3-2 豚の餌やりをする趣味は持っていませんから

「んん~? どこへ逃げたのだぁ? そう嫌がるフリをせずとも良いのだぞぉ?」


 たるみきった腹の肉を震わせ、酒で真っ赤になっただらしない顔を惜しげもなく晒してやって来たのはあの豚――カールハインツだった。クソが。さっきまでいい一日だと思ってたのに、一気に最低最悪の一日になりやがった。

 グラスを片手に、もう一方の手をいやらしくうねうねと動かしながら逃げた嬢を探しているようだったが、私の姿を見つけるとその口元がにぃっと気色悪く歪んだ。思わずその口めがけて術式を発射しそうになったが、必死に堪えた私を誰か褒めてほしい。


「んん~? なんだ、シェヴェロウスキー。ここは貴様のような子どもが来るような場所ではないのだぞぅ?」

「ですね。出直してきましょう」


 即座に回れ右をして豚の希望を叶えてやろうと思ったのだが、今度は豚の方が呼び止めてきた。


「まあ良い。いつもならば我輩の前から消え失せろ、と言うところなのだがな」

「はぁ、そうですか」

「喜ぶが良い。今日の我輩はすこぶる機嫌が良いのだ。特別に我輩のグラスに酌をすることを許してやろう」


 そう言って空っぽのグラスを私の目の前に突き出してきた。なるほど、自分で言っているようにさぞ気分が良いんだろう。だが答えなぞ決まってる。


「お断りします」


 即答してやると急に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしやがった。逆にどこにそんな驚く要素があったのか聞きたいわ。

 ポカンとした後、みるみるうちに機嫌が悪くなって、酒で赤らんでいた顔色が今やスチームポッドみたいに全体が赤くなっていた。


「貴様……何を言っているのか分かっているのか? この我輩が命令しているのだぞ?」

「ええ、十分存じていますとも。私もニーナもすでに職務から離れた身ですのでね。わざわざプライベートな時間に『豚』の餌やりをするような、クソみたいな趣味は持っていませんから」


 「豚」の部分を強調して鼻で笑ってやると、少し間が空いてカールハインツの顔が溶けた鉄みたいにまっかっかになった。なんだ、一応「豚」と自分を一致させられるだけの知能はあったんだな。


「貴様ぁぁッッッ! 我輩を侮辱したなッ!?」

「いえ、侮辱など。ああ、失礼。場もわきまえない行為で女性を傷つける輩と一緒にするとは豚に失礼でしたね」


 そう煽るともう言葉も出ないのか、豚は口をパクパクさせて持っていたグラスを床に叩きつけて割ると、いよいよ拳を振り上げ殴りかかってきた。

 これが職務中であればいつぞやのようにわざと殴られてカールハインツを気分良くさせるところだが、あいにく今はプライベートな時間なんでな。

 のろまな一撃を、体を半身にしてかわす。そのまま踏み込んできた奴の脚を蹴り払えばカールハインツは軍人とは思えない鈍重さであっさりと床に転がった。


「このっ……!?」


 おまけとして奴の股間ギリギリのところに貫通術式をお見舞いしてやる。青白く光る術式の刃を股間の手前におっ立ててやれば、さすがのカールハインツも一気に顔が青ざめていった。


「さあさあどうぞ。豚はとっとと豚舎へおかえりください」

「き、き、き、きさ、貴様……!」


 丁寧に私が出口の扉を開けてやったのだが、どうやらカールハインツは帰る気はないらしい。ヨロヨロとしながら立ち上がってなおも私と一戦やりあおうという雰囲気なのだが――


「お客様」

「なんっ……」


 マスターが声を掛けるとカールハインツはそっちに食って掛かるが、そこで店内を見回して黙り込んだ。

 店内の客の全員がコイツを睨んでいる。その歓迎していない空気にいまさら気づいたらしい。


「っ……ふん! このような低俗な店、我輩の方からお断りだッッ!」


 よくもまあこうも負け惜しみと分かりやすいセリフを吐けるもんだ。妙な感心をしながらドシドシと豚そのものの足音を立てて店を出ていくのを見送っていたが、その背中にマスターがもう一度声を掛けた。


「なんだっ!」

「代金をお願いします」

「っ……! 我輩はアスペルマイヤー伯爵家の人間であるッ! 金など後からいくらでも送りつけてやるわッ!」


 冷静なマスターにそう怒鳴りつけると、ドアを蹴破る勢いで出ていった。まったく、出ていく時まで騒がしいやつだ。


「……というか、もしかしなくても金も持たずに飲んでたのか?」


 まさか伯爵家だからとツケで飲むつもりだったのか。いくら貴族制が健在だからと言って、その権力なぞとっくに歴史の中に埋もれてしまっているのにアイツはいつまでそれに気づかずに生きてるんだか。


「お金……ちゃんと送られてくるんでしょうか?」

「無理でしょうね」


 ニーナが心配そうにつぶやくと、マスターはあっさりとそう口にした。


「我々の界隈では、飲み代を踏み倒すことで有名ですので」

「いいんですか?」

「というか、分かっててどうして店に入れたんだ?」

「所詮人の話ですので。自分で確かめるまでは話は鵜呑みにしないことにしてますから」


 最初から踏み倒されることは織り込み済みだったというわけか。結構長くこの店に通ってるが、相変わらず不思議な御人だな、この人間は。


「ああ、そのままで結構ですよ。私が拾いますので」

「いえいえ、お手伝いさせてください」


 振り向けば、ニーナが床に散らばったグラスの破片を拾い集めていた。ニーナがやらかしたわけじゃあるまいしそこまでしなくてもいいだろうとは思うが、なんとも人の良いことだ。


「では私はホウキを持ってきます。お怪我だけはされませんよう」

「あ、えっと、アーシェさんは別に良いですよ」

「バカ。この状況でボサッと突っ立っておけるか」


 はたから見たらとんだ意地悪じゃないか。私は気を利かせる人間じゃあないが空気は読めると自負しているんだ。

 そんなことを考えていると、気づけば他の客や嬢たちも目についた破片を拾い始めていた。私が知る限り、基本的に店内でトラブルがあっても大抵は我関せずで飲み続けてる奴ばかりなんだが……これもニーナの人徳が為せる業かね?


「しかしあの豚……」


 どんだけ思い切り叩きつけたんだか。グラスが粉々になったせいで、かなり目を凝らさなきゃ分からないじゃないか。


「……ん?」

「どうしました?」


 そうしてしゃがみこんで床に顔を近づけた時、酒の匂いに混じって何か別の匂いが鼻をくすぐった。

 それは物理的な匂いじゃあない。魂喰いソウルイーターである私にだけ分かる、人間の魂にこびりついた匂いが隠しきれずに漏れ出したものだ。

 血も肉も流れていない。それでも分かる、腐った魂の美味そう・・・・な匂い。刺激されて口の中に唾液が広がり、高揚を抑えるのさえ難しいほどに誘惑してくる。

 同時に、ここ最近ずっと頭の中にあった、こう、喉元まで出かかっているのに思い出せない事がやっと思い出せた。


――そうか、貴様だったか。


 なるほどなるほど。となれば貴様は最高だ、最高だよ。


「どうしました? そんなニヤニヤしちゃって?」

「ああ、いや、なんでもない。それよりも、ニーナ」

「はい?」

「仕事から引き剥がしておいてなんだが――明日から至急作ってもらいたいものがある」


 口元を歪めたまま振り向いてニーナにそう伝える。すると心底嬉しそうに顔を綻ばせて、元気よく「分っかりました!」と応じたのだった。






 ちなみに。


「……マジか」


 いつの間にかニーナがたらふく飲んだおかげで凄いことになった伝票を見て、私は立ち尽くした。

 そして誓った。二度とコイツにおごるのはやめよう、と。

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