2-1 だから今日、招いてもらったのよ
「マリエンヌっ! 帰ったぞーっ!」
マンシュタイン殿が相当にご家族を愛しているらしいことは、彼のご自宅に辿り着くまでの間にハッキリ分かった。
私とニーナを引き連れて自宅へと向かう道中は完全にお昼休みはウキウキ状態。事前に頼んでいたらしい奥方と娘さんへのプレゼントを途中で受け取って、研究所からそこそこ近い程々に立派なご自宅のドアを勢いよく開けると、奥からずいぶんと年若い奥方、そして――とっとことーと小さな女の子が飛び出して我々を出迎えてくれた。
「おかえりなさーいっ!」
「ただいま、エリー。いい子にしてたか?」
「うんっ! ちゃんとママのお手伝いもしたよー!」
「そーかそーか! 偉いぞー。じゃあ、そんなエリーに……プレゼントだっ! もちろんマリエンヌにも」
「まあ! ありがとう、フランツ」
もう聞いてるだけでいかにマンシュタイン殿がデレデレかが分かる。果たして微笑ましく見守ればいいのかそれとも溢れて我々まで押し流されてしまいそうな愛情に苦笑いを浮かべるべきか、或いは生暖かい視線を送ればいいのか判断に困る。
「いらっしゃいませ。貴女がシェヴェロウスキーさんかしら?」
「どうも奥方。はじめまして、アーシェ・シェヴェロウスキーです。こちらは部下のニーナ」
「はじめまして。いつもフランツがお世話になってます」
マンシュタイン殿の奥方は感じの良い御方だった。歳はたぶん私とそんなに離れてないんじゃないだろうか。彼が五十過ぎだからなんともまあ――隅に置けない方だ。
と、そこで足元から視線が。
「……」
エリーと言ったか。マンシュタイン家の娘さんが奥方に似たクリっとして可愛らしい瞳で見上げていた。なのでこちらも負けずにニコっと天使も裸足で逃げ出すと自負する愛らしい笑顔を浮かべてやったら奥方の後ろに逃げられた。なぜだ。
「……お姉ちゃんも軍人さんなの?」
「ああ、そう――」
「そうだよ、エリー」
エリーの質問に私が答える前に、マンシュタイン殿が彼女を抱き上げて微笑みかけた。
「このお姉さんたちのおかげでエリーやママが元気で過ごせてるんだ。だから今日はおもてなししてあげるんだぞ?」
「……うん、分かった!」
マンシュタイン殿の言葉にエリーは満面の笑みで応えると、彼の手から降りて私、そしてニーナの腕を引いてダイニングへと向かっていく。さすがに少女の手を振り払うわけにもいかないから素直についていったんだが。
(なんだろうな、この――)
むずがゆさと胸に過る疼痛。決して不快ではないはずなのだが。
この場に残りたい。そう思うと同時に早く立ち去りたいとも思う相反する感情。それを押し隠して、私は小さな淑女が引いてくれた椅子に腰を下ろすのだった。
食事会は非常に和やかだった。
マンシュタイン殿が理性的で理知的で個性的なのは知っていたが、奥方もなかなかどうして、ウィットに富んだ理知的な、それでいてかなり社交的な御方だというのがよく分かる時間だった。なにせ私がさほどストレス無く会話を弾ませる事ができるんだからな。おまけに酒についても造詣が深いようで、まったく、素晴らしい奥方を見つけたものだと感心するしかない。
「しかしだ、ニーナ君。あそこをそんなふうにしてしまうと――」
「仰ることは分かってます。けど、そこを解決できれば――」
そして私を招いたはずのマンシュタイン殿はニーナと先程から喧々囂々の白熱議論を交わしていた。予想通り私そっちのけで。二人とも私ほどではないにしろ、それなりにアルコールが入ってるだろうによく頭が回るものだとこちらにも感心するばかりだ。
とはいえ、私も不満はない。料理は美味しいしマンシュタイン殿が私を招くダシに使った酒の味もすばらしいし――
「ごめんなさいね。あの人、お酒が入るとああなのよ」
何より奥方の気遣いのおかげで悪い気分ではまったく無かった。私がのんびり酒を楽しんでいると、お嬢さんを寝かしつけた奥方――マリエンヌ殿が私の隣に座って申し訳無さそうに笑った。
「構いませんよ。マンシュタイン殿が用意してくださった美味い酒に奥方の美味しい料理。文句などありようがありません」
「ふふ、ありがとう」
「マンシュタイン殿は自宅でもああして技術的なお話を?」
「そうなのよ。専門的な話なんてされたって分からないのにね。でも今日はニーナさんがいてくれて助かるわ」
やれやれ、と呆れたような仕草を見せるが、だからと言って嫌がってるような素振りはなく、どちらかと言えば普段のそんなやり取りを楽しんでるように私には思えた。
「マンシュタイン殿は良い奥方を見つけられた。夫婦仲が良いことは素晴らしいことです」
「ありがとう。でも昔は……そうでも無かったの」
「そうなのですか? てっきり昔から愛妻家だとばかり」
「とんでもないわ」マリエンヌ殿は笑った。「あの人はいつも研究、研究で……起きてる時間に帰ってくることなんて殆ど無かったわ」
彼女は懐かしむようにワイングラスを眺めて、それを飲み干した。
彼女がワインを傾けながら語ってくれた話によれば、昔の結婚した当初――十年以上前は殆ど家庭を省みることは無かったらしい。
生活の中心も頭の中も全て研究が占めていて、帰ればすぐに倒れ込むようにして眠りにつき、起きればすぐに研究所へ出勤していく毎日。彼女は寂しかったと同時に、マンシュタイン殿の事を誇りにも思っていたようで。
「人伝でしか私も聞いてないけれど、色んな技術の開発に成功してたんですって。他の誰も追いつけないくらいに……悔しいけれど、きっと毎日が楽しかったでしょうね」
それはそうだろうな。好きな仕事で、しかもやればやるだけ成果が出る。難問が立ち塞がろうと自分の叡智が上回る。楽しくないはずがない。
仕事ができて、なにより王国という国を守るのに貢献してるのだ。だからマリエンヌ殿もそんなマンシュタイン殿が誇らしかった。
「でもある頃から――」
徐々に仕事が上手くいかなくなった。それは加齢のせいかもしれないし、或いは当然に訪れるべきだった壁がようやく現れたのかもしれない。自分の能力に絶対の自信を抱き、他の研究員の意見に耳を傾けず、自分の中だけで解決しようと抱え込み、やがて――マンシュタイン殿は壊れた。
「やせ細ってボロボロになって――首を吊って自殺しようとしたこともあったわ。かろうじて直前で止めたけど……あの頃が一番辛かったかしら」
「そんな事が……」
「今のあの人見てるとそんな風に見えないでしょ?」
確かに。あのおっさんはこちらがどんなにダメ出ししたところで堪えること無く、次の評価を依頼してくるからな。他の連中に比べてよっぽど鋼の心臓を持ってそうな印象だったが。
「そんなあの人が立ち直ったのはね、アーシェさん、貴女のおかげなの」
「私、ですか?」
はて、そんなボロボロな頃のマンシュタイン殿に会ったことはないし、何かをしたこともないはずだが。怪訝な顔をしてるのが伝わったらしく、マリエンヌ殿はクスリと笑ってリビングの壁に掲げられている、この温和な家庭に似つかわしくない術式銃に顔を向けた。アレは……
「――八五式術式銃、ですか? 懐かしいですね」
アップデートが激しい術式銃の世界では、それはずいぶんと型古だ。普段はあまり術式銃を使わない私だが、八五式だけはよく使っていた。私だけでなくアレクセイたち昔の前線で共に闘った連中もアイツを手放そうとしなかった。おそらく今も時々使ってるはずだ。効率、重量、馴染みの良さ。どれをとっても傑作だったと思う。ひょっとして。
「あれはね、あの人がまだ一人前になりたての頃に開発した物なの」
「なんと。マンシュタイン殿が開発したのですか」
「アーシェさんの部隊、あれをずっと使ってたでしょう? ある時、表彰される貴女と部下の人たちが大事そうにあの銃を持っているのを見て気づいたんですって。『技術は誰が開発したかよりも、誰を守ったか。それこそが一番重要なんだ』って。
それ以来、夫はがむしゃらなのは変わらないけれど、でも自分ひとりよりも色んな人と一緒に研究して、周りと頻繁に意見を交換するようにしたらしいの。そうしたら肩の力も抜けたし、新鮮な発見が多くてまた仕事が楽しくなったって、毎日笑うようになったわ」
「なるほど……ですが私はただ、あの銃が傑作だったから使い続けただけです」
「それでも、よ」ふわりとマリエンヌ殿は笑った。「貴女が使い続けてくれたから夫は立ち直れたの。偶然だとしても、貴女があの日あの場所であの銃を持っていてくれたから。だから今日、ぜひ御礼を言いたくて夫に招いてもらったのよ。本当に――ありがとう」
そう言ってマリエンヌ殿はグラスを握ったままの私の手を包み、心からの感謝を伝えてきた。別に私は意図してマンシュタイン殿を立ち直らせようとしたわけではないから正直、礼を言われても困る。だがまあ……嬉しくないわけがない。ありがたく頂いておくとしよう。
それに……きっとマンシュタイン殿が立ち直れたのは私よりマリエンヌ殿の献身のおかげだろう。でなければ、プレゼントを選ぶマンシュタイン殿の柔らかい微笑みも、帰りしなに笑顔で出迎える娘さんも、わざわざ私をその程度の理由で私を招こうというマリエンヌ殿のゆとりも生まれまい。こんなにも……家族愛に溢れた暖かい家庭は生まれることは無かっただろうさ。
(暖かい、家庭……家族……)
そんなもの、今の私には無かったな。気がついた時には孤児院にいたし、その後引き取られた場所じゃクソみたいな扱いで、とうてい人間とは扱われなかったしな。ただ、なんとなく
グラスに浮かんだ私の顔が揺れる。顔を上げてマンシュタイン殿を見れば、真っ赤な顔で未だニーナと議論を交わしていた。隣を見れば、マリエンヌ殿はそんな夫に優しい眼差しを向けている。
ここにあるのは、間違いなく素晴らしい愛だ。きっとこのご夫婦にとってこの場所は何にも代えがたい場所で、だからこそ――私という異物が混じり込んで良いわけがない。
左手をつい握り、ふとぬるりとした感触を覚えて手のひらを見れば、料理の赤いソースで汚れていた。瞬きすればそれが一瞬で赤い血に変わり、背筋が凍るような心地がして目を擦ればまた元のソースへと戻っていた。
(やはり――)
どうにもこんなキレイな場所はなじまない。グラスに残っていた高価な酒を一気に飲み干す。しかし先程まで感じていた香りはどこにもなくて、ただ善良な人間の血を飲み込んだ時のような苦々しい味わいだけが、喉の奥でいつまでも張り付いていたのだった。
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