3-4 忘れませんからっ!


「■■■■っ……!」


 妖精の奇声が耳をつんざく。冷たい、熱の無い飛沫が彼女の頬を濡らした。それが自身からの血飛沫だと彼女は思った。だが、痛みはいつまで経ってもやって来ず、頬に張り付いた飛沫の感触がまるで幻であったかのようにまたたく間に消えていく。何が起こったのか。彼女は妖精の方を見た。

 目の前で、妖精が貫かれていた。右のこめかみから左へ細長く白い閃光が貫通し、ニーナの眼前から弾き飛ばされ地面に叩きつけられる。紫の血を撒き散らして倒れ伏し、体をピクピクと震わせながらそれでも妖精は起き上がろうとしている。だが、その首元を小さなブーツが強かに踏みつけた。


「あ……」


 ニーナが見上げた先には、昼間に遭遇した少女の顔があった。成り行きながら、銀行強盗事件で一緒に戦った警備隊長であるアーシェだ。

 アーシェはニーナの方に顔を向けた。しかしそれも少しだけで、ニーナの視線を意に介する素振りもなく踏みつけた妖精の首を掴み持ち上げた。

 そして――その首元に喰らいついた。


「っ……!?」

「ああ、良い――素晴らしく美味だ」


 肉を引きちぎったアーシェの顔が恍惚に歪み、歓喜が言葉となってこぼれた。

 食いちぎられた妖精の断面からは紫の血が飛沫を上げ、ボタボタと垂れ落ちていく。消え失せるよりも早く流れ出した血が足元に溜まりを作っていく。妖精はもがき、悲鳴を上げ、だが圧倒的強者であるアーシェに掴まれた体は逃れる事ができないまま、程なく動くことを止めた。

 ニーナのことなど気にした風もなく、アーシェは高揚した瞳を浮かべて妖精を喰らっていった。夜の静かな街に咀嚼音が鳴る。骨が折れ、肉が引き裂かれる音が反響する。相手が神秘存在ミスティックであっても、流れる血がやがて消えていっても、生きたまま生物を喰らうというおぞましいはずの光景を、ニーナはまるで取り憑かれたように眺めていた。目を逸らせずにいた。

 自身よりも大きな生物の殆どを、アーシェはわずか数分で平らげてしまった。そして最後に残った手のひらサイズの核――妖精の心臓をつまみ上げ、上を向いた口元に持っていく。

 口の中に放り込み、いかにも美味そうに咀嚼する。飲み込んだ彼女の喉が震え、ほぅ、と吐息が漏れた。

 風が吹く。雲が流れる。ニーナから見てアーシェを挟んだ背後の夜空。そこに大きな、不思議な魅力を伴った月が姿を現した。

 満月に近い丸い月の光がアーシェを照らし、夜の闇の中にその幼い体を浮かび上がらせる。だというのに、ニーナが見上げたアーシェはひどく儚げで、輪郭がぼやけて見えて、まるでそのまま月に吸い込まれていきそうだった。顔にこびりついた妖精の血肉がほのかな光となって消えていく。その様子がいっそう彼女を幻想的に仕立て上げた。

 儚げなその横顔が挑戦的に歪む。金色に輝いていた大きな瞳がやがて本来の翡翠色へと戻っていき、見た目の年齢にそぐわない不敵な笑みがニーナに向けられた。


「……」


 アーシェの瞳とニーナの瞳が重なる。ニーナは未だ言葉を発せられずにいた。

 彼女の存在に魅入られていた。可愛らしい容姿に、それとまるきり異なる、年齢と経験を重ねた表情に、そして、瞳に宿る深い暗さに胸が苦しくなった。


(どうしたら――)


 そんなにも、悲しく、優しく、苦しい瞳になるのか。昼間の邂逅ではうかがい知れなかったアーシェ・シェヴェロウスキーという存在の美しさに見惚れ、内包するその昏さに囚われ、そして消えてしまいそうな彼女をなんとかせねばという理解できない使命感に駆られてニーナはアーシェへ手を伸ばそうとした。


「無事か?」

「……へ?」

「腕だ。義手が斬り飛ばされただろう?」


 誘蛾灯の様に誘い込まれていたニーナだったが、アーシェが声をかけたことで彼女は我に返った。自分の腕が弾き飛ばされたことを思い出し、這い寄って慌てて拾い上げると、千切れた部分を見て安堵した。


「大丈夫です。関節部分が曲がって外れただけですから。歪みを直せばまた元通り使えそうです」

「そうか。なら良かった」


 アーシェが小さく笑った。

 その笑みに、ニーナの記憶が刺激された。

 おぼろげな、かつての映像。不鮮明なそれが頭の中で巻き戻され、ある地点から再生される。

 それはかつて、ニーナが戦争で焼かれた村で助け出された時の記憶だ。周囲の森が、村が燃え盛り、そんな中で左腕を失ったニーナは誰かに抱えられていた。朦朧とする意識の中で微かに見える誰かの顔。熱に焼かれ、うっすらとした視界の中で、彼女を抱えていたその人は、ニーナを安心させるように微笑んでいた。

 まるで――


「――リベール、おい、ニーナ・トリベール。聞いてるか」


 アーシェから何度も呼びかけられ、ニーナはようやく記憶の海から戻ってきた。ハッと目をしばたたかせると慌てて背筋を伸ばした。


「は、はい! 聞いてます!」

「なら良い。費用は全額ウチで持つから修理の見積もりを私に回せ。いいな?」

「……良いんですか?」

「良いも何も巻き込んだ私のミスだからな。最低限それくらいはさせてもらう。すまなかったな。

 まったく……情けない限りだ」


 アーシェはため息をつきながらこめかみを押さえて頭を振った。そしてニーナに背を向けると、「では、な」と後ろ手を振ってアレクセイを従えながら去っていく。


「あ、あの!」

「なんだ?」

「さっきの……あの妖精たちはなんなんですかっ!? それに、妖精たちを、た、食べて――」


 アーシェがゆっくり振り返る。大きな瞳が細められ、睨むような眼差しになる。小さな体に似合わないその眼力にニーナは思わず仰け反った。


「貴様が知る必要はない」

「でもっ……!」

「それから、今夜のことは全て忘れろ。いいな?」


 そう言い残し、アーシェは再びニーナに背を向けた。ニーナは何も言えずにその背を見送り、しかし座ったままだった自分に気づいて立ち上がるとアーシェに向かって力いっぱい叫んだ。


「忘れませんからっ!」

「……なら口を封じないといけないな」


 面食らいながら、しかしアーシェはニーナを睨んで宣告する。

 それでもニーナは臆することなく叫んだ。


「でも……絶対口外しませんっ! 誰にも言いませんっ! だから……絶対に忘れませんからねっ!」


 ニーナにとって忘れることなどできようはずがない。ついさっき見た、アーシェの姿。美しく、そして儚い。まるで、気がつけば最初からいなかったかのようにある日唐突に消えてしまいそうだ。

 それこそ、今日のことを忘れてしまえば、もう二度と彼女と会うことはないんじゃないか。そう確信してしまう程に、今のニーナは間違いなくアーシェ・シェヴェロウスキーという存在に惹きつけられていた。

 想いをぶつけ、ニーナは息を切らした。白い息が暗い世界を微かに彩る。反抗された形のアーシェはニーナの顔をキョトンとして見上げていたが、やがて愉快そうに喉を鳴らし始めた。


「口外しないなら勝手にしろ」

「あ、ありがとうございますっ!!」

「忘れてしまった方が懸命だと思うがな」


 そう言い残して遠ざかっていくアーシェに向かって、ニーナは見えなくなるまで手を振った。やがて夜の中に彼女らの姿は溶け込み、全てが夢幻だったように静寂が戻ってきた。

 ニーナは心地よい満足感に浸りながら帰路に着いた。足取りは軽く、全身に打ち身や擦り傷の軽い痛みはあるがそれさえ今夜の出来事の証左に思えて心地よい。

 つい鼻歌を口ずさみながらアパートに帰り着いて、しかし彼女は今更気づいた。

 右手に持った左腕を見下ろす。精工に人間の形を模した金属のそれが、手の中でデロン、とうなだれていた。


「……明日の仕事、どうしよう」






Moving away――

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