過ぎし日のブラウニー

まっく

過ぎし日のブラウニー

 太陽がてっぺんから下りへの第一歩を踏み出そうとする頃。僕は休日の日課である朝寝坊後の散歩に出る。

 地元に戻って来てからの生活は、まあ可もなく不可もなくといったところ。

 歩きながら、角砂糖を口に放り込む。ゆっくり口の中で溶かしていくと、脳に糖分が染み渡っていくのが分かる。

 いつも、小さな袋に角砂糖を数個入れて持ち歩き、家にも大量の角砂糖を常備しているので、僕は仕事仲間から『かくさん』のあだ名で呼ばれている。名前は丸山円まるやままどかと言うのだけれど。


 三十歳も過ぎて気を抜くと、どんどん体型が名前に近づいていってしまうので、せめてもの運動不足解消にと、休日の散歩を始めた。のんびりと歩いていると、普段利用している通りも違って見えるし、気づかなかった店や道を発見出来たりもする。

 そんな中で、ある日こんもりとした小さな森を見つけた。紫掛かった空気を纏い、入るのを拒むかのような森。

 その森を見た瞬間に、上京して間もない頃の記憶が甦った。どうして忘れてしまっていたのか不思議なくらいの記憶を。

 それからというもの、必ず角砂糖を携帯し、家にも常備しているのだ。



 地元の私立大学を出て、Uターンなんかしてなるものかと、東京で就職したはいいものの、給料が安い上に、奨学金の返済で生活はカツカツ。仕事も激務とくれば、体も心もガリガリにすり減ってしまう。

 唯一の楽しみは、近所の喫茶店で一番安いコーヒーを飲みながら、小説投稿サイトに駄文を垂れ流すくらいのもの。

 マスターは、そんな最低ランクの客の僕に対しても、とても良くしてくれて、たまに試作のケーキを出してくれたり、昔の話で小説のネタを提供してくれたりもした。


 休日、いつものように喫茶店に行くと、店に入るなり「在庫の角砂糖の袋が何かの拍子に破れていて、湿気ってしまったんだよ」と、マスターが話し掛けてきた。

 もうお客には出せないとのことだったので、日頃から食べる物にも事欠いていた僕は、困った時に少しでも空腹を凌げればと、その湿気った角砂糖を貰った。


 ビニール袋に入れてもらった角砂糖を手にアパートへと帰ると、部屋の前に幼稚園児くらいの小さな子供が立っていた。

 その容姿は、茶色い髪がボーボーで肩まで覆い、顔も半分以上隠れている。そこに茶色のボロ着を身に付けていて、男の子か女の子かも分からない。

 親がよっぽど茶色好きなのかもしれないが、その色合いもあって、見るからに汚らしかった。

 このアパートのどこかの部屋の子だろうと思い、無視をして自分の部屋に入ったが、少し時間が経つと、どうにもその子が気になって仕方ない。

 まさか、もういないだろうと、そっと玄関の扉を開けてみると、その子は、まだ同じように立ち尽くしていた。

 じっと僕を見上げるのだが、目を合わせようとすると、サッと逸らされてしまう。顔を近づけようとすると、ソッポを向くが、立ち去ろうとはしない。

 子供なら甘いものが好きだろうと、さっき持ち帰った角砂糖を持ってくる。湿気っていて心苦しいが、他にあげられる物は無い。一瞬興味がありそうな素振りを見せたので手渡そうとするが、足をモジモジするばかりで、一向に受け取ろうとしないのだ。

 仕方がないので、小皿に角砂糖を二つ乗せて、それを足元に置いてやり、扉を閉めた。

 しばらくして扉を開けると、子供の姿は消え、角砂糖も無くなっていた。


 数日後、夜遅く仕事から帰ってくると、またあの茶一色の子供が立っていた。

 前回と違って、さすがに時間も時間なので、親がどうなっているのか心配になる。ネグレクトというやつなのかもしれない。

 その子に近づくと、僕の顔を見上げるようにするが、やはり目を合わせようとすると避けられてしまう。


「お父さんかお母さんは、どうした?」


 そう聞いてみると、随分と間を空けた後、初めて口を開いた。


「あまあまのかくかく」


 声にならない声を絞り出すかのように言う。


 少しの間、意味が分からなかったが、両親の事ではなく、甘くて四角い、あの角砂糖が欲しいって事じゃないかと思った。


「あまあまのかくかく」


 さらに小さい声で、そう呟いたので、前と同じように角砂糖を二つ小皿に乗せて、足元に置いてやった。

 しばらくすると、子供も角砂糖も消えていた。



 休日、昼下がりの喫茶店。珍しく他のお客が一人もいなかったので、少し気になっていた事をマスターに聞いてみた。


「いつも来てた髭のおじいさん、最近見ないですね」


朽葉くちばさんだね。少し前に亡くなったんだよ」


 見た目は元気そうだったのに。年齢はかなりいっていると思っていたけど。


「代々この土地に住んでいて。あの小さい森は知ってる?」


 紫掛かった空気を纏っているように見えたので、僕が勝手に紫の森と読んでいる場所だ。アパートから数分の所にある。


「そこには、茶色い毛玉の神様が住んでいると昔から言い伝えられていてね。朽葉家は代々その神様をお守りしてる一族だったみたいだよ」


 マスターは寂しそうな目で語る。


「その神様は甘いものが大好きで、一族がずっと、森に甘いものを供えていたらしい」


 茶色い毛玉で甘いものが好きって、なんかあの子供みたいだけど。


「でも、もう後継ぎがいなくて、朽葉さんも、それだけが気掛かりだって、よく言っていたからね。今は誰もお供え物してないみたいだし、あの森もどうなっちゃうか分からないな」


 まさか、お供え物が無くなったから、甘いもの好きの神様が僕の部屋に角砂糖を?

 ただの言い伝えだし、一瞬でもそう考えた自分の精神状態は、かなりすり減っているのだと、この時は思った。


 それからも、アパートへ帰ると時々、茶一色の子供が立っていた。


「あまあまのかくかく」


 ただその一言だけを呟く。

 僕は、角砂糖を小皿に置いてやる。


 そんな事を繰り返すうちに、とうとう角砂糖が最後の一つになった。


「これが最後の一つだから、もう来てもあげられないよ」


 僕がそう言うと、茶一色の子供が微かに頷いたように見えた。

 少し気が引けたが、知らない子供にわざわざ買ってきてまで食べ物を与える義理はないし、相変わらず自分が食べるだけでも精一杯だった。



 それからしばらくして、転機が訪れた。

 良くしてくれていた上司が、独立して立ち上げた会社に誘ってくれたのだ。

 同じ激務でも、見返りがある分やりがいがあったし、会社も右肩上がりに成長していった。

 仕事に忙殺され、茶一色の子供の事などすっかり忘れてしまって、奨学金を返済し終わったのを期に、新しいマンションへと引っ越した。


 僕が茶一色の子供の事を思い出したのは、彼女が出来て初めてのバレンタインだった。

 一歳下で、サラサラの黒髪が綺麗な彼女は、チョコレート味の焼き菓子を手に家にやって来た。


「これブラウニーって言うの、クルミ入り。結構、自信作」


 彼女は、少し控え目の胸を張る。

 手作りブラウニーは、甘さ控えめで、中はしっとり。クルミがいいアクセントになっている。


「ブラウニーって、茶色いやつって意味なんだって」


「そのままだね」


「うん、そう。あと、イギリスかどこかの妖精からって説もあったような、なかったような?」


 ブラウニーは、全身茶色の巻き毛で、茶色いボロ着の妖精らしい。

 それで僕は茶一色の子供の事を思い出し、その時の話を彼女にした。


「それって、完全にブラウニーだよ。確か、甘いものが好きだったと思う」


「それ、日本にもいるの?」


「たぶん、遠い親戚だね」


 そんな話をしながら、二人で笑いあって、彼女が帰り支度をしていた時、彼女はふと思い出したよう言った。


「そういえば、ブラウニーって家を繁栄させてくれる妖精だけど、誰かに話してしまうと、とんでもないしっぺ返しがくるんじゃなかったかな」


 茶一色の子供に合ってから、転機が訪れて、今は不自由ない生活を出来ているけど。

 確かにこの話をしたのは今日が初めてだった。

 まさかとは思いつつも、言い知れぬ不安が胸の中に渦巻いていた。



 仕事も恋も充実し、何もかもが上手くいっていると思っていた矢先に、社長が突然失踪した。

 勢いのまま大きな投資に手を出し、大失敗をしてしまったのだ。会社は瞬く間に倒産。

 僕自身も、何をやっても上手くいかなくなり、彼女とも別れて、それでも東京でもがき続けていたが、それも限界を迎えた。


 父に頭を下げて就職先を世話してもらい、地元へとUターンする事となった。


 慣れない仕事にもようやく慣れ、心に少しの余裕が出来た時に、あの紫の森とよく似た森を見つけた。

 するとまたもや記憶からすっぽり抜け落ちていた茶一色の子供の事を思い出したのだ。


 東京では、辛い事が殆んどだったけど、仕事の楽しさを教えてもらったし、東京での経験が無ければ、今の穏やかな生活も悪くないと分からなかったと思う。

 それから、僕にとってのブラウニーにも出会えた。


 結局はUターンしてしまったけど、それは決して元に戻ったのではない。

 どちらの方向に向いていても、それは前に進んでいるという事だ。


 またいつ、あの茶一色の子供に出会ってもいいように、僕は角砂糖を切らさずにおく。

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