を参照してもらわなければならないな」
「い、いやです……!」
反射的にニーナは逃げ出そうとした。だがすでに彼女の体は疲労の極みにあり、あっさりと兵士二人に両腕を抱え込まれた。
屈強な男性二人に引きずられて元の場所に戻されると、彼女の腕を研究員の男が掴み上げる。そして手にしていた注射器の中身――ミーミルの泉を液化したものを、彼女に注ぎ込んだ。
「あ、ああ……あああっ……――!!」
その瞬間彼女の意識が遥か彼方へと放り出された。
見えるのは激しいまたたきの連続。やがてその先に浮かび上がる莫大な術式とその解法の数々。今しがた目にした術式が何を意味しているのか、どういう効果を示すのか。物理法則をいかに書き換えて世界に干渉するのか。果てしない演算式とその結果が間断なくニーナの脳に強制的に叩き込まれていった。
次いで襲ってくるのは凄まじく耐え難い激痛だ。全身の細胞が悲鳴を上げ、すべての血液が沸騰して内側から焼かれる、そんな感覚。脳の血管という血管が焼き付き、苦痛だけが彼女を襲っていた。
狂ってしまえれば、どれだけ楽だろう。けれども彼女は狂うこともできず、不幸にもその永久に続きそうな苦痛を乗り越えられてしまっていた。
「立て。そして書け」
研究員に言われるがままに彼女はペンを握り、ひたすらに頭の中に叩き込まれた知識を書き出した。
意識こそ取り戻しても未だ頭の中は耐え難い熱と痛みが蝕んでいた。この苦痛から逃げ出せる唯一の方法は、頭の中で渦巻く知識をアウトプットすることだけ。そうすることで初めて負荷を軽くすることができる。生き抜くため、彼女はそれをこの一週間で学ばざるを得なかった。
「どう、ぞ……」
何枚もの用紙が真っ黒になるほどに大量の文字と記号が書き連ねられ、そこでようやくニーナは人心地を得ることができた。
グッタリと机の上に突っ伏して紙切れが舞い、その中で彼女は荒い呼吸を繰り返す。頭では大量の知識を叩き込まれた残滓による鈍い痛みが疼き、びっしょりと掻いた汗で彼女の髪が頬に張り付いていた。
「――ふむ、ああ、ああ、なるほど……! そういうことか……! ご苦労だった。しばらく休んで良いぞ」
研究員の男はニーナが書き出した用紙を集中して読み進め、やがて行き詰まっていた箇所の術式を理解することができたのか、一気に破顔した。そして机の上に突っ伏したニーナを適当に労うと、また兵士を連れて巨大な機械の方へと戻っていった。
雑な扱いにニーナも憤りは覚える。だがその怒りを持続させる程のエネルギーは彼女の中に残ってはおらず、苦痛を乗り越えた途方もない疲労感によってあっさりと意識を手放したのだった。
彼女が意識を取り戻したのはそれから一時間ほど経った頃だった。
ミーミルの泉を注射された後は、いつもであればもう数時間倒れたままなのだが今日は何故だか早く目が覚めた。全身の疲労感は色濃くて、頭もまだグラグラとしている。それでも動けない程ではない。
泥の中から這い出すような動きでニーナは体を起こす。すると遠くが騒がしくなっていることに気づいた。
いや、騒がしいというのは正しくない。にぎやかなのではなく、一箇所に人集りができているだけで喋っている人間はそう多くない。やがて人壁が左右に別れ、中から現れた二人の姿を離れたニーナも確認した。
二人とも女性で、一人は帝国の軍服を着ている。胸に吊るされた勲章と徽章の数からして彼女がいわゆる「お偉いさん」であることが想像できた。
そして、もう一人。
「っ……!」
白いマントをまとった彼女の姿。傲慢さを隠そうともしない不敵な笑いを浮かべたその顔を見た瞬間、ニーナは得体の知れない感情に襲われた。
見てはいけない。目を合わせないで。心のどこかからそんな声が聞こえたような気がして、それに従って彼女はすぐに顔を背けて机に視線を落とした。
だが一瞬向けた視線に気づかれたのだろうか。その二人は兵士と共にニーナの方へと近づいてくる。どうか、こちらへ来ませんように。ニーナは目を閉じて懸命に祈った。
「ニーナ・トリベール」
しかし祈りも虚しく女性らは背後で立ち止まり、名を呼ばれた。
振り返りたくはない。けれども振り返らなかったとしても結局は殴られて強制的に振り向かされる未来しかない。ニーナは恐る恐る立ち上がって彼女らへ向き直り、顔を見上げた。が、やはり白いマントの女性の顔はろくに見ることはできず、一瞥だけして軍服の階級の高そうな女性へ意識を向けた。
「こちらはヴィクトリア・ロイエンタール少将だ」
思っていた以上に高い階級だったことにニーナは面食らいながらも口を開いた。
「あの、私に何か……」
「そう怯える必要はない、と言いたいところだが」軍服の女性――ヴィクトリアはニーナの全身を下から順に見上げていった。「その有様だと怯えるのも仕方あるまい。なに大した用事ではない。せっかくここに来たのだから、自分が連れてこさせた奴の顔くらい確認しておこうと思っただけだ」
ヴィクトリアが何を言っているのか。ニーナは一瞬理解できなかった。だが機能が低下した脳でも理解が追いつくと、どこかおぼろげだった頭が一気に覚醒した。
「貴女がっ……!」
温厚なニーナが珍しくヴィクトリアに詰め寄る。だが一歩を踏み出した瞬間――彼女の体は宙に浮いていた。
「うっ、くぅ……!」
「まあそういきり立つなって。な?」
マントを着ていた女性――神の使者がニーナの首元を掴み上げる。彼女は端正なその顔を愉快そうに歪めると、もがくニーナを息がかかるほど近くへと引き寄せた。
「それで、どうだ? 神たちが興味を持ったようなことを言ってたが、お眼鏡に適う人間だったか?」
「さあて、ね……」
使者の女はニーナの顔を覗き込んだ。ニーナは顔を逸らそうとするが、女はその頬を掴んで無理矢理に自分の方を向かせ、彼女の瞳を、さらにその奥までもを凝視した。
ニーナは震えた。彼女の視線はただでさえ冷たくて、自分の中にあるものすべてが強引に露わにされてしまいそうで怖かった。非の打ち所のない作り物めいた顔がそれをさらに増幅していて、ニーナは目を逸らすこともできずその恐怖にじっと耐えなければならなかった。
「――ふん」
やがて数時間にも感じられた、拷問じみた時間が終わってニーナは解放された。激しくニーナは咳き込むも、使者の女はつまらなさそうに鼻を鳴らしただけだった。
「良く分かんねーな」
「分からないだと?」
「うまく隠れてんのか、外っ面からじゃハッキリしないってことさ。主たちが考えていらっしゃる奴で間違いねぇとは思うんだけどな」
彼女は何を言っているのか。ニーナは女性の言葉の意味をよく理解できなかったが、少なくとも自分が何かしら深い意図に従って連れてこられたことは分かった。
「ま、別にあんたらにとっちゃ問題ねぇだろ? 実際に何回宝石を使っても壊れてないんだしな」
「否定はしない」
「分かんないならもーいいや。どうせここにいたってつまんないし、私は帰る。あとはそいつを逃さないでいてくれりゃいいよ。主たちから指示があったらまた来る」
どうやらニーナに対する興味は完全に失われたらしい。使者の女はくるりと踵を返すと、手を振ることもなくそのまま出口へと向かっていったのだった。
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