5-4. 本当は何があったの?
――Bystander
アーシェがアレクセイたちを連れて出かけた後、ニーナは当直のカミルに声を駆けて一人詰所を出た。
そのまま北へと向かい軍本部へ。本日の当番らしいフンメル兵長と正門で軽く挨拶を交わすと、まっすぐに拘置所を目指した。
「……すみません」
「いえ、自分もあの子の事は気になってますから。とはいえ、規則違反はこれっきりにしてくださいね?」
予め話を通しておいた事件担当官の少尉は、帽子を押さえながら首を横に振って同意を示した。そしてニーナに釘を刺しつつ拘置所の入り口の鍵を開けて彼女を奥へ促す。
ニーナが中に脚を踏み入れると、背後でガチャンと鍵が閉まった。自分で頼んだとはいえ暗い拘置所に一人。にわかに緊張が高まっていくのを感じながらも、軽く頬を叩いて気合を入れ直し脚を進めていく。
拘置所の中は一人ひとりで簡易的に区域が区切られていて入り口ドアの上部に番号がふられていた。アベルが収容されている区域の番号を見つけノブを捻ると、少尉が事前に教えてくれた通りあっさりとドアが開いていく。中に入れば昔ながらの鉄格子があり、その向こう側にじっと動かない影があった。
「アベルくん」
ニーナが声を掛けるとベッドの上で影が身じろいだ。寒いのか、まとったボロボロの毛布から億劫そうに顔を上げ、そして訪問者がニーナであることを認めると驚いたように目を見開いた。が、反応らしい反応はそれだけですぐにまた膝に顔を埋めていった。
「ここって結構寒いね。大丈夫? もし寒かったら、少尉さんに言って毛布もう一枚持ってきてもらうから」
「……」
「あ、えっと……そう! この間一緒に食べた、なんて言ったっけ……あのソーセージがパンに挟まったやつ! あれ買ってきたんだけど、また一緒に食べない?」
「……」
上着のポケットから紙に包まれたパンを取り出して鉄格子の奥へ差し出す。まだ湯気が仄かに上がり、包み紙の隙間からソースの香ばしい匂いが漂うがアベルは一瞥しただけで何の反応も示さなかった。
ニーナはため息をそっと漏らした。そして鉄格子の間からパンを二つ差し入れると、「バレないうちに食べてね?」と言って鉄格子に背中を預けて腰を下ろした。
「ねぇ、私とお話しない? ちょっとだけでいいからさ?」
「……」
「今晩、当直なんだけど抜け出してきちゃったの。アベルくんとお話したくて。だからお願い! 少しだけでもいいからおしゃべりしよ?」
「……」
「もししてくれなかったら、一晩中ここにいるからね?」
「……」
「おしゃべりしたくなかったらそれでもいいから、こっちに来てくれない? ほら、一人だと寂しくて」
ニーナをずっと無視していたアベルだが、一晩中しゃべられるのも邪魔だと思ったか、のっそりとした動作で立ち上がると毛布を挟んでニーナと背中合わせに座った。
「えへへ、ありがと」
「……」
冷える背中と微かに伝わる体温。間に鉄格子という無機物が挟まってはいるものの、アベルが応じてくれたことがニーナは嬉しかった。
そこから他愛もない会話が始まった。とは言っても一方的にニーナがしゃべるだけでアベルは相槌すら打たない。
けれど、アベルが離れることはなかった。それは、それすらも億劫だからだっただけかもしれない。でも、声はきっと届いている。ニーナはそう信じて話しかけ続けた。
「そういえば、弟くんたちいるよね? 二人? 三人?」
「……二人」
どれだけ話したか。ひたすらにニーナが話題を思いつくままにしゃべり続けて、ふと過ぎったアベルの弟たちのことを口にすると、アベルから返答があった。
返事がきたことにニーナは驚いたが、けれどもここがチャンスと言葉を続けた。
「じゃあこの間、一緒にいた二人がそうなんだ。あれくらいの年頃の子ってほんっとうに可愛いよね! こう、ついぎゅーってしたくなっちゃう」
「……」
「顔を見てれば何となく分かるよね。素直にまっすぐ育っててさ」
「……」
「本当にお兄ちゃんに守られて、大切に育てられたんだなって」
「アイツらは……立派だよ」アベルが口を開いた。「まだガキだけどその割に賢いし愛想もあるし……ちゃんと勉強すればきっと、すげぇ明るいな未来が待ってんだ。そうに決まってる」
「アベルくん……」
「だから、だから俺なんかより……」
今にも消えそうな声で絞り出すと、再びアベルの頭は膝の隙間へと沈んでいった。
痩せこけた腕で殻に閉じこもるように膝を強く抱え込む。秋の夜の寒さに冷え切った手。そこに、柔らかく温かい手が重ねられた。
伝わる熱に驚いてアベルは振り向いた。被っていた毛布が落ちてニーナと目が合う。彼の瞳に映る彼女は、優しく微笑んでいた。
「……立派な手だね」
ニーナは鉄格子の隙間から抱きしめるような形で腕を伸ばして、アベルの手に自身の手のひらを静かに重ねていた。
傷だらけの手。爪はボロボロで皮膚は破け、ささくれから血がにじんで乾いている。それをニーナは慈しむように何度も撫でていく。
「この手で……頑張ってきたんだね。自分のことより弟くんたちのことを考えて一所懸命に、精一杯育ててきたんだよね」
「……そんな立派なもんかよ。仕事もクビになって、勉強させるどころか腹いっぱい飯を食わせてやることもできてねぇ情けねぇ兄貴だよ」
「ううん、アベルくんはすごいことをやってる。他のどんな大人たちよりも立派なことを、他の誰にも真似できないくらいすごいことをやってるんだよ」
ニーナの手がアベルのそれを握る。強く、けれども優しく。両腕がアベルの冷えた体を包み込み、そして手のひらがゆっくりとアベルの頭を撫でた。
「よく、頑張ったね」
アベルへ慈しみの声が染み込んでいく。体が硬直し、両目から涙が滲み出す。口から嗚咽が漏れそうで、力が抜け出してしまいそうになる。すべてを委ねてしまいたくなる。けれどもアベルは歯を食いしばってその衝動に抗うとニーナから離れた。
「……本当は、さ」
背を向けたままアベルは話し始めた。その声は震えていた。
「俺……俺、王子様を襲うつもりなんてなかったんだ。こんな……事になるなんて思ってもみなかったんだ……」
ちくしょう、ちくしょう。そう嗚咽を漏らしながらアベルは床に拳を力なく叩きつけた。
「アベルくん……本当は何があったの? やっぱり殺そうなんてしてないんでしょ?」
「……」
「お願い、話して。私の他に誰も聞いたりしてない。私もここで聞いた事は誰にも話さないって約束するから」
「……」
「アベルくんを助けたいのっ! 弟くんたちのところに、アベルくんを帰してあげたいの! だからっ……」
「……王子様だって、俺、知らなかったんだ」
アベルは苦しそうにして沈黙を破った。握ったアベルの腕の震えが伝わってきて、鉄格子のせいで力が入らないのをもどかしく感じながらニーナは注意深く耳を傾ける。
「たまに北街の方にある店先に立ってるから、俺、ずっとあの人を商会の人だと思ってたんだ。見るからに金持ちそうだから羨ましいなって思ってたけど、それだけで恨みなんてなかった。でも……」
「でも?」
「この間、言われたんだ。あの人は、俺たちスラムの人間を食い物にして稼いでる悪どい商人なんだって。だから成敗してやるんだって、周りにいた人みんなが息巻いてた」
「どうしてそんな……」
「分かんねぇ、分かんねぇよ。俺だって最初は断ろうとしたんだ。けど棒を無理やり持たせられて、襲撃のメンバーにいつの間にか決まっててさ」
「断りきれなかったんだね……」
「……いや」アベルは頷きかけ、けれども首を横に振った。「途中から俺もやらなきゃって思ったんだ。スラムの奴らはみんな仲間だ。誰かが悪い奴にひどい目に合わせられてるなら、前の俺みたいにバカにされてるなら俺も戦わなきゃって……」
その話を聞いてニーナは、先日アベルが吐露した話を思い出した。真面目に働いていたのに罪を押し付けられて放り出された。そんな経験が今回の襲撃を後押ししたのでは、と思った。
「だから襲う夜までその気だったんだ。でも、でも……いざ本当に襲うんだって、人を殴るんだってなったら急に怖くなって……けど今更止めるなんて言い出せなくて、だったら殴るふりして適当なところで逃げることにしたんだ」
「やっぱり殴ったりもしてなかったんだね……
でも、だったらどうして自分が殺そうとしたなんて――」
「取引、なんだ」
そう言うとアベルは大きく息を吐き出した。
「取引……?」
「うん……後で言われたんだ。お前が殺そうとしたのは王子様だって。
それ聞いて俺、すげぇビビった。悪どい商人をちょっと懲らしめてやるくらいの話だったのにとんでもない話になってて、どうしたら良いのか分かんなくなって……このままだと俺だけじゃなくて弟たちまで捕まって拷問されるかもって言われてさ」
「そんなことしないよっ!」
「分かってる! あのちびっこい隊長とかニーナさんならそんなことしねぇって分かってるよ。でも他の人間だったら? 捕まえに来たのがあのビアンキとかいうクソ貴族だったらどうだよ? 絶対しないって言い切れるか? そんな保証はどこにもねぇ」
「それは……」
「けどよ……こうも言ってくれたんだ。もし俺が罪を全部被ってしまえば、何がなんでも弟たちは守ってやるって。それどころか……弟たちの面倒も見て、おまけに学校にも行かせてくれるって言ったんだ。約束してくれたんだ」
それでアベルは犯人だと名乗り出たのだと、ニーナは得心した。弟思いの兄であれば、そんな話を持ちかけられれば頷くしかないだろう。
「……最初はバチが当たったんだと思ったんだ。悪いことばっかりしてたから、悪い兄貴だったからこんなクソみたいな結末になったんだって。でもさ……こんなダメな兄貴一人が死んで、それで弟たちが毎日腹いっぱい飯が食えて、勉強もできて立派になってくれんなら案外悪くないよな?」
アベルは目に涙を溜めながらそう言って笑った。
騙されている。ニーナはそう言いたかった。基本的に人を疑うことをしない彼女だが、彼に取引を持ちかけた人間は弟たちを守る気はないだろうと察していた。そのことをアベルにも伝えてあげようと思った。けれどアベルの悲しい笑顔を見てると胸が締め付けられて、とてもじゃないが騙されているだなんて言えなかった。
「そんなこと言わないで」
だから代わりに、ぎゅっと腕を握った。
「アベルくんはダメな兄貴なんかじゃないし、こんな結末しか用意できないなら――神様なんてクソ喰らえだよ」
「……」
「アベルくんがこの世界で一番立派なお兄ちゃんなのは間違いなく弟くんたちにも伝わってるし、アベルくんがいなくなって弟くんたちは絶対に悲しんでる。だからこれはバチなんかじゃないし、君に罪をなすりつけて悪い人がのうのうと過ごしてるなんて絶対に間違ってる。アベルくんが死ななきゃいけないなんて絶対、絶対、間違ってる」
だから諦めないで。そうニーナはアベルの背中に投げかけた。
沈黙。ひたすらにうるさい静けさだけが続く。その間も二人の腕は繋がったままで、そこに涙が落ちて弾けた。
スルリとニーナの手からアベルの細い腕が抜けた。傷だらけで汚れた指先が目元を拭い、けれでもなおあふれた涙が笑顔の頬を流れ落ちて。
「――ありがとう」
その一言だけをアベルは絞り出したのだった。
冷たい風が吹き荒ぶ中を、ニーナは早足で歩く。
人気のなくなった街を睨みつけ歯を食いしばる。そうしなければ泣き叫んでしまいそうだった。
絶対に、アベルを死なせてはならない。早く、弟たちのもとへと帰してあげるべきなのだ。そのためにも一刻の猶予もない。
そう強く思うが、果たして一介の兵士である自分に何ができるのだろうか。自らの冷静な部分がそう囁くと無力感が押し寄せてきて、自然と悔しさに拳を強く握った。
せめて、せめて自分が■■■■の頃だったら。■■■■の力があれば時間を――
「……あれ?」
■■■■ってなんだっけ。当たり前のように考えていたが、そこに思い至った瞬間思考にノイズがかかり、やがて霧散していった。
今のはいったい何だったのか。ニーナは気にかかったがそれよりも、と頭を軽く振って気を取り直した。
「とにかく、泣き言言ってる場合じゃない……!」
できることをしなければ。名案など自分の頭じゃ思いつかないが、アーシェに話してみよう。彼女だけじゃない、アレクセイやカミル、ノアもみんな同じ気持ちのはず。みんなで話し合えば何か妙案が出てくるかもしれない。
段々とひっそりとしてくる街に反して煌々と明かりが灯り続ける詰所にニーナが飛び込むと、遅番でも当直でもないはずのアーシェがまだ残っていた。自分の席に座り、何をするでもなくじっと正面を見つめ考え事をしている。それを邪魔するのははばかられたが、ためらっている暇はない。
「アーシェさ――」
「ニーナ」
ニーナよりも早く、アーシェは彼女を呼び寄せた。鋭い眼差しがゆっくりとニーナへと向けられた。
「――また作ってもらいたい魔装具があるんだが、頼めるか?」
視線が交差し、彼女のその言葉がアベルのためのものであるとニーナは即座に察した。であるならば、拒否する理由はない。
「――はいっ!!」
やはりアーシェとは同じ方向を向いている。自然とニーナの顔がほころんでいって、彼女は大きな声で返事をしたのだった。
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