第18話 花祭り そのはじまり
宮中のそこかしこで花々がつぼみを膨らませ、急ぎ足のものはもう花を開いている。
朝から快晴に恵まれ、優月は太陽の光を浴びて伸びをした。まだ肌寒さは残るが、それももうすぐ終わるだろう。
「優月、衣装の最終確認をしましょう。こっちに来てくれる?」
「はい」
照に呼ばれ、部屋に戻った優月の前に、白と桃色を基調とした舞衣装が広げられていた。
「何度見ても、綺麗ですよね。……こんなに綺麗なもの、わたしが着ていいんですかね?」
「それ、昨日も言ってたわね。いいに決まってるでしょう。中宮様があなたのためにと作ってくださったんだから」
「それが恐れ多いんですよ」
優月は恐る恐る生地に触れ、その柔らかさに目を見張る。
この衣装は、中宮が注文したのではなく、自ら針と糸を持って縫い作り出したものだ。まさか十日以内に縫い終わるなんて思わなかった。
「わたしに縫わせてくれないかしら?」
そう中宮が口にした時、優月ははしたなくも「ええっ」と叫んでしまった。
聞けば中宮は、入内前から親の仕事が忙しく構ってもらえない寂しさを紛らわすために縫物をしている間に上達させ、今や大君の衣服の一部を請け負い作っているのだという。確かに、中宮はいつも針と糸で何かを繕っている印象がある。
時間だけはあるから。と言う中宮にお任せをして八日後、香耀殿に呼ばれた優月が目にしたのが、今目の前にある衣装である。
衣装の基礎は白拍子のものだ。水干に似た袖に白の単が組み合わされ、鮮やかな緋色の袴が目を引く。それらの境には桃色の生地が帯状に巻かれ、余った生地はそのまま流す。舞った時にふわりと風になびくように。
帯には留め具として若草色の珠がはめ込まれた飾りがつく。それが全体を引き締める。
そして、髪はポニーテールにした後、くるりと巻いて晴に貰った簪を挿す。こちらに来てから伸びた髪は、それでも腰の位置まで届く。
初めて簪を中宮に見せた時、彼女はしげしげとそれを見つめていた。
「簪というのね、この髪留めは見たことがなかったわ」
「皆さん、髪は下ろしていますもんね。わたしもここで目にするとは思いませんでした」
「ええ。長く美しい黒髪が美人である条件だから。皆、そこに何かを付けたり挿したりするなんて思いもよらないのでしょう」
きっと、舞台で京人たちが驚くわ。と中宮は楽しそうにころころ笑った。
中宮は大君に呼ばれ、今は席を外している。帰ってきたら舞姫姿を見せてね、と確約させられている。こんなにふわふわと女の子らしい色合いの衣装を、わたしは着ていいのだろうか、と何度も思う。
「花祭りは午の刻に始まるわ。それまでに一度はこれを着て一通り舞ってみなくては。舞の中で足を引っ張りそうなところは修正しなくてはね。衣装も、舞も」
「わかりました、照さん。えっと……着るの手伝ってもらえますか?」
「ええ、勿論よ」
照の手を借り、優月は衣装を身に着け、舞を確認するためにその場で舞った。その途中に戻って来た中宮は、頬を染めてにこにこと微笑んだ。
「よかった。……まるで、春を知らせる神の使いのようね」
その言葉を聞いて優月は顔を真っ赤にしたが、照をはじめとする女房たちに頷かれて追い打ちをかけられた。
同じ頃、晴は清涼殿で大君の傍に控えていた。
公達は朝早くから花祭りの宴の支度、そして神を迎え入れる準備に追われている。
同様に大君も、数日前から神を迎えるための潔斎を行っていた。
食べ物を制限し、清涼殿を出ず、宮の何処かにあるという身を清めるための泉に通う。少し痩せたように感じたのは、大君が精進料理しか食べていないからかもしれない。
「晴、こちらへ」
「はい」
少し声にも張りがない。しかしこの祭りが終われば潔斎からも解放されると聞いているから、晴は何も言わなかった。
「今日は花祭りだ。今日は公達以外の民もこの宮中に入ることが許されている。とは言っても、門から大広場までではある。それでも何があるかはわからない。近衛府の者たちにも言い含めてはいるが、晴も気を付けておいてくれ」
「かしこまりました」
清涼殿からは大広場の様子を見ることは出来ないが、近衛府の武士たちが持ち場へ急ぐ姿を目にすることは出来る。今朝、正治も晴にいつも以上の緊張感を持って臨めと促したくらいだ。
この国を統べるのは大君一人だが、それを快く思わない者はいる。人間、すべて同じ考え方になることはあり得ないから、それは当然だ。しかしそれを覆そうと極端な行動に出るものは、秩序を守る上で見逃すことは出来ないのだ。
今上の大君が立ってからも、何度か大君は外部からの侵入者によって命を狙われたことがある、と正治は言った。晴に、お前が一番近くで大君をお守りするように、と。
祭りが始まる午の刻まで、あまり時間はない。もうそろそろ、国父神宮から珠樹宮司と共に依り代の神鏡がやって来られる。
ぐっと体に緊張感を漂わせる晴をチラ見し、大君はくすりと笑った。
「……晴は、優月が気になるだろうが。あれから会いには行ったのか?」
「……は?」
「我が中宮が自ら衣装を作ったのだと誇らしげに話していたぞ。きっと、それは美しくなって現れるかもしれないな」
「……陽臣様!」
思わず想像してしまった晴が真っ赤な顔で叫ぶ。それを大君が指摘すると首まで赤くした。何度も深呼吸を繰り返し、冷静さを取り戻した晴は、ジト目で大君を見た。
「…………。そろそろ、お時間ですから。行きますよっ」
「からかいすぎたな。では、行こうか」
こちらと目を合わせることなく歩き出した晴に悪かったなと思いつつ、大君はその背中を追って清涼殿を出た。このまま晴以外の誰とも接触することなく、高御座に行くのである。
いつの間にか、大君陽臣と晴の間には、兄弟とも親友とも名を付けられる信頼関係が出来上がっている。大君は、晴を頼りにすると同時に弟のようにかわいがってもいた。実の弟を亡くしてから、初めてかもしれない。
大広場は、数えきれない人々であふれかえっている。朱雀門から大広場のある宮までの道筋には近衛府の武士が並び立ち、不審者が入り込まぬよう、観客が大広場以外に入り込まぬように目を光らせている。
そして大広場には幾つもの旗が風にはためき、美しい花々で彩られ、宮から提供される菓子に民たちが舌鼓を打っていた。
そんな光景を今朝設営された舞台の控えの間で見てしまった優月は、顔を青くした。現在、優月を含めた三人の舞姫が付き人一人と共にここに詰めている。
「こ、こんなに集まっちゃうんですか……?」
誰かへではなく自分に向けて呟いた優月の後ろで、彼女を小ばかにしたような少女の声が響いた。
「何、あなた怖気づいたっていうの? 子どもね」
「依子様のように、場慣れしておりませんので……」
青い顔の優月に勝気なセリフを吐いた依子は、そのまま自分にあてがわれた空間に引っ込んでしまう。集中力を高めているのかもしれない。
優月が部屋を見渡すと、もう一人の舞姫が目を閉じて精神統一をはかっていた。彼女は大学頭の次女だという。知的な印象は、彼女の衣装からの影響もある。浅葱色を基調とした衣装は、冷静で静謐な月夜を思わせる。
彼女の邪魔をしてはいけない。静かに脳内で舞を復習していた優月の耳に、照の言葉が流れて来た。
「優月、大君がお見えよ」
「え……ここに?」
「そう。舞姫の衣装は直前まで秘しておきたいとおっしゃって、あなたたちに挨拶をしたいのだそうよ。あ、ほら」
照に促されて顔を上げると、御簾の向こう側に大君が腰を下ろしたところだった。その傍にもう一つの人影を見て、優月は口元が緩んだ。向こうもこちらに気付いたのか、わずかに太刀を動かした。
「三人とも、今日はよろしく頼む」
楽しみにしている。穏やかな声が言う。依子も羽花も、緊張感と高揚感を表情に見せながら平伏した。優月もそれに倣い、深く頭を下げる。
それから三人を代表し、依子が高揚した声で大君に祭りの成功を約束した。
「はい。お任せくださいませ」
「頼もしい」
大君はそう言うと、音もなくその場を後にした。いなくなった途端、依子と羽花が緊張感から解放される。詰めていた息を吐き出すのを見ていてすぐにわかった。
表では高御座に座った大君が、中宮と共に祭りの進行を見守っていることだろう。
やがて依子が呼ばれ、神の前に立った。
人々が息をのむ。それほど、依子には人の目を引き付ける華がある。それに加えて紅を基調とした舞衣装は、雪景色に映える紅梅を想像させ、その美しさに拍車をかけた。
依子は一礼を国父神と大君に捧げると、扇を広げた。
笙や筝、横笛の音に合わせてしなやかな体を曲に乗せる。ゆっくりとした動作にもかかわらず、時に情熱的な彼女の舞は、見るものを圧倒した。
次に舞台に上がったのは、羽花である。彼女の舞は、また依子とは違う趣を持つ。
穏やかに川が流れるように、時に大海の白波のように。人々の心を包み込みように舞う。
二人の舞を控えの間から見、優月はその美しさに見惚れていた。
現代日本にいた時、これほど真面目に伝統行事を見ていただろうか。その世界に入り込もうとしていただろうか。つまらないものと決めつけてはいなかっただろうか。
優月は自分の番が近付いているのにもかかわらず、熱心に少女たちを見つめていた。
「……優月、あなたの番よ」
「……はい。どうしましょう、照さん」
「何が?」
「……口から何か出そう、です」
羽花の舞の奉納が終わり、照から出るよう促された優月はそう言って口元を押さえた。心臓が飛び出しそうなほど緊張している。あれほど前大君に負けないと啖呵を切ったのに。
「大丈夫。あなたはよくやったから」
照は優月の衣装を整えながら、微笑んだ。
「崩れ落ちそうになったら、簪を思い出すといいかもしれないわ」
「かんざしを?」
そっと頭につけた簪に触れる。柔らかな感触は、優月の心に温かく広がる。それを手渡してくれた青年の心と共に。
何度か深呼吸をして、優月は微笑んだ。大丈夫。舞い切れる。
「――はい」
「いってらっしゃい」
照に見送られ、優月は一人、舞台に立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます