3-4. 僕にはもう、時間が無いんだ
――Bystander
そこは、地の底を思わせる
どこかの洞窟なのか、天井は硬く厚い岩盤に覆われて当然ながら日の光など届くはずはない。空気は外へと抜けることはなく、湿り気と仄かな熱を伴ってただそこに漂っていた。
時が止まったような空間。だがそこに足音が響き、かすかな空気の流れをもたらした。
暗い中でも映える真っ白な衣装が揺れる。フードを目深に被り口元も白い布で覆われているため顔は一切見えない。しかし知っている者は彼女をこう呼ぶ。
「使徒」と。
「……」
無言で彼女は洞窟の奥へと一人歩みを進めていく。そのペースは一定で歩調が乱れることはなく、唯一灰色に色づいたズボンの裾だけが一定周期でマントの隙間から覗いていた。
歩く姿に疲労は見て取れず、口元がマスクで覆われているが息苦しそうな素振りもない。そもそも呼吸をしているのかさえ怪しい。彼女のその姿をもしアーシェが見たならば「ロボットだな」とでも形容しただろう。
その彼女へ無数の視線が向けられた。洞窟には多くのくぼみがあり、そこには檻があって様々な生物が閉じ込められている。また別のくぼみは大部屋のようになっていて人間だった屍鬼たちが寝そべっていたり座っていたりしていたが、彼女が近づいてくると一斉に怯えて、少しでも遠ざかろうという素振りを見せた。
彼女はそんな屍鬼たちの様子を一切気にすることはなかった。前だけを見て奥へ奥へと向かっていく。
「……」
やがて彼女の足が止まった。目の前には分厚い土製の扉。表面には赤黒い複雑な術式が浮かび上がっていた。
腕を伸ばして手のひらをかざす。すると扉表面の発光が止まり、一拍おいて扉が左右に別れていく。彼女が中に入ると扉が閉じて再び空間が密閉された。
部屋の中は外とは全く異なる様相だった。一辺が二十メートル程度の広さで、壁にはランタンが埋め込まれており、決して明るくはないが夜目が利かずとも見通せる程度の光量はある。
室内のあちこちにある小さな檻には小動物が詰め込まれ、数カ所設置されている台には術式の文様が刻まれている。上には切り刻まれた実験動物の死骸がそのまま放置されていて、室内は血の臭いでむせ返るようだった。
そしてその一番奥で男が壁にもたれかかって倒れていた。否、倒れているように見えるが口からは寝息が漏れ、ただ寝ているだけであることが窺えた。
「う……ごめ、ん……ごめんな、さい」
寝ている男からうめき声が漏れた。額には汗がびっしりと浮かび、表情はなんとも苦しげだ。見た目の年齢は三十歳程度と若いが、深い苦悶に歪んだ顔は老人のようでもある。
「ごめ、許し、て……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」
苦しそうな吐息と共に吐き出される謝罪の言葉が壊れたレコードのように何度も何度も繰り返される。黒い上下の服に包まれた体が震え始め、謝罪の声が次第にかすれた獣のような唸り声へと変わっていった。
「バーナード・ファーナー」
使徒の女が名を呼んだ。が、声が震える彼へと届くことはない。仕方なく彼女は近づいていき、彼へ手を伸ばした。
瞬間、それまで硬く閉じられていたバーナードの両目が勢いよく開いた。瞳は真っ赤に輝き、今しがたまで震えていたのが嘘のような素早さで飛びかかった。
「――■■、■■■――っ……!」
言葉にならない咆哮を上げ、使徒の女を押し倒す。馬乗り状態になり、口からは激しく唾液が溢れてとても正気ではない。なおも低い唸り声をあげて、獣を思わせる形相で彼女を見下ろしていた。
口が開く。バーナードは血走った目を彼女の首元に向け、紫に変色した唇の奥から現れた鋭く長い牙を勢いよく突き立てた。
白く汚れのない彼女の皮膚を牙が突き破る。血はかすかに滲む程度だが、なんとか血を吸えてはいるようで、バーナードは喉を鳴らして飲み込んでいく。
喉が数回鳴り、とりあえず満足したのかバーナードは体を起こして恍惚とした笑みを浮かべた。
だが。
「……っ」
赤かったバーナードの瞳が元に戻り、彼女の体から飛び退く。口元を押さえると、フラフラとしながら壁際のバケツへ顔を突っ込んだ。
「おえ……げほ、げほ……」
飲んだ彼女の血を吐き戻し、それでもまだ落ち着かないのか喉に指を突っ込んでなおも吐き出そうとする。しかし胃に無いものは戻しようがなく、激しくえづく声だけが響いた。
「バーナード・ファーナー」
何事も無かったかのように彼女は立ち上がって着衣の乱れを整えると、もう一度彼の名を呼んだ。バーナードはバケツに顔を突っ込んだまましばらく荒い呼吸をしていたが、やがて体を起こすと血に濡れた口元を手の甲で乱暴に拭い、力なく笑った。
「ああ、君か……すまないね、また乱暴してしまった」
「構わない」
「君はいつもそれだね」申し訳無さそうな笑みが苦笑に変わった。「それで、今日は何の用かな?」
よろめきながらバーナードは彼女とすれ違い、机に座ってランタンに火を灯した。
照らし出された机の上はおびただしい数の紙で埋まっていた。そのどれもが数式や術式で埋まっており、さらに乱雑な字でメモ書きと思われる文字があちこちに書き加えられている。壁際の棚には古びた手書きのノートが何十冊も並んでいて、古いノートは変色し、相当な年月が経過していることを想起させた。
「またいつもの進捗確認かい? 大丈夫、順調に進んでいるよ」
そう言ってバーナードが壁に手をかざすと机の横が突然スライドして壁がせり上がり、新たな部屋が現れた。
中には半径数十センチほどの台座。部屋の壁際には機械類が並べられ、後ろの壁から天井に床まで魔法陣がびっしりと描かれている。台座そのものにも壁とは比べ物にならないほどに緻密な術式魔法陣が刻まれて、仄かに青白い光を放っていた。
そして台座の上には碧色に輝く宝石――ミーミルの泉があった。以前よりもずっと大きくなっており、今は赤子の握りこぶし程度にまでなっていた。
「ご覧のとおりさ。試しに何人か魂を吸わせてみたけど問題なく吸収されているのは確認したよ。まだ変換効率が悪くてロスがかなり多いのが気に入らないけれど……まあそこは数で補うことにするよ」
時間の方が有限だからね。そう言って使徒の女に笑いかけると、彼は目を擦りながらまた机の方に向かった。
「貴方の優秀さは理解している。進捗は心配していない」
「なら何の用で来たんだい?」
「警告に来た」
「警告?」
「そう。軍が貴方の情報を入手した。調査にやってくる。気をつけた方がいい」
「ああ、それなら知ってる。もう接触した」
さらりと応えたバーナードに、使徒の女は言葉にこそしなかったがやや驚いたような雰囲気を示した。
「吸血鬼が犯人だってバレてるみたいだったから屍鬼たちに襲わせたんだけど、逆にあっさり返り討ちにあったね。そこらの有象無象とは違うみたいだ。特にあのちっさな子は別格かも」
「その情報が確かなら、やってきたのはアーシェ・シェヴェロウスキー。ヘルヴェティア王国でも一、二を争う強敵。正面から戦うのは推奨しない」
「あの子、そんな強い子だったんだ。人は見かけによらないって本当だね。ま、とりあえず話は分かったよ」
あまり興味なさげな態度をとると、バーナードは机の上の術式に向かい合う。話は終わったつもりで「それじゃ」と手を振るが、彼女はその場から動こうとしなかった。
「……まだ何か用かな? これでも忙しいんだけど?」
「私たちは憂慮している」
「憂慮? さっきは心配してないって言ったのに矛盾してないかい?」
「進捗については心配していない。それは変わらない。だが貴方の進め方には重大な懸念がある」
「へぇ……聞いてあげるよ」バーナードは薄っすらと笑みを浮かべた。「何がそんなに不安なのかな?」
「計画の進捗が強引に過ぎるきらいがある。人間が多数消えたおかげで軍に察知された。計画に支障が生じないか、私たちは深い憂慮を抱く」
「犠牲はつきものだよ。まして、そもそもが魂を多数必要にする代物だからね」
「魂の濃縮に素材が必要なのは理解する。しかし短時間に行動を起こし過ぎた。おかげで小規模だが軍の介入を招く事態に発展している」
「軍の介入というのは、あの三人組のことだろう? 大丈夫、心配いらないよ。あれくらいならどうにかごまかせるさ」
「そう願う。だが行動にはより一層の慎重さを――」
「ああ、ったくもう……うっさいなっ!」
使徒である彼女がなおも注意喚起を続けようとするが、それをバーナードの怒鳴り声が遮った。
高速で何かが彼女の顔面に迫る。それを女は手で払いのけるが飛沫が飛び散って彼女の白い衣装を濡らした。
自身が叩き落とした物を見下ろす。床で潰れていたのは何かの動物だった。おそらくはバーナードが実験で使用したもので、すでに死んでいたのだろう、あまり血は飛び散っていなかった。
彼女は頬に飛んだ飛沫を拭う。が、バーナードを非難することはない。怒りも侮蔑もなく、ただいつものように静かに彼の方を向いているだけだった。
「最初に言ったはずだよ。僕は僕のやり方でやらせてもらうと。それが契約だったはずだ。依頼主とはいえ、口を挟まないでほしいな」
「……承知した」
「ちっ……文句はそれだけかい? ならとっとと帰ってくれるかな? 君がそこにいると気が散ってしょうがない」
机に向かったまま舌打ちを交えながらバーナードが早口でまくしたてると、使徒の女は小さくうなずき無言のまま部屋を出ていった。
そうしてまたバーナードは一人部屋に残される。孤独な時間が始まり、じわりと彼を蝕んでいく。しばらくは一心不乱にペンを走らせていた彼だが、おもむろにその手が止まるとため息をついて頭を抱えた。
「また……やってしまった」
怒鳴るつもりなど無かった。無愛想で気の利いた話の一つもしない神の使いたる彼女。しかしそんな彼女であっても、バーナードの孤独を癒やしてくれていた。
誰かと、言葉を交わす。かつて彼の妻と娘と毎日そうしていたように。だが今の彼には、言葉を交わせる相手は彼女一人であった。そこに彼は感謝を抱いていた。なぜならば、彼女だけは彼が正気を失っても変わることなく彼女のままでいてくれるから。
「別に僕だって……怒りたいわけじゃないんだ」
けれども、どうしたって彼女の口調が癪に触る。自分という存在をまるで理解できてない彼女に苛立つ。彼女や、彼女が仕える神たちと違って時間は有限だというのに、それを理解していない態度が彼にはどうしても我慢ならなかった。
「僕にはもう、時間が……時間が無いんだ……」
机の上で拳が握りしめられ、くしゃりと用紙が歪んだ。
後どれくらいか、自分が自分でいられるのは。正気を失わず、
想像し、胸がきしむ。じわりと汗がこめかみに滲み、恐怖に嗚咽が漏れそうになる。だが心を折ってしまうわけにはいかない。バーナード・ファーナーがバーナード・ファーナーでいられる間に、なんとしても成就しなければ。そのためにも一刻も早く、あのミーミルの泉を完成させてしまわなければならない。
「あと、少し……なんだ」
あともう少しで、準備がすべて整う。そうすれば終わる。すべてが終わる。この苦しみから解放され、すべては無かったことになる。
「だから……なんとしても邪魔はさせないよ」
濁った瞳を閉じ、屍鬼を通じて外の様子を伺う。
彼の意識の先には、軍服を着た赤毛の少女の姿が映っていた。
「戦わずとも、逃げ切れれば僕の勝ちだ」
そう一人でうそぶいて口角を吊り上げると、バーナードは最後のピースとなる術式を完成させるため、目の前の紙に一心不乱にペンを走らせていったのだった。
Moving Away――
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