第13話 好敵手

 春の足音がどんどん近づいてくる。花祭りまでひと月を切った。

 香耀殿の庭先で扇を手に一通り舞い終わった優月は、舞の師でもある照の評価を待っていた。しばらく考えるそぶりを見せた後、照は広げていた扇をパチンと閉じた。

「うん、様になってるわ」

「本当ですか!」

「ええ。最初はどうかと思ったけれど、筋が良かったのね」

「よかったぁ」

「ふふ。安堵して座り込んだら汚れてしまうわよ、優月」

「あ、はい。ありがとうございます、中宮様」

「ええ」

 今は少し離れたところに別の女房が控えている。ここで中宮の名を口にしては、不敬だと大騒ぎになる。

 花祭りが近づくと、晴がすぐそばまで来ていることも同時に意味するため、宮中も市中も浮足立っているのが何となく感じられる。

 こういう時によからぬことを考える輩がいるからと、近衛府は警備を強化しているのだそうだ。この前、晴が優月への文で伝えてきた。正治や影頼も忙しくしているのだという。

 そういう俗世のことが夢ではと思えるほど、香耀殿は温かな日差しに照らされている。

 陰の儀式で傷ついた大君の体も癒え、夜になると中宮のもとへとやってくる。大抵は、何てことはない穏やかな会話を仲睦まじくしている。

 時折大君は優月も気にかけ、晴の様子も伝えてくれる。それが優月には嬉しかった。

 一休みをと誘われ、優月は簀の子に腰を下ろして白湯を手に取った。

「そういえば、依子よりこ殿も舞姫に選ばれそうだと聞いています」

「大納言様の姫様ですね」

「はい。幼き頃から舞の名手と騒がれた方です。前回の花祭りでも見事な舞を見せてくださいましたね」

 依子とは、大納言・有彰ありあきの娘で今年数えの十六になる少女だという。

 時々宮中に父親と共に来ているという彼女の容貌を聞き、優月は見覚えがあると思った。

 切れ長の目を持つ、豊かな黒髪の姫君。前大君に舞手を命じられて、それを大君が撤回させようとして失敗し、優月に謝罪されたその日だ。ぶつかった彼女は、確かに美人だった。豪華な衣装が似合いそうだ。

「あの人が、依子殿」

「優月は一度お会いしたの?」

「はい。正しくはぶつかって謝った方ですが」

「そう。……教養もあり美人で地位のある父を持つ方だけれど、少々気の強いお方だから、目を付けられないように気を付けてね」

「わかりました。たぶん、そのような身分のお姫様と宮中で出会うことはあまりないでしょうけど、気を付けますね」

 不安そうな中宮に、優月は笑顔で心配はいらないと答えた。それでも心配そうに頷いた中宮の理由を、後で照が教えてくれた。

「依子殿は、大君の中宮候補だったの」

「え……。でも今は」

「そう。千夜様が大君に見初められて中宮でおられるけれど、大納言のお父上の後押しもあったから。……あの方が中宮にならずにほっとしているわ」

「そんなに……な方なんですか?」

 嫌な方、変な方。そんな言い方をして良いのかわからず、優月は濁してそう尋ねた。しかし照は隠された意味をきちんと掬い取り、頷く。

「まあ、何度か宮中でお会いした印象だけだけれど。私が白拍子の出であると何処かで知ったようで、何度も見下した物言いをされたわ」

 曰く、あばずれ女。遊び。神聖な宮中が穢れる。大君のそばで仕えるにはあの女はふさわしくない、等々。

 なかなかの罵詈雑言に、いっそ優月は清々しくなった。けれども照はそうではなかったようで、らしくもなく拳を握り締めている。自分のことならまだしも、主である千夜まで貶められて相当に腹が立っていたのだろう。ここが照の房でなければ、通りすがりの誰かがぎょっとしたことはずだ。

 ふう。途中から依子に対する愚痴になってはいたが、一息ついた後に照はこう締めた。

「私が色々言ってしまったけれど、もしかしたら優月には別の面を見せるかもしれないわ。花祭りで共に舞をまうわけだしね」

「だといいんですけどね」

 優月は苦笑しか返せなかった。




 翌日。もう霜が降りることもなくなった。

 優月は自分の房を出て、暖を取るためにため込んでいた炭の一部を照に返却するために簀の子を歩いていた。

 現代日本ではエアコンのスイッチを入れてしばらく待てば暖かくなる環境だった。けれど、この平安時代に似た日本国にそんな技術はない。炭を火鉢に入れて暖まることができるなんて、優月は知らなかった。そういえば、昔祖父の家に使っていない火鉢が転がっていたような気がする。そんな程度だ。

(この冬で使い方は慣れたけど。慣れてしまえば、炭もいいよね)

 ただし、一酸化炭素中毒には要注意だ。

 そんなことを考えながらふと庭側を見ると、一人の女性が日の出を見つめていた。

 裸足で冷たくはないのだろうかと心配したが、彼女は寒そうな素振りがない。鮮やかな赤と蘇芳の紅梅襲こうばいかさねがよく似合う。

 声をかけるべきか。そう迷っていた時、不意に女性が扇を広げた。

「――え」

 扇を日に捧げるように上げ、表を返す。扇を持っていない左手をゆっくりと肩まで上げ、水平に伸ばす。そのままくるりと回り、扇を胸に抱くようにして、跪く。立ち上がると、片足を前に進め、体重を移動させて音もなく前に出る。彼女は舞っているのだ。

 その美しさに、優月は縫い留められた。己のものとは違う、優雅で華やかささえ感じ取れる舞。重さのあるはずの単が翻った気がした。

(あっ)

 舞の途中、横顔が優月の方を向いた。目を閉じて一心に舞ってはいるが、彼女は大納言の娘である依子だ。あれだけ話題に上った彼女。見間違えるはずはなかった。

「……きゃっ」

 舞い終わり、後ろを振り返った依子は、目を丸くした。誰もいないと思ったのに。そう唇が動いたが、後の祭りだ。

「ご、ごめんなさい。まさかここで舞を始められるなんて思わなかったので……」

 女官見習いと貴族の姫では身分に雲泥の差がある。咎められる前にと優月は一歩下がって頭を下げた。

「……いいわ。わたしも油断していたもの。そういえばあなた、中宮様のところの優月ね?」

「はい。……ご存知だったんですね」

「ええ。あなたが客人まれびとだということも、花祭りで競う相手だということもね」

 言葉が険を帯びる。優月が顔を上げれば、挑むような依子の瞳があった。

「私は、決して負けないわ。私はあの女を蹴落として中宮になる。そして、父上は再び権勢を思うがままにするのよ」

「! ……わたしは、勝つとか負けるとか関係ない。ただ、無心で舞うだけ」

「そう言っていられるのかしらね。あなたなんて、奇異な舞で京人みやこびとたちに笑われればいいわ」

「……」

「私は、負けない。何をしてでも」

 優月が言い返さないことをいいことに、依子は扇に隠した口元を笑みにゆがめて去っていった。

「……ふう」

 悪意を正面からぶつけられ、優月はため息をついた。けれど慌ててその分の空気を吸う。ため息は幸せを逃がすのだ。

「さて、早く照さんのところに行かなくちゃ」

 当初の目的を口に出すことで己を奮い立たせ、優月は簀の子を歩き出した。


「……どうしたの、優月。顔色が良くないわ」

「あ……、照さん」

 依子と会ったすぐ後に照の房に入った優月は、照に事の一部始終を話した。

「……よく頑張ったわね。私なら、その場で喧嘩してるわ」

 優月の話を聞き、開口一番で照はそう言って微笑んだ。

「よく耐えたわね」

「わたしも怒りはあったんですけど、それ以上にあの人の舞が美しくて、怒る気にはなりませんでした」

「確かに。昨年も見たけれど、あの方の舞は素晴らしいわ。そこは評価できる。けれどあの性格では、大君から愛されることはないでしょうね」

「……はは」

 優月は乾いた笑いを浮かべた。

 大君は感情に起伏の少ない人だ。たくさんの困難を内に秘めて毎日政務にあたっているのだろうが、その辛さを臣下を前に吐露することはない。そんな大君が唯一安らげる場所が、中宮千夜の隣なのである。それは、大君の傍にいる人物ならだれもが知っている。

 そこに、他人が入り込む隙はない。

 でも。照は優月から炭を受け取って微笑んだ。

「その強気な依子殿から、あなたは挑まれたわけね」

「あ~、そうなるんですよね」

「そうなるわね。……大丈夫、自分を信じてやればいいの」

 わたしも中宮様も、大君も。あなたを信じてるわ。

 照の言葉は、優月の中でふわりと広がった。

「はい。ありがとうございます」

「その笑み、忘れないでね」

 照が太鼓判を押したのは、強い意志を宿した少女の微笑みだった。




 もうすぐ春が来る。

 梅が舞い、桜が舞うこの世の何処かで。

 神の依り代を見つめ、男は嗤った。

 ――神よ。あなたが待つ者は、ここへやってきます。

 依り代が、ふるり、と震えた気がした。動くはずもない鏡が。



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