恋わずらい
小鳥 薊
夜に、Uターン。
薄闇の遠くに彼を見つけ、走り出そうとした瞬間、信号機に捕まった。
それが、良かったのかもしれない。夕焼け色のジャケットを羽織った彼の姿を、今一度冷静に見つめることができたから――。
彼と出会ったのは三ヶ月前、飲屋街の地下鉄の構内でだった。
私はそのとき、彼氏とケンカ別れをしたところで、このまま家に帰りたくない気分で改札付近にしゃがみ込んでいた。
「よかったら一緒に行かない?」
男女五人のグループが声を掛けてきて、楽しそうな雰囲気に惹かれ付いていった。私とそう変わらない年頃の、二十代半ばくらいに見える子たちはそれぞれ下品でもなく派手すぎず、話すのにはちょうど良さそうだな、私はそう思った。
生バンドの演奏が聞ける洒落たバーで、会話を交わしながら楽しく飲んだ。聞くとどうやら演奏者に知り合いがいるらしい。そこで演奏していた曲を私は知らなかったが、とても印象に残った。
気楽に小一時間を過ごし、五人のうちのKという男の子と馬が合った私は、そのままKと一夜を共にした。
心地よい酔いの中、Kとするセックスは、今までの性体験の中で最も良かった。Kの触れ方はまるで私を知っているかのようで、どこを触れても私は反応してしまう。
セックスの最中、さっき聞いた曲がずっと頭で鳴っていた。そのロマンティックな旋律が私を完全に支配し、愛してもいないのに「好き」だなんてセリフが何度も出てしまう。Kのことは名前といくつかの趣味しか知らないのに。
さっきまで私は別の男と会っていたはずなのに、もうないことになっている。その後ろめたさで彼氏のことを許せそうだ、と、何度も揺さぶられながら思った。
目覚めると、Kの姿はなく、私は夢を見ていたような気分だった。あの快感の夢を、朝の私はまだ思い出すことができた。少し恥ずかしいが、とても良かった。あんなにいやらしい自分がいるなんて私自身知らなかった。
ケータイには私の知らぬ間にKの番号が追加されていた。けれども私はKに自分から連絡を取る気にはなれず、それきりKからも連絡はなかった。
彼氏とは一時的に仲直りはしたものの、どうしても同じようなことを繰り返してしまう。進歩のない二人だ。建設的な会話もない。セックスなんて悲惨だった。Kに優しく触られてしまった私は、彼氏の行為を暴力にしか思えなくなっていた。
Kとの夜を、私は完全に引き摺っているのだ――。
「助けて……」
連絡をすればいいのに、あの夜がなかったことになっていたらと思うと無理だった。気付くと私はKと初めて行ったあのバーに足を運んでいた。
その夜はたまたま、前に来たときと同じバンドが演奏していて、私はあの曲を再び聞くことになった。やっと忘れていかけていた旋律が前よりも濃く蘇ってくる。
「この曲は、なんていうタイトルなんですか?」
私が、ウェイターに尋ねると、彼は
「恋わずらい、という曲です」
と答えた。
それから何度かあのバーには行ったが、Kとばったり会うことはなかった。
Kのものと思われる連絡先は知っているのに、どうしても連絡できない。Kはどう思っているのだろう。私のことなんてもう忘れてしまっただろうか。
紅色の夕焼けが、喧騒と藍色の影に溶けていく。
その日私は、雑多な街の交差点で、遠くからこちらに歩いてくるKを偶然見かけた。Kはまだ私に気付いていない様子で、あの数ヶ月前と同様の雰囲気でたった一人で歩いていた。
私はKの恋人にでもなった気分で、高鳴る鼓動を感じながら彼を目指して走り出そうとしていた。しかし、信号に阻まれて立ち往生してしまった。
Kは夕焼け色のジャケットを羽織っている。
(あれから、どうして連絡をくれなかったの、)
信号はまだ変わらない。夕方の人出は多く、危うくKを見失いそうだった。
(今ここで話しかけたら、私たちは健全に始まるんだろうか)
私は、自分に問うてみてもわからなかった。自分がどうしたいのかもわからなかった。私は、彼に何を求めているのだろうか。また優しく抱いてもらいたい。その気持ちはないと言ったら嘘になる。そういう、かりそめの関係で満足なんだろうか。
反対に、彼は私に何かを求めていると思うのか――。
信号が変わった。
立ち止まっていた群衆が一気に歩き出す。私はまだKを見失ってはいなかったが、結局はUターンしてKと擦れ違うことから逃げた。
(夜が再び彼を連れてきてくれなければ、諦めよう。それがいい、)
少し駆け足で来た道を引き返す。叶うなら、あの夜まで引き返したい。
私の目頭は熱くなっており、仕舞いにはとうとう涙を堪えることができずに泣いていた。涙を隠すため、降ってもいないのに傘を差して帰った。人混みでバカなことをしたもんだ。
Kとはそれきりになっている。
あの彼氏とは結局別れて今は誰とも付き合っていないし、セックスもしていない。あのバーにはちょくちょく通っていて、今では常連になりつつある。「恋わずらい」はすっかり私のテーマソングとなった。
今夜もあの旋律を口ずさみながら一人家で飲んでいたら、着信が鳴った。
Kからだ。
「……もしもし」
「久しぶり、元気にしていた?」
元気にしていた、の言い方が、まんまのKだった。
空白の数ヶ月がなかったみたい。
Kの声を、聞いた瞬間に私の体が反応して、これは完全に患いだ。早くKの輪郭をなぞりたい。窓越しの赤い月を指で潰しながら、私は彼の次の言葉を待った。
恋わずらい 小鳥 薊 @k_azami
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