2-2 欲に負けるとロクなことがない
とまあ、そういうわけで。
情けなくも私は、この期を逃したら二度と口にできないんじゃないかという高級な酒とツマミを前に陥落したわけである。
だがなるほど、確かに味は見事だった。喉から鼻へと抜けていく芳醇な薫り。奥深い歴史を感じさせる味わい。どれをとってもこれまで飲んだことのない味わいであり、加えてチーズがその味わいを深めてくれる。うむ。何とも幸せな気分に浸れることうけあいだ。
もっとも――普段なら、という但し書きがつくが。
「すっごく美味しかったですね! どうでした? 満足してもらえました?」
「……そうだな」
正面にはご機嫌なニーナ。ついさっき追い返そうとした相手の酒を目の前で飲んでるせいで、ニコニコとした笑顔が何とも気まずい。
「……なんだよ? 人をさっきからジロジロ見て」
「いえ、アーシェさんが美味しそうに食べてるのを見るのが楽しくて」
そう言ってニーナもグラスの酒を美味そうに傾けた。
ああ、クソ。そうだよ、美味いんだよ。私の心中がどうあれ、どうやらこの体はたいそう素直かつ正直らしく、酒が喉を通るたびに意志に反して全自動で「ほぅ……」とため息と一緒に頬が緩んでしまう。おかげでニーナは私の観賞をツマミにして、チーズは私しか食っちゃいねぇし。
「あー、美味し……お酒がこんなに美味しいものだなんて知りませんでした。軍に入る前に飲んだ時はクラクラするばっかりで全然美味しくなくて、こんなの好き好んで飲む人は頭おかしいんじゃないかって思ってたんですけど……なんででしょうね? お酒の味が分かる程度には私も成長したってことですかね?」
そらお前、高くて美味い酒しか飲んでないからだよ。日常的にあんなのを浴びるように飲んでみろ。お前どころか私の給料でも破産に決まってる。
「そうだ!」
アルコールで頭が沸いたニーナがロクでもない事を思いついたらしく、手をパンっと打ち鳴らしすと私の隣にすり寄ってきた。
「せっかくゆっくり時間もありますし、またアーシェさんの昔のお話でも聞かせてくださいよっ!」
「却下だ」
「良いじゃないですか! お酒もおツマミも食べましたよね? アーシェさんとお泊りするなんてイベント、もう二度と無いかもしれないんですからぁ。ほら、ベッドの中で横になってですね、こうギュッと抱き枕になってお話しましょうよぅ」
なんでお前と同じベッドで眠らなならんのだ。しかも抱き枕にされて。
隣に座ったニーナから逃げて、反対側の椅子に座り直す。そもそもさっきも言ったとおり私はプライベートをさらけ出す趣味はないし、昔語りもこの間のは例外で当分するつもりはない。
それに。
「なぁ、ニーナ」
「なんですか?」
「お前、帰れよ」
酒につられて招き入れてはみたが、やっぱダメだ。コイツとはいつもみたいに広い心で話す気になれない。落ち着かないしイライラするし、話してるだけでどうしようもなく腹の奥が重くて叫び出したくなる。
だっていうのに。
「
「分かってる。もう今日帰れとは言わねぇよ。今晩はちゃんと泊めてやる。礼拝堂で
「嫌です。アーシェさんが帰ってくる気になるまで私も帰りません」
ンな事をはっきりとのたまりやがった。
「ざけんな。ンなことお前に決める権利なんかねぇよ」
「口調変わってますよ。それがアーシェさんの素の話し方なんですね」
「話逸らすんじゃねぇ。なんなら今すぐにでも追い出してやってもいいだぞ」
「なら飲んだお酒とチーズ、返してくださいね?」
……ちっ、クソ。やっぱ欲に負けるとロクなことがない。
「ああ、分かったよ。明日になったら帰れ。お前が帰ったら次の日に私も戻ってやる」
「ダメですよ」
「なんでだよ?」
「だってその言い方だと、アーシェさんが帰りたく帰るわけじゃないですよね?」
「私が自分の意志で戻ってやるって言ってんだ。どこに問題があるって言うんだよ?」
「そうして嫌々戻って、また自分ひとりで溜め込んでいくんですか?」
「……何が言いたい?」
「マンシュタインさんと、リンベルグさん」
ニーナが二人の名前を口に出した瞬間、胸が掴まれたような気がした。
「私は、マンシュタインさんとは一度一緒に食事をしただけですし、リンベルグさんなんて会ったこともないです。ですからアーシェさんがどれだけあの人たちを大切に思ってたか分かりません。けれど、未だにお二人のことを深く後悔してるってことは分かります」
やめろ。二度と二人の名前を口にするな。
「たぶんアーシェさん、憧れてたんですよね? 幸せな家庭に。温かい家族がいる人生に。人の気持を分かるなんて安易に言いたくないですけど、でもなんとなくその気持ち分かります。私も、お父さんもお母さんもいませんから」
「黙れ」
「親戚との生活も別に悪い生活じゃなかったですけど、本当の家族のことを考えてしまってました。もし、もしあの時にみんな生き残ってたら今頃どんな生活送ってたんだろうって。無駄だって分かってるのに想像しちゃうんですよね、幸せな人たちを見たら」
「黙れ」
「そこに入れないって分かってるから憧れもしますし、その場所を守ってあげたいって思っちゃうんです。そして……それが壊れてしまった時は、まるで自分の家庭が壊れてしまったみたいで、とても辛くなっちゃうんですよね。しょせん他人のくせに」
「あと一回だけ言ってやる。いい加減に黙れ」
「そんな風に感じちゃって、マンシュタインさんたちの事をいつまでも忘れられないんですよね? 口では大丈夫っていっても全然大丈夫じゃなくて、ただ無理やり自分の中に押し込んでるだけ。
そして……そんな憧れの場所を自ら放棄したリンベルグさんのことを、大切な人だったからこそアーシェさんは許せなくって、でも怒りもぶつけられなくて、しかも死んじゃったからずっと消化できなくて――」
「黙れって言ってんだろうがッッ!!」
ニーナの胸ぐらを掴み上げ、机の上に本気で叩きつける。酒瓶だとかツマミ類がぶっ飛んでいくが構うものか。
「……お前、さっきから何様のつもりだ? 私のママにでもなったつもりか? 私がお前のその立派なおっぱいにでも吸い付いて慰められれば満足か? ええ?」
うんざりだ。慰められるのも、慰めてやろうなんて思い上がったヤツの相手をするのも。
誰にだって私は癒せない。癒やしてもらおうとも思ってない。どんだけ……どんだけ苦しくても、抱えて生きていくしか無い。解放されるのは計画が成就した時だけだ。それまでは魂と一緒に溜め込んで生きてくしかない。望んでないとしても、それが魂喰いとして生きなければならない私の宿命だ。
「……怒るのは図星だからですか?」
「うるせぇ!」
空いた方の手を机に叩きつけると天板が真っ二つに折れた。破片が飛び散り、驚くニーナを睨みつける。
「人のプライベートに立ち入るんじゃねぇっつってんだよっ……!」
「じゃあ聞きますけどね、今立ち入らないでいつ入れって言うんですか?」
「そもそも入んなって言ってんだろうがっ!!」
「なら――最初っからそんな不景気な雰囲気撒き散らしてんじゃないですよっ!」
ニーナの怒鳴り声が私の胸を叩いた。
珍しい怒り顔にたじろいだところでコイツの義手が私の肩を押しのけ、不意をつかれて私の軽い体が埃の積もった椅子を巻き込んで倒れた。
なんで私が汚れた天井を見上げてるのか。何が起きたのかわからないまま、胸の表面と奥の両方から湧き上がる痛みを覚えてつつ起き上がると、ニーナが仁王立ちで肩を怒らせていた。
「なんですか、いきなり勝手に仕事休んで……こんな田舎で酒に溺れて……」
「……」
つい、目を逸らしてしまった。別にニーナに文句を言われる筋合いはない……はずなのに、どうしてだかニーナの顔を見れない。
すると今度は私の方がニーナに引きずり起こされた。そっと逸らした横目で見れば、涙を浮かべたニーナの怒った顔がすぐそこにあった。
「何が大丈夫ですかっ……! どの口が『気持ちを切り替える術は心得てる』なんて吐くんですかっ……! マンシュタインさんのことだって、口で大丈夫大丈夫言いながらずーっと引きずり続けてるじゃないじゃないですかっ!」
「そんな、ことは……」
「ありますっ! 何なんですか!? こっちが心配しようとすれば近寄ってくるなって雰囲気出して、そのくせ構ってほしそうに辛そうな空気醸してっ……! 見た目だけじゃなくて内面までどんだけガキなんですかっ!!」
「なっ……!」
「だってそうでしょうがっ!? 強がりばっかで、それさえ隠せなくて……本当に頼りたくないなら、せめて私たちにバレないくらい上手に隠しなさいよっ! 大人なんだったらっ!」
「……お前に何が分かるってんだよっ!!」
思わずニーナの腕を振り払った。
お前に……私の何が理解できるというのか。人としてのうのうと生きてきたお前に。
「お前に分かるかっ!? 人を喰わなきゃ生きられない苦しみがっ!
悪党ならまだいいっ! だが、まったくの善人の魂だって喰わずにはいられないんだっ! その魂喰いの苦しみがっ……私の中でいつまでも渦巻く無念に苛まれる私の苦しさがお前に分かるかっ……! 血の味が、人の肉が、魂が美味いと感じるんだぞ……マンシュタイン殿たちの魂だって喰えてしまうんだ……!」
私自身がその選択をしたとはいえ、いつだってマンシュタイン殿たちの存在を感じてしまう。
嘆き、悲痛。彼らに降り注いだ理不尽に対する無念は絶えず私の中でうごめいていて、それは、助けられなかった私への非難の様にも思えて。けれど、けれども、この感覚は私以外の誰も理解することができないもので。
「誰とも、誰とだってこの感情を、この感覚を共有できない。理解してもらえないんだ……
なりたくなんて無かったのにこんな化け物にさせられて……お前に私の気持ちが分かるはずがないっ!!」
気がつけば、爆発する感情のままに気持ちをニーナにぶつけてしまっていた。
そうか、マンシュタイン殿や大佐殿のことは単なるきっかけでしかなかった。私は、私の中でうごめく無数の魂と折り合いをつけていくのに疲れてたんだ。
だが理解したところで暴れる感情はもうどうしようもなかった。周りの机や椅子を殴り、蹴り飛ばして壊していく。それは癇癪起こしたガキそのものの姿でしかなくて。
そうしてしばらく経ってから自分の周囲の惨状を見て、ようやく私はハッとした。
「それで……良いんですよ」
声に導かれてニーナを見れば、彼女は笑っていた。目に涙を浮かべて。
「良いんです。辛かったら辛いってわめいて良いんです。泣いたって誰も笑ったりなんてしません。
アーシェさんが自分の事をおいそれと話せないのは分かります。けれど……ううん、だからこそ、
近づいてきたニーナに抱きしめられる。彼女の柔らかい胸に包まれ、背中を温かい腕がさすった。抵抗すらできなかった。
もう、限界だった。
「う、うぅ……あぁ、あぁぁ……!」
一度流れ出した感情の奔流は容易には押し止められない。
これまで溜まりに溜まっていたたくさんの物。優しい手のひらで背中をさすられる度にそれらがどうしようもなく溢れ出して。
自分でもコントロールできずに、ニーナの胸の中で私は泣き続けたのだった。
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