第16話 確執の理由
武術の鍛錬に疲れ、この国の歴史書を読みながら寝落ちしてしまったらしい。
晴が気付くと、机の上に文が置かれていた。
「優月……?」
とりわけ色彩の美しい紙を使っているわけでもない、そして特別に香を焚きしめているわけでもない文。それが優月のものだ。
季節の香を焚きしめるのは、この世界の上流階級のたしなみらしいが、晴も優月もそれに慣れられず、お互いの文は上記の通り。
あかがねが音もなく置いて行ってくれたのだろう。宮廷女官である優月がここに来ることは簡単ではないだろうから。あかがねに叩き起こされなくてよかった。
前日に大君の傍で見た会議の精神的疲れも残る頭で、丁寧な筆の文字を追う。
「……お前、おれの心配してる場合なのかよ」
苦笑いして、そっと文箱にそれを収めた。
「晴、そろそろ行かなくていいのか?」
ふらりとやって来た正治が、部屋を覗いて首を傾げる。彼は午の刻までにやるべき仕事を終えたとかで、今日は早く帰宅している。
先程時を告げる鐘が鳴った。大君に呼ばれた時刻まで、あと一刻ほど。
「まずっ。ありがとうございます、正治さん。いってきます」
「ああ、気を付けて」
義父に見送られ、晴は真っ直ぐに宮中の清涼殿を目指した。
大君は一人、文机に向かって書き物をしていた。控えている者もおらず、何者かに襲われればひとたまりもないであろう状況。
「大君!?」
「やあ、晴。どうしたんだ、そんなに……」
「慌てますよ! なんで誰もおられないんですか? 近衛府の
晴が名を挙げたのは、晴が陰の任につく以前から大君の身の回りの警護をしていた者たちの名である。二人とも武術の心得があり、実戦経験もあるとか。平和ボケして生きてきた晴よりも余程頼りになる。
心底慌てふためきつつも真っ直ぐに相手の身を心配する。それがきみの好いところだと笑い、大君はふと窓にはめられた格子の先に見える景色を見つめた。春を先取りしすぎたのか、鴬に似た鳥が発声練習をしている。
「もうすぐ春が来る。来れば、花祭り。そして夏至が来るわけだな」
「……大君?」
手招きされ、晴は大君の隣に腰を下ろした。大君の手元にあったのは、一枚の文だ。ところどころ破れて、手垢で汚れてもいる。その傍に、真新しい紙と筆があった。書き物をしていたのではなく、しようとしていたらしい。
「どなたかからの文ですか? とても古いようですが」
「……昔、弟から貰ったものだ。返事を書く前に、逝ってしまったがね」
「……」
「ふふ。困らせてしまったか」
押し黙ってしまった晴に詫び、大君は「少し昔話につきあってくれ」と
わたしには、五つ離れた弟がいたんだ。名は
わたしは今と変わらず静かで、感情の起伏の少ない子だったから、当然子どもらしい弟が父上にも母上にも可愛がられた。まあ、わたしが第二妃の子だったということもあったのかもしれないな。弟が生まれてからは、宮の端で、父上や弟の楽しげな声を聞きながら書を読んだり刀を振ったりしていた。
それでも父上に男児は二人しかいなかったから、わたしも大君の子として恥ずかしくないようにと文武両方の勉学に励んだよ。五歳の子どもに出来ることは少なかったけれど。
いつか、父上に認められたくて。ごめんね、と泣く母上を笑顔にしたくて。
そうしていく中で、父上も少しこちらを気にかけてくださるようになった。次の大君となるのは輝臣だと決めていたんだろうが、長じてから兄弟で諍いがあってもいけないと思われたんだろう。時折、顔を見に来られた。
その度に、成果を披露したものだ。どこまで本気で喜んでくださっていたかはわからないが、笑みを浮かべてくださったのをよく覚えている。
輝臣は、そんなことも関係なくわたしに懐いてくれた。中宮様にはとめられただろうに、毎日のように遊びに来てくれたよ。
わたしも嬉しくて、泥だらけになって遊んで、共に歴史を学んで、草花の名を教えあった。
思えば、幸せだったんだろう。
そんな日々が、突然終わった。輝臣が五つになったばかりの、まだ寒いこの時期だ。
初めは風邪をこじらせたのだろうと誰もが思った。
父上は高名な僧侶を呼び、繰り返し読経をさせた。神官が呼ばれたこともある。祝詞をあげてもらい、悪い鬼をあの子の中から追い出そうとしたんだ。
勿論、
けれど、あの子の小さな体は日に日に弱っていった。
高熱に侵され、食も細くなり、うわ言を言うことすらもあった。
わたしはそんな弟を見ていられず、
これが効くのではないかと見つけてきた橘を、典薬寮の許しを得て食事に混ぜてもらったこともある。
父上も輝臣の母上も必死だった。
ある時、少し病状が好転したと知らされた。病が移るかもしれないと止められたが、わたしは一度だけ輝臣に会いに行った。父上にも母上にも内緒で。
あの子は力のない笑顔で迎えてくれたよ。『また、兄上と一緒に遊びたい』そう言った。
それから数日後、食欲が出てきて体を起こせるようになった。皆が喜んで、これで安心だと笑った。
――だが、さだめとは残酷だ。輝臣は、鴬が美しい歌声を聞かせてくれる前に亡くなった。朝、様子を見に行った近侍が気付いた。あの歌を再び共に聞こうと約束したのに。
父上も中宮様も悲しみ、悲しみ抜いた。そして、怒りの矛先はわたしに向いた。
『どうしてお前が生きている』とはよく言われた。当然だと、その時は謝ることしか出来なかった。
輝臣が亡くなって一年が経ち、わたしは元服をすることになった。その時、わたしは大君を継ぐことを意味する
その夜、かつて輝臣の乳兄弟であった子がわたしを訪ねて来た。彼は今、乳母であった母と共に地方で暮らしている。
その彼が手渡してくれたのが、この文だ。輝臣が亡くなる数日前、必死にしたためてくれたものだと言っていた。『元気になってご自分で渡すのだと言っておられました』と泣きながら。
文には、兄とやりたいことがたくさん書かれていた。
庭を走ること。話すこと。笑いあうこと。歴史や政を学ぶこと。菓子を食べること。書を読むこと。国中を歩くこと。他にもたくさんのことを。
そして最後に、こう書かれていた。
――あにうえ、またともにあそびましょう。
その部分に、たくさんの水滴が落ちた跡がある。兄である大君の涙の跡だ。
「何度も読み返して、どうしてあの子が生きているうちに返事が出来なかったんだと悔やんだよ。出来るわけはないんだ。あの子が、元気になったら渡してくれるつもりだったんだからな」
「……でも、わかっていても悔しいですよね」
「そうだな……。悪かったね、こんな話を聞かせてしまった」
「いえ」
大君の目が潤んでいたが、晴はそれを見ないふりをした。
幼い十歳の少年にとって、弟を喪うことはどれほどの衝撃だっただろうか。その経験のない晴には、想像することすらも難しい。寄り添うことしか出来ないが、寄り添うやり方もわからない。
大君は文を文箱に仕舞った。一瞬だけ見えたその箱の中には、何通もの古い文が収められていた。
「さて、こんな昔の話をしたのには訳があるんだ」
「はい」
晴は頷き、大君の次の言葉を待った。薄々、理由を感付いてはいたが。
「前大君である父上は、わたしを恨んでおられる。妬ましく、呪っておられるといっても過言ではない。どうして、輝臣が死んでお前が生きているのかと。大君になるのはあの子だったのに、と」
「未だに、ですか」
「ああ、未だにだ。あの方は、わたしに生きていてほしくないのだ。わたしが大君の位にあり続けるくらいなら、自分が再び即位すると。愛していた中宮様も、輝臣を亡くした二年後に亡くなった。それから、わたしは何度か食事に毒を盛られたし、外で弓矢に貫かれそうになった」
その度に、傍にいた近臣が気付いて事前に危険を遠ざけてくれたのだという。
「毒味役をした
大君の文机の端には、二枚の札が置かれていた。一枚一枚にその亡くなった二人の名が刻まれている。
「彼らの思いを無駄にしないためにも、わたしは生き抜かなければならぬ。例え、父上に命を狙われようとも。弟の代わりに死ねと蔑まれようとも。……わたしは、ずるいやつだ」
「え?」
「再び、他人を犠牲にしようとしている。晴という年下の男を」
「そんなこと……」
「ないとは言えまい。わたしの代わりに死ぬかもしれない陰を担わせた。……これがずるくないわけがなかろう」
自嘲気味に嗤い、大君はすまないな、と複雑な顔をした。
全て自分が悪いのだと、だけれど死ぬわけにはいかないと。己を責め、己を鼓舞する。相反する感情がそうさせているのだろう。
「……っ」
晴はたまらなくなり、拳を握り締めた。
「……陽臣」
「えっ?」
「おれはさっき、優月から文を受け取りました。そこには、こうありました」
曰く。優月も晴も、大納言に命を狙われるかもしれないと。大納言は前大君に心酔し、彼の意のままにならぬ者は消されると。それは、大君の味方である優月と晴も同じだと。……自分はまだ大丈夫だから、晴は己の身と大君を守ってほしいと。
「だから、あなた独りじゃありません。おれも優月も、程度は違えど、命を狙われるのです。――おれは、大切な人たちを守りたいから陰になろうと決めたんです」
だから、と晴は陽臣を真っ直ぐに見た。その瞳に映る陽臣は、目を見開いている。
体が熱い。その熱のまま、晴は不敬を覚悟で言い放った。
「変えましょう、共に。あなたが誰かに殺されるというのなら、そのさだめを変えてやるんだ。そして、いつか輝臣様に誇れるように」
こんな風に、兄は生き切ったのだと。
夢で出会った行斗は言った。さだめを変えろと。自分たちが背負うさだめが何なのかは、まだわからない。けれど、それはきっと独りでは出来ないことだ。
鴬が鳴いた。あの時聞こえた美しい声で。
輝臣の笑顔が見えた気がして、陽臣は瞬きした。何かが流れ落ちる。
「……ようやく、名で呼んでくれたな」
「え?」
「いや。……ありがとう」
梅が硬かったつぼみをほころばせ始めている。
春はもう、すぐ傍だ。
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