3-1 なんとお呼びすれば良いでしょうか?
「アーシェ・シェヴェロウスキー」という人間の記憶は、孤児院のクソ汚い天井を眺めているところから始まった。
年中同じ汚れた服を着させられて、年中腹を空かせていたのはよく覚えている。
欠けた食器にクズみたいな野菜のスープ。今にして思えば塩気ばかりが強くて味なんてろくにしなかったが、当時はそれが当たり前で美味いも不味いも思ってなくて、ただとにかく腹いっぱい食いたいとだけ思ってた気がする。
記憶を振り返る限り孤児院の環境は最低最悪。絵に描いたようなクズのクソ溜まりだったな。
施設の職員は国から支給された物資を自分たちで独占し、私たちガキどもにはメシすらまともにやらないという悪行を喜んでやるクソしかいなかったし、それを真似たのか腹を空かせた年長のガキもまた、年少のガキからメシを奪うというクソしかいなかった。
まさにクソとクソの連鎖。暴力は日常茶飯事だし、飢えとのセットで死んでしまうガキも珍しくなかった。
(私も……)
いつかああなるのだろう。死んだ子を埋めてやりながら、漠然とそう思っていた。
時には自分の生まれと境遇を嘆きもしたし喚いたりもしたと思うが、いつしかそんな感情さえなくなっていった。考えていたのはいつも、どうやったら腹いっぱいメシが食えるか。それだけだ。
肉が食いたい。飲み物が飲みたい。そんなことばかり考えていた。
死はすぐそばにある。そしてそのことを受け入れてしまっている私がいた。
「ひどい……」
「改めて振り返ってみれば、当時のラインラントはまさに全方面と戦争してた状況だったからな。辺境の児童福祉にまで気を配ってる余裕なんて無かったんだろうさ」
長くは生きられない。だがまあ、当時はそこまで生きることに執着は無かったように思う。もし、他の孤児たちと一緒に餓死してしまうなら……もうこれ以上空腹で苦しくないのならそれはそれで構わないとさえ思ってた。
今日生き延びれてしまった。なら明日はどうだろう。生きたいのか死にたいのか、それさえ曖昧なまま、期待も希望もない分絶望もない人生の時間だけが過ぎていって。
それが変わったのは、たぶん八歳になるかどうかという頃だった。
「シェヴェロウスキー」
強面で無愛想な職員にある日呼び出された。またくだらない理由で殴られるんだろうか、とぼんやり思っていたんだが、どういうわけか月に一回浴びれればいいシャワーを浴びせられ、手加減なしにゴシゴシと磨かれた挙げ句キレイな服に着替えさせられた。
そうして連れて行かれたのは玄関だった。
入り口には私の物じゃない――そもそも私物なんていえる物はなかった――ピカピカの荷物をさも私の物であるかのように並べられていたのをハッキリ覚えている。そしてその荷物の傍らで座ったままタバコを吹かしていた人物が私に気づくと、タバコを放り捨ててニヤリと楽しそうに微笑みかけてきた。
「本当にこのガ……この子で良いのですか? もっと器量の良い娘がおりますが……」
「何度も言わせないでくれないかい? 私はこの子
見透かすような視線とどこか小馬鹿にしたような口調が特徴的なその人は、連れてきた職員に宝石みたいなものを握らせるとさっさと追い返し、職員もまた明らかに不機嫌そうだったというのに、その宝石らしいものの重みを感じた瞬間に気持ち悪いほどの上機嫌でいなくなった。
「うん、良かった良かった。特別に傷物にされてるわけじゃあなさそうだね」
ペタペタと私の全身をくまなくチェックしていく。それが終わって立ち上がったその人を、私は小さな体で見上げた。
白い髪を肩ぐらいまで伸ばした奇妙な人は、不思議な外見をしていた。上流階級の人間なのだろう。私でも分かるくらい仕立ての良いパンツスーツを着て、けれども声も顔立ちもどこか女性っぽさを感じさせた。
口調は気だるそうでもあり粗野っぽくもある。が、どうしてか、気品らしい雰囲気もあったように思う。ともかくもそんな不思議な人だった。
「それじゃあ行こうか」
彼か彼女か。後に女性のようだと判明するが当時の私はそれもわからぬまま、どうやら孤児である私を買ったらしい彼女に連れられて孤児院を出た。
だが。
「ああ、そうだ」
玄関を出て十メートルくらい歩いたところで彼女は足を止めた。
不思議そうに見上げる私を見て口端を吊り上げ、「ちょっと確認しておこうか」と見下ろした。
「さっきの男。君は好きかい? それとも嫌いかな?」
「……嫌い」
私を連れてきた職員の男は一等嫌いだった。機嫌が悪いと暴力を振るうし、飯時だったらただでさえ貴重な飯を容赦なく私にぶちまけたりしてきた。
かと思えば、私の体を撫で回してきたりキスをしてきたり。幼いながらも気持ちの悪い人間だと認識していたな。逆らうと痛い思いをするだけなので黙ってなされるがままになってはいたんだが、今ならタマを引きちぎって口の中に突っ込んでやるところだ。
それはともかく。
私がそう答えると彼女は「そうかそうか」と言ってヒヒヒ、と愉快そうに奇怪な笑い声をあげた。
「それはいい。奇遇だね。私もあの男は嫌いだよ」
だったら遠慮はいらないね。その言葉と同時にパチンと指を鳴らして。
次の瞬間、孤児院の奥の部屋が爆発した。
「っ……!」
窓枠を吹き飛ばして炎が噴き出し、弾き飛ばされた屋根や壁の破片が私の傍まで降り落ちてきた。その後であちこちから上がる大人たちの怒号と悲鳴。私がさっきまでいた孤児院は炎に包まれて、今にして思えばさながら戦場みたいだったな。
そして気づいた。
「あの部屋……」
あそこは確か、私が「嫌い」といった職員が生活していた部屋だったはず。だからどうやってかはしらないけれど、この女の人が何かをしたのだと分かった。
「どうだい? スッキリしたろ?」
燃え盛る孤児院を見て、彼女は笑っていた。口端を吊り上げて皮肉っぽく。肩を心から愉快そうに揺らして私の肩をポンポンと気安く叩くと、もう孤児院に用は無いとばかりに背を向けた。
「ん? 何をしたか気になるかい? 心配しなくても大丈夫さ。いずれキミもできるようになる」
「私が……?」
「そ。ま、キミ次第ではあるがね。少なくともこの私が可能性を見出す程度には才能がある」
頭を雑な仕草で撫で回し、小さい私を気遣う様子もなく一人でズンズンと先に進んで行き始めた。私は置いてかれまいと腹を空かせたまま必死に追いかける。
果たして自分がこれからどこに連れて行かれるのか。何をさせられるのか。何一つ分からない状況だが――とりあえずはまずはこれを聞かねばなるまいと思って、私はその人に呼びかけた。
「あ、あの……」
「ん? 何かな? ああ、そう言えばキミはまだ子どもだったね。歩くペースが速かったか。まあこれもトレーニングだと思って頑張って付いてきたまえ」
「いえ、そうじゃなくて……」
「なら何かね? 質問は端的にしたまえよ?」
「ええっと……貴女をなんとお呼びすれば良いでしょうか?」
「……ああ、そういうことか。そういえば失念していたね、シェヴェロウスキー――いや、今日この瞬間からもうキミとは義理とはいえ親子関係なのだからアーシェと呼ばせてもらおうか。
さて、ではさっそく我が娘に自己紹介をさせてもらおうかな」
その人は私の背後で未だ燃え盛る孤児院には目もくれず、ひざまずいて私の目線に合わせ微笑んだ。
「ようこそ、アーシェ。私の願いを叶える人。人は私のことを『魔女』だとか『天才』だとか、果ては『天災』とか好き勝手に呼んでくれるが……うん、そうだ、キミは今日から私のことを『ドクター』と呼ぶように。良いね?」
そう――この日こそが私がドクターに出会ってしまった日だった。
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