第7話 前大君

 冬の足音が微かに聞こえ始めた頃。

 清涼殿を始めとする宮中は、朝から慌ただしい空気に包まれていた。女房たちや女官たち、更には近衛府などもかり出され、あちらこちらで走り回っている。

 優月は先輩の後について動きながら、途中で出会った照に尋ねた。

「照さん、今日は何かあるんですか?」

「何かって……。柏木かしわぎ、あなた優月に伝えていなかったのですか?」

 柏木と呼ばれた優月の姉さん身分の女官は、そういえばと慌てて頭を下げた。

「も、申し訳ございません。伝えることを忘れておりました」

「……仕方ありません、朝から忙しかったですからね。優月、教えますからこちらへ」

「はい」

 素直に従い、優月は照の傍に寄って彼女の話に耳を傾けた。

「優月、前大君さきのおおきみであらせられる仁成ひとなり様がこちらへ様子見にこられるんですよ。今日ではなく、明日ですがね」

「さきの……ということは、前大君ぜんおおきみということですか?」

「そうよ。大君の実の父君です」

 普段、前大君である仁成は、清涼殿とは別の場所に住んでいるという。京郊外にある別邸だ。

「あの方が京の宮中までやって来られるのは、珍しいことよ。大抵、別邸でゆるりと過ごされ、趣味に生きておられた方だもの。……客人が二人も来たという話が、あの方のもとにも届いたのかしらね」

 現役時代、精力的に政治に関わっていたという前大君。今は落ち着いていたはずだと照は首をかしげた。

「……まあ、大納言様も関心を示しているようだから、気を付けてね」

「……はい」

 大納言だいなごん有彰ありあきは前大君の寵臣の一人で、優月も京人たちとの挨拶の際、頭を下げた中にいた。

 彼は前大君の正妃であった凪子なぎこの父親である。以前は仁成のもとで権勢を振るったが、現在その力はなりを潜めている。凪子が病で亡くなったためだ。彼は優月を品定めするようにじろじろと見てきたため、優月は苦手意識がある。

 苦笑いしながら首肯した優月に、照も同じような表情を返して身を翻した。

 最近、照の言葉遣いが軟化しているな、と優月は感じていた。それだけ自分との距離が近くなったということならば、とても嬉しい。


 翌日午後。この日は、朝から綿のような雪が空を彩っている。その白い花弁に先導され、前大君が清涼殿にやって来た。

 豪奢な模様の並んだ束帯そくたいを着て姿を見せた仁成は、その後ろに有彰を始めとした寵臣と女官を控えさせて大君の前に腰を下ろした。

 大君は御簾を上げ、普段は見せない素顔をさらした。現在の清涼殿には、彼ら最高身分の者たちの素顔を知る者しかいない。実の父である前大君にきちんと顔を見せて相対することが、大君にとって敬意を示すことなのだ。

「しばらくであったな、陽臣はるおみ。……否、大君よ。中宮も息災であったか」

「御無沙汰しております、父上。こちらに御自らお越しになるなど、久方振りでございますね」

「お越しいただき嬉しく思います、お義父上ちちうえ様。お蔭様にて、息災に過ごさせていただいております」

 前大君と現在の大君、中宮との会話。その中に潜む緊張感に、優月は身震いした。

 優月は控えの間にて待たされている。まだ大君と直接対面したことのない彼女は、大君や前大君と直接対面することはかなわない。照は中宮と共に大君の傍に控えている。

 対して晴は、大君のすぐ後ろの御簾の裏で控えていた。優月と同じく、晴もまだ前大君に会ったことはない。義父である正治が清涼殿の外側の警護にあたっている中、彼の傍には影頼がいる。

「……」

 目の前で行われている身分の高いもの同士の会話。晴はその緊迫感を肌で感じながら、大君に何かある前に飛び出せるよう、腰の太刀をいつでも抜けるよう密かに身構えていた。

 大君たちの会話内容は、多岐にわたる。地方の事柄から、京の中の市のことまで。茶を喫しながら和やかに見える語らいは、三十分ほど続いた。

「そういえば」

 パチン、と扇を閉じ、前大君が視線を息子に向けた。

「お主、新たに一人迎え入れたと聞いたぞ。中宮のもとにも」

「早耳でございますね、父上。左様です」

「噂には、二人はだとか」

「ええ。……興味がおありですか?」

「ふん。傍に控えさせているのだろう」

 大君は父に一礼し、音もなく立ち上がると、背後の御簾を上げさせた。そこに控えていた晴は、影頼と共に平伏する。

「お主が噂の客人か。名を何という?」

「晴、と申します」

 晴は平伏を解かずに名乗った。前大君に許可を得ずに顔を上げることは、不敬にあたると教えられたからだ。勿論、大君や中宮相手でも基本的な対応は変わらない。この二人の晴や優月への対応が異例なだけだ。

「はる、か」

「……」

「晴よ、朕にその顔を見せてみよ」

 そう言うが早いか、前大君は扇の先を晴の顎にあて、否応なしに顔を上げさせた。

「……。成る程な」

 晴の容貌を見て一瞬目を見張ったが、すぐに平常の表情に戻る。やはり前大君といえども、息子と同じ顔をした別人と顔を合わせるのは驚きがあるのだろう。それでも慌てることのないのは流石だ。

「父上、驚かれましたか」

「驚いた。お前と同じ顔ではないか。これもまた、噂だが、お前はこやつを陰にしたそうだな」

「はい」

 淡々と、しかしはっきりとした物言いで答える息子に、前大君はじろりと目を向けた。

「お前の命を狙う輩でもいると?」

「いない、とは限りますまい。いつの世であれ、権力とは奪い奪われ、渡し渡されるものでありますから」

「ふん。言うようになったな、陽臣」

「父上には負けます」

 前大君の嫌味をかわし、大君は柔らかく微笑んだ。自分の息子に軽くあしらわれて眉を潜めた前大君は、標的を中宮に変更した。

「ところで、お主のところにも新たに女官見習いとなった客人がいるそうだな」

「はい。彼女はよくやってくれています」

「会わせてはくれぬか?」

「……。前大君の命ならば」

 中宮はそれだけ言うと、控えの間に向かって「優月」と呼び掛けた。それに驚いたのは当の本人だ。

(え、呼ばれるの?!)

 呼ばれるのは大君の陰である晴のみだと思っていた。しかし、考えが甘かった。客人を見に来たのであれば、優月も呼ばれないはずがない。

 優月は急いで居ずまいを正し、照に促されて几帳の横から出て平伏した。

「おお、お主がもう一人の客人か。名は」

「……優月、でございます」

「その奇異な衣服も珍しいものよ。……そうか、女の客人か」

「父上……?」

「……」

 何かを考え込んでしまった前大君に、大君は声をかけるが、それに対する返答はない。

 ちらり、と前大君が控えている有彰を見やった。それに気付いた有彰は頷いてみせる。何か嫌な予感がすると小さく身震いした優月に、前大君は一つ命じた。

「そなた、春に行われる花祭りに舞い手として出よ」

「……え」

「異国、否、異世界から来た者の演舞とあれば、皆も心踊らせるであろうからな」

 拒否は認めない。そんな視線を肌で感じ、優月は「はい」と平伏するしかなかった。

「お待ちください、お義父上様。優月はこの国のしきたりも何も知りませぬ。彼女に舞い手をさせるのは……」

「中宮、朕に意見するのか?」

「……っ」

 威圧感十分の目で中宮を制すると、更に言い募ろうとした息子にも退席することで異論を認めない意志を示した。

「……優月、すまない。これからもう一度父上にかけあう」

「……っ。は、はい」

 晴にそっくりな顔を間近に見て、優月は息を詰めた。しかし何とか首肯すると、大君は自分の父親を追って清涼殿を出ていった。

 へたり、とその場に座り込んでしまった優月に、晴が駆け寄った。

「大丈夫か、優月」

「う、うん。なんとか?」

「……平気、そうではないな」

 晴は優月の手をつかみ、ぐっと力を入れて彼女を立たせる。ふらつきながらもなんとか自分の足で立った優月の顔は青かった。晴は優月の額に手のひらをあて、眉を潜めた。

「なんか、顔色悪いぞ」

「あ、ほんと? ……あはは。花祭りって聞いちゃったから」

「……花祭り?」

「うん。えっとね……」

「花祭りは、春の花を愛でる行事です。同時に、夏至の神事で舞う舞姫を選びます」

「……中宮様」

 答えにくくて詰まってしまった優月に代わり、中宮が晴の問いに答えた。その瞳は決意に固められている。

 晴は難しい顔のまま、中宮の目を見た。

「夏至の祭りとは……、この国で国父と呼ばれる神を称える祭りだと聞きましたが」

「そうです。そして、千年前の約束を守るため、巫女を神へ嫁がせる儀式でもあります」

「神に嫁がせる? そんな荒唐無稽な話が」

「あるのです。詳しくは正治殿に聞いてもらうのが良いけれど、今は簡単には話しておきましょう」

 そう前置きし、中宮は晴にも巫女の伝説を語って聞かせた。



「お待ちください、父上!」

 渡殿わたどのを歩く仁成の広い背に向かって、大君は呼び掛けた。

 普段声を荒げることのない青年の大きな声は、宮中に集う京人を始め、前大君に付き従う者たちをも驚かせた。勿論清涼殿周辺は位の低い、つまりは大君の顔を見たことのない京人は立ち入ることが憚られる。けれどその彼らが驚くほど、声が響いた。

「なんだ、大君」

 しかし実父である前大君は、そんな息子に驚く様子も見せずに振り返った。そんな彼に、大君は迫る。顔を近付け、声の高さを落とした。

「優月のことです。彼女は客人です。異界から来た者を我が国の神事に放り込むなど、彼女の気持ちを考えれば出てこない考えです。まして、巫女を選ぶ神事なのですよ」

「だからこそ、なのだよ」

「は……?」

「千年前、イクドという男が神に戦いを挑み、巫女を手に入れた。その子孫は歴史上から消えたとされているが、イクドと巫女のどちらかがこの日本国の者ではないという言い伝えもある」

 前大君は扇を広げた。

「……もし、優月とやらがその巫女の血を引いていたとしたら?」

「……」

 言葉を失う息子に、父は凄みのある笑顔を見せた。

「千年前の伝説を、現実として再び動かすことが出来るではないか。そしてその奇跡が起これば……」

「起これば……?」

「……輝臣てるおみが帰ってくるかもしれぬ」

「……っ。父上、輝臣は幼き頃に流行り病で」

「わかっておる。けれどな」

 前大君は、ぎろりと息子を顧みた。

「あの子が生きていれば、大君はあの子であったのだ」

「……父上」

 痛みをこらえた表情を見せる大君を再び見ることなく、前大君は有彰たちを従えて宮中を去っていった。

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