第5話 もうひとつの異界への招待

 晴が「日本国」にやって来たのは、優月より一ヶ月程早かった。

 あれは、まだ少し暑さの残る夕暮れ前。一人教室で受験勉強をしていた時のことだ。夏休み、教室は勉強をする生徒のために開放されていた。

「うーん……」

 ガシガシと頭をかいて、晴は両手を上に挙げて伸びをした。体を動かすことと数学などは得意分やだが、生物は何故か苦手なのだ。遺伝が特に。

 気付けば、日が傾いて教室に西日が射している。

「帰るかぁ。そろそろ先生に追い出されるな」

 そう独りごちて、トントンと教科書とノートを揃えた。鞄に持ち帰るべきものを全て入れ、肩にかける。

 その時だった。何かが、晴の名を呼んだ。

 か細いようでいて、力強い声。しかし、音はない。だから呼ばれたと思っただけなのか、と晴は自分を疑った。

 何故なら今、この教室には晴しかいない。彼が学校にやって来た昼頃には隣の教室に二、三人いたが、彼らはもう帰っている。先程、自動販売機に行った際に確認済みだ。

 首を傾げる。苦笑しながら、

「おれ、疲れてんのかな……」

 そう言ってみるが、呼び声は絶えない。

「おい、誰かいるのか?」

 大声で問いかけても、その問いに応える声はない。気味の悪いこと、この上ない。

「……悪戯? しゃあない、帰ろ……っ!?」

 窓の外に目を移した瞬間、晴は瞠目した。その目に映ったのは、大きな大きな太陽の姿。熱さえ感じられそうな程近い。けれど、熱くない。

 言葉を失いただ太陽を見つめていると、晴の目の前で太陽は影を帯び始めた。

 それは、日蝕だ。しかも部分的にではなく、完璧な日蝕。

 大きな陰は太陽を飲み込み、晴をも飲み込んだ。


 肌にざらりとした感触がある。自分は高校の教室を出ようとしたはずだ。

 晴は恐る恐る目を開け、自分が地面に寝そべっていることに気付いてぎょっとした。

「うそだろ? 夢……にしてはリアリティありすぎる、か」

 時は夜。電灯がなく、本物の暗闇だ。手を伸ばせば何か固いものに触れた。触り心地からして、木材の壁らしい。

 どうするのが正しいのだろう。このまま朝が来るのを待つか、何か行動を起こすか。

 夢であるなら、朝になれば覚めるだろう。であるならば、これが現実だとすれば……?

「……夢であってくれ」

 おれは受験生だ。しかも、まだ日本をきちんと知らない。それより何より、まだやれていないこともあるのだ。

 家族と離れ、友人たちと離れて……。何より……。

 ふ、と息を吐いて、晴は傍に落ちていた自分の学生鞄を引き寄せた。

 鞄を探ると、荷物は全てあった。一つ一つ手にとって確認する。月明かりしかないためほぼ見えないが、手触りを頼りにする。スマートフォンもあったが、何故か電源は入らなかった。

 どくどくと耳の中で血液の流れる音がする。こんなに響くのは、何故だろう。

「仕方ない。寒くはないから、回りがわかるようになるまで休むか」

 そう呟いて目を閉じた。その選択がこの世界では危険だということを、晴はまだ知らない。


「おい」

 間近で呼び掛ける声がする。若い男の声だ。

 晴は「んん?」と身じろぎをして、ゆっくりとまぶたを開いた。

「お前、何者だ? 近衛大将様の邸の前で何をしている?」

「このえの……たいしょう?」

 ぼおっとする頭で漢字変換を試みる。日本史や古文の授業で習った『近衛大将』だと理解した。

 その瞬間、やはりここは晴の知る日本ではないと突き付けられた気がした。そして、寝て目覚めても帰れなかったということも。そうではないかなと、悲観的に諦めていた自分もいた。

「……? おい」

 男が晴に顔を近付けてくる。観察してみれば、彼の服装も髪型も現代日本のものではない。狩衣という服だろうか。そして、烏帽子を被っている。

 男の太い眉がひそめられ、晴の腕を掴んだ。

「うわっ」

「怪しいやつ。こっちへ来い!」

「ちょっ……!?」

 有無を言わさず、男は晴をずるずると引きずって邸へと入っていった。

 ドスドスと高い足音を鳴らして廊下を歩いて行った先に、呆れ顔の男の姿があった。

「影頼、朝っぱらからどうしたんだ」

「正治様」

 カゲヨリ、とは晴を引きずっている男の名らしい。そして彼が頭を下げたのは、マサハルという影頼の主人なのだろう。

「この、得たいの知れない男が邸の前に倒れていたのです。声をかけたところ、何も喋らないのでこちらへ連れてきた次第です」

「男……。なんだ、まだ子どもではないか」

 正治は顎髭をたくわえた大男だ。顎どころか鼻の下もまあまあある。強面だか、笑うと変わる。破顔一笑だ。

「お主、名は? 私は正治。この日本国の京で近衛府の大将をしているんだ」

「……おれは、晴です。ここは、日本国というんですか?」

「ん? そうだが」

「おれがいた場所も、『日本』という名の国なんです。でも、ここはおれが知っている日本じゃない……」

 考え込んでしまった晴を見つめていた正治は、何か思い付いたのか、影頼を呼び寄せて耳打ちした。影頼は一瞬驚いたようだったが、すぐに頭を下げて何処かへと消える。

「晴、といったな?」

「え、あ……はい」

「たくさんのことを一気に伝えて、混乱させるだろうが、我慢してくれ。……きみはどうやら『客人』らしい」

「マレビト?」

 晴が頭をひねると、正治は頷いた。

「そう、客人。この日本国には大昔から伝わる伝説が幾つかあってな、その一つに客人に関するものがある」

 たしかここに。そう呟き、正治は近くにあった文机から巻物を一つ取った。崩し字で書かれた文字は、現代人の晴には読み辛い。

 正治は巻物を紐解いて、ある文章を指で示した。

「こうある。『まれびとは、日本国に災い迫る時現れ、国の助けとならん』とな。確かに今、この国は歴史的な危機に瀕している。それが影響しているのだろうな」

「ま、待ってください。おれにはそんな救世主みたいな力は……」

「ない、と言いたいのだろう? 私もきみにそんな特別な力があるとは思っていないよ。けれど、その力というのが、特殊なものとは限らない」

「正治様」

「ああ、影頼。持ってきてくれたか」

 正治が影頼から受け取ったのは、衣服一式だ。深緑の狩衣に烏帽子。晴にとっては教科書でしか見たことのないものだ。

「烏帽子は、宮中に参内する際に被り方を教えよう。ここでは烏帽子を被らないことは恥とされるが、きみは客人だからその範囲外だろう。まずはその服を脱いで、こちらに着替えなさい。……その服装では、目立ちすぎる」

「は……はい」

「晴くん、と言ったね。こちらに来なさい。着方を教えよう」

「頼んだよ、影頼。晴、終わったら影頼と共に戻ってきなさい」

 正治に見送られ、晴は影頼の後ろについて廊下を歩いた。着替えるために使えと通された部屋は、板敷きの、畳で言えば十畳程の広さがある。

「ほら。脱いだ衣はこの中に」

「はい。ありがとうございます……」

 行李のような箱を指差され、晴は大人しく制服をそれに仕舞った。白の半袖シャツと紺色のズボンという夏服であったため、かさは低い。その服をちらりと見た後、影頼はしげしげと晴の体つきを観察した。

 晴は元陸上部だ。受験を期に辞めてしまったが、体力作りに夏休みは朝早く走っている。だから、体は細いがしっかりしているのだ。

「な……何ですか?」

「いや……。きみは、何か武芸などはしていたのかい?」

「武芸? いえ、剣道を幼い時に少しやっていたくらいですかね。あとは、少し前までは陸上をしてました」

「りくじょう?」

「はい。決められた長さを走って、それにかかった時間を競うんです」

「成る程。……うん、これなら」

「……影頼さん?」

「なんでもない。それより、これに腕を通しなさい」

「はいっ」

 影頼の手伝いで、晴はなんとか狩衣を着ることが出来た。しかしこれを自分一人で明日からやれと言われたら、少し戸惑うかもしれない。

 そして、袖が長くて邪魔だ。これは慣れなのだろうけれど。

「正治様、戻りました」

「おお。……うん、これなら大丈夫」

 正治の太鼓判を貰い、晴は彼の前に座った。影頼は主の斜め後ろに控えている。

「時に晴、きみはここで行くところがあるのかな?」

「……ありません」

 晴は少し肩を落として応えた。ここは日本ではない異世界だ。同じ名前の国で、平安時代のような場所でも、やはり違う。知り合いや頼れる場所などあろうはずもない。

 だろうな。そう頷いた正治は、こう提案してきた。

「ならば、ここに居ないか?」

「…………は?」

「だから、この国にいる間だけでもいい。この邸を我が家と思って住まないかと聞いている」

「お……」

「うん」

「思ってもいなくて、驚いています」

 喉につかえた言葉を一つずつ取り出すように、晴は声を絞り出した。その一つ一つを、正治は辛抱強く待つ。

「でも」

「……」

「嬉しいです。何処から来たかもわからない、こんな奴の世話を焼いてくださろうとなさるんですから」

「よかった。……私も嬉しいよ。私には子供がいなくてね、ずっと、欲しいと思っていたんだ」

「そう、なんですね」

「重い話をしてしまったね。……きみとは、初めて会った気がしない。何故だろうね」

 微笑んで、正治は晴を彼の部屋となる場所へと案内した。



 おれも、あなたと初めて会った気はしないです。

 晴は心の中で呟いた。

 何故なら、物心ついた頃から何度となく、同じ夢を見ていたからだ。

 ――日本に似た別の何処かで、正治や影頼と出会うところから始まる夢を。

 そしてもう一つ。誰かのいつかの記憶の夢を。

 だから、いつか自分が異界へ行くのだろうということは、何となくわかっていた。

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