第3話 新しい日々のはじまり

 大君にお目通り叶った翌日。優月は自分のものとしてあてがわれたぼうで目を覚ました。肩を回すと、変な音がした。

「……体、痛いかも」

 たった一日前まで現代日本で生活していた優月にとって、京での生活は新鮮味に溢れすぎていた。隣の房にいる照に寝所の整え方から教わり、ようやく眠りにつけたのだ。

 とはいえ、最初は眠れなかった。この世界にいる限りは大学受験を気にしなくていいという安心感はあるが、向こうの世界に置いてきてしまった家族や友達がどうしているのか気になる。自分があの時消えて、向こうではどんな認識なのだろう。神隠しや迷宮入り確実の誘拐事件として扱われるのか。

「お母さんとお父さんに泣かれたらやだなぁ……」

 うちきを体にかけ、身じろぎをして呟いた。下に妹がいるが、彼女も心配してくれているだろうか。

 そんなことをつらつらと考えている間に、優月は眠りの世界に誘われていた。

 夢を見た。過去の出来事がそのまま夢になっていた。

 夢の中では日本の高校生で、放課後に友達とくだらないことで笑っていた。

 ふと、自分の後ろの席が空いていることに違和感を覚えた。友達に聞いても「そこには誰もいないよ」と言うばかり。

 けれど、優月の記憶が違うのだとうるさいほどに言うのだ。そこには、いたのだと。

「……あの席、誰のなんだろ」

 房の外に出て朝日を浴びながら、優月はそう呟いた。

 京の朝は、小鳥のさえずりを隠しもしない。ただ静かな日の光を地上に広げている。


 中宮付きの女房たち、そして大君に近い京人みやこびとたちとの挨拶を終え、優月は庭に面した廊下に腰を下ろしていた。

 中宮と照に気疲れしただろうからと一人になることを薦められたのだ。優月にとっても有難い申し出だった。

「はぁ……。学校とはまた違うけど、新しいところに入ることって緊張するな」

 さわさわと風に揺れる木々をぼおっと見ながら、優月の脳内に小学生時代の記憶がよみがえる。あの時のクラスメートの興味本位の姿勢と、知らない者を受け入れるか算段する視線が、先程出会った京人たちのものと酷似していた。

 あまり良い思いをしてこなかった思い出が、優月をより疲弊させた。

「……でも」

 一人だけ、優月の気持ちに寄り添ってくれたクラスメートがいた。……はずなのだが、その子は何という名前だっただろうか。

(あの夢の人と同一人物……?)

 首を捻れど、答えは出ない。どうして忘れているのかもわからない。うーんと考え込んでいた優月は、自分の前に立った人影に気付かなかった。

「おい」

「……」

「おい、優月」

「うわっ!」

 びくんと肩を跳ねさせて、優月は顔を上げた。そこにいたのは、腰に手を当てた牛飼い童である。肩まである髪を紐で一つに結んで垂らしている。背丈は、一四〇センチくらいだろうか。昨日中宮の牛車を引いていた少年は、優月を真っ直ぐ見つめて口を開いた。

「中宮様は?」

「え……あ、自室におられるよ?」

「わかった」

「あ、待って」

「なんだよ?」

 去ろうとする牛飼い童を引き留め、胡乱げな視線をひしひしと感じつつも、優月は身を乗り出した。

「きみの名前、教えて欲しい」

「名前?」

「そう。呼べないでしょ? 」

「……ふっ。そんなことを言ったのは、中宮様とあんたくらいのもんだ」

 首をかしげる優月に対し、牛飼い童は少し唇の端を上げた。

「おれは

「あかがね」

「そうだ。優月、よろしくな」

 手を差し出され、優月は笑顔でその手を取った。

 あかがねの名の通り、彼の瞳には赤銅色が混ざり込んでいる。それは、秋の紅葉をより鮮やかに魅せる夕暮れに似ていた。

「あかがねは、中宮に何か用事が?」

「頼まれ事をしていたからな。それが終わったから報告に来たんだ」

「そうなんだ」

 もう少しあかがねと話をしたかったが、報告があってここに来たのであれば仕方がない。優月は大人しく彼を見送ろうとした。

 しかし、あかがねはぴたりと動きを止め、首だけ優月の方へと向けた。

「……お前にも関係ある」

「ん?」

「一緒に来いよ」

 そう言うが早いか、あかがねは優月の腕をとって引いた。それだけで背中から倒れそうになり、慌てて足を踏ん張り自分で立つ。

「ちょ……、あなた幾つ?」

「……十二」

「小六? にしては力強すぎでしょ!」

「しょうろく? 何訳わかんないこと言ってんだ? 置いてくぞ」

「あ、待ってよ」

 すたすたと廊下を歩いていくあかがねを追い、優月は慣れない袴で懸命に歩いた。


 御簾越しに中宮と対面し、あかがねは平伏した。

「中宮様。あかがね、戻りました」

「おかえりなさい、あかがね。……近衛大将の邸を見てきてくれたのよね? どうだった?」

「はい」

「え……? 近衛大将の邸を見てきたって、あの噂を確認しに行かせたんですか?」

 驚く優月に、あかがねは頷いた。

「そうだ。……中宮様の夢で見たのは、二人の客人まれびとだったから」

「……マレビト?」

「客人は、異世界から来た人のことを指す」

 簡潔に説明し、あかがねは再び中宮に向き直った。

「それで、あの邸に仕える仲間に話を聞いてきました。彼の話によれば、近衛大将である正治まさはる殿が一月程前に青年を拾ったのだそうです」

 仲間はその青年の歳を十代後半だと判断した。正治の邸前で倒れていたという青年は、京に自分がいる状態に戸惑い、混乱している様子だった、と。

「正治殿は、彼を養子として招き入れました。側近の影頼かげより殿に命じて、刀剣のすべを教え込んでいるとか。筋がよいのでしょう」

 あかがねの淡々とした口調の言葉を聞きながら、何故か優月は心臓が大きく音をたてていることに気づいた。

 何で、わたしはこんなに緊張しているんだろう。何を期待しているんだろう。

 無意識に両手で胸をおさえる。動悸は収まらない。

 優月の様子をちらりと見たあかがねだったが、あえてそれを指摘することはなかった。

 中宮が少し身を乗り出した、ガタリという音がした。

「その彼は、名を何というのです? 何処から来た方なのですか?」

「中宮様」

 照の中宮を叱咤する声が聞こえた。彼女は中宮の傍に控えているのだろう。照に叱られ、中宮がしぶしぶ御簾の傍から離れたのが衣擦れの音でわかった。

 その様子が直接見なくても想像できてしまい、優月は肩を震わせて笑いたいのをこらえた。見ればあかがねも口許を押さえている。

 笑いの波を落ち着かせ、あかがねは平静を装って中宮の問いに答えた。

「……。彼の名ははる。優月と同じ、別の世界から来た客人でした」

「……はる」

 優月はまだ見ぬ人の名を復唱した。何処かで聞いた名。そう思った。優月の中で、何かが震える。しかし、何かはわからない。

「優月、たぶん宮中で会える機会はあるぞ」

「え、ほんと?」

「正治殿は、晴を宮仕えさせたいそうだからな。その時、疑問は氷解するんじゃないか?」

「……心読んでる?」

「さあな」

 とぼけて話を終わらせたあかがねは、興味津々でこちらを見ているであろう己の主に向かって頭を下げた。

「ここまでが、おれが集めてきた報告です。……少しはご期待に添えたでしょうか?」

「十分です。ありがとう」

 また頼みます。中宮にそう言われ、あかがねは笑顔で一礼した。

 あかがねが退出し、優月もその場を立とうとした。それを引き留めたのは中宮だった。

「待って、優月。もう少し、ここにいてちょうだい」

「優月、気分はどうですか?」

 主より先に御簾を出た照が優月に近付き、彼女の頬を両手で挟み込んだ。美女に見つめられ、優月は恥ずかしくなって目を泳がせる。

「だ、大丈夫です。風にあたって落ち着きました」

「なら、良いのです。昨日から慣れないことの連続でしょうから、気疲れしているのではと思っただけですので」

「照はやはり優しいわ。そのツンとした態度を改めれば、より多くの殿方からお誘いがあるでしょうに……」

「……。中宮様?」

「あら、失礼」

 いつの間にか御簾を出て照の傍にいた中宮は、照の背後に黒い気配を感じて扇を口許にあてた。コロコロと笑うその様子に邪気はない。

 照もそれに慣れているのか、一つ息を吐いて「全く」と呟くだけだ。

「私は一度外します。優月、中宮様のお相手を頼みます」

「はい」

 さらさらと衣擦れの音をたて、照は退出した。彼女を見送り、優月はちらりと目の前にいる中宮を見やった。

「? どうしましたか、優月」

「いえ……。ただ、こんな美少女がこの世にいるんだな、と」

「そんなに誉めてくれても、何も出ないわよ?」

 冗談と受け取られた。本気なんだけどなぁ、と呟く優月に微笑みかけ、中宮はぱちりと扇を閉じた。

「優月は、あかがねの話を聞いてどう思った?」

 中宮は、優月と二人きりで話す際、時々言葉が砕ける。少し距離が近付いたように思え、優月はそれが嬉しかった。

「晴、という方は、もしかしたら優月と同じ世界から来たのかもしれないわよ」

「ふふ。だといいんですけど。……でも」

「ん?」

「いえ、なんでもないです」

 その名を持つ人を知っている気がする。そんな不確実な話を今する必要はないだろう。優月自身にさえわからない、記憶違いかもしれないのだから。


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