第2話 京という場所

 牛車の中は、正直狭い。そして道に落ちている石に乗り上げて揺れる。中宮の隣に優月が座り、向かい側に照がいる。

 中宮のお目付け役であり世話役であるという照は、二十八歳の女房にょうぼうだ。

 この世界でも、女房は貴族の身の回りの世話をしたり、宮中で働いていたりする女性のことを言うらしい。

 照は少しきつめの容貌をしているが、美女と言って差し支えない容姿の持ち主だ。長く美しい黒髪が流れ、きっと世の男性は大概振り向くだろう。

 中宮と照の話によれば、二人は京郊外の神社に参拝しに行った帰りだという。

 混乱がようやく落ち着き、優月は二人の会話を大人しく聞いていた。深呼吸というものは、偉大だ。

 優月の全身を見ていた照は、息を吐き出した。

「中宮様がお許しになられたのでここでは良いですが、きっと宮中に戻れば何を言われるか」

「心配はないわ。大君には夢の話はしているし、異世界からのお客様は丁重に扱えというのがこの世の習わしでしょう?」

「……その異世界からのお客様、という者にわたくしは初めてお会いしましたけどね」

「……あの」

 縮こまっているだけでは何の情報も得られない。優月は意を決して二人の会話に割り込んだ。

「まずは、拾っていただきありがとうございます。……わたしは、お二人がおっしゃるように、多分、ここではない別の場所から来ました。だから、ここのことを全く知らないのです。教えていただけませんか?」

「ああ、そうでしたね」

 気付かなくてごめんなさい。そう謝罪し、中宮は優月を手招いて牛車の小窓を開けた。

 そこからは、先程いた場所よりもたくさんの人が見えた。屋敷も立派なものが多い。ここは宮中に近い大路おおじなのだと中宮は言った。

「まず、ここはみやこ日本国にほんこくを統べる大君おおきみの住まう場所ですわ。わたくしは大君にお仕えする中宮ちゅうぐうです」

「……え、ってことは、大君の正妃?!」

 優月が驚き声を上げると、牛が驚いたのか牛車が大きく揺れた。外から牛飼い童の牛をなだめすかす声が聞こえる。優月は申し訳なくなって頭を下げた。少し声のトーンを下げて。

「ご、ごめんなさい。何度も……」

「驚かせてしまったようね。そんなに畏まらないで」

「中宮様。異世界に来て初めて出会った人が国の主の妃では、誰でも驚きますよ」

 呆れ顔の照に微笑み、中宮は優月の手に自分のそれを重ねた。

「貴女のように異世界と呼ばれる場所から来る方は、初めてではありません。……ここ何百年かはいなかったようですが、書物も残っていますから、事実でしょう」

「確か最近、近衛大将このえのたいしょうの邸に身元のわからない者が引き取られたと聞きましたが……。噂の域を出ませんけれどね」

「その方のことは、また調べてみましょう。とにかく、この国では、別の世界から来た方を大切ににします。客人はこの国を安寧に導いて下さるという伝説があるくらいです。ですから、わたくしは貴女を歓迎しますよ、優月」

「あ、ありがとうございます」

 この世界も日本という。その事実が優月の気持ちを少し軽くした。

 それから少しこの世界の常識などを教わっていると、いつの間にか牛車は宮中に入り、優月は中宮の自室へ通された。


 少し部屋で待たされた優月の前に、腰に手を当てた照が姿を見せた。腕には何枚かの衣服がかけられている。

「まずは着替えませんと。その珍妙な衣のままでは奇異に見られるだけですわ」

 衣装は完全な十二単ではなかった。桔梗の襲を主とした3枚の単と、袴が手渡される。

「中宮様が、貴女に似合うだろうと選んでくださいました。手伝いますから着てみてください」

「はい。ありがとうございます」

 優月はもともと着ていた高校の制服を畳み、単に袖を通す。そして袴を身につけた。

 髪は染めずに黒いままで腰まであるとはいえ、照や中宮ほど長くはない。少しちくはぐな感じはしたが、「こんなものでしょう」と照は頷いた。

 そして優月が脱いだ制服を手に取り、不思議そうに眺める。

「こんな衣、見たこともありません。袴……ではありませんが、こちらは短くて。貴女を見た時には、なんて恥ずかしい格好をしているのかと目を覆いたくなりましたわ……」

「わたしの世界では普通だったもので……」

「わかっていますわ。世界が違えば常識も違う。この京と外ですら違いますもの。当然です」

 だから、と照は優月の袴の裾を手に取った。

「貴女にはとても動きにくいものだと思います。最初、皆に慣れてもらうまでは辛抱してください。そのあとであれば、手を加えることもやぶさかではありません」

「……ありがとうございます」

 照は宮中で顔を知られた後であれば、衣に手を加える、つまりは短くするなどしても良いと言う。歩く練習をし始めてすぐにつんのめった優月に対する慰めの言葉だったのだろうが、優月には嬉しい言葉だった。

 着替え終わり、優月は中宮の前に畏まった。牛車の前ではあれほど近くにいた中宮は、今は御簾の向こう側だ。本来、臣下と中宮の距離とはこれくらいのものであろう。

 しかし、声の伝え方は同じだった。中宮は直接優月に話しかける。

「優月、よく似合っていますわ」

「中宮様、ありがとうございます」

 平伏したまま、優月は礼を言う。

 次いで中宮は、優月を自分の傍に仕える女官としたいと言った。

「え、そんな。恐れおお……」

「貴女には、この世界で身寄りはないでしょう? 幸いわたくしは中宮の立場にありますが、傍付きは照だけです。他にも女房はおりますが。幼い頃より一緒にいた照は別なのです。しかし、だからと言って寂しくないわけではありません」

 中宮は御簾を上げ、するりと優月の前に姿を現した。

「聞けば、貴女はわたくしと同い年。友として、傍付きとして。この世界にいる間だけで構いません。共にいては下さいませんか?」

「中宮様……」

 中宮の必死さは、瞳を見ただけでも明らかだった。優月の学生としての知識でも、中宮など入内した女性は幼い頃から傍にいた人々と別れて宮中に来なければならないと知っている。それがどんなに寂しく辛いことでもあるかは、親の仕事の都合で何度か転校を繰り返した優月にもわかった。

「わかりました」

 優月は中宮の手を取り、微笑んだ。

 自分が何故ここに来たのか、その理由すらわからない。けれど、この世界で初めて友達になりたい、なってほしいと言われた喜びは、嘘ではない。であるならば、自分がやるべきことを見つけるまでだけでも、彼女を支えたいと思った。

「ありがとう。……そうだ、大君にも紹介しなくては。今はお忙しいけれど、夜にはこちらに様子を見に来てくださるから、文で貴女のことを先に報告しておくわ」

「えっ。大君がこちらに……?」

「そうは言っても、もう夕刻ですわ、中宮様」

 慌てる優月をよそに、照は冷静な突っ込みを入れた。


 さらさらと衣擦れの音がかすかに聞こえる。

 しとねに座り訪れを待っていた中宮は、ぱっと顔を上げた。

 そこに立っていたのは、爽やかだがきりっとした顔つきの青年。この国の大君である。

「大君……」

「中宮、いつも待たせてしまいすまないな」

「いいえ。大君がいつもお忙しくしていることは、よく存じておりますもの」

 茵を譲ろうとした中宮の手を止めさせ、大君は彼女のすぐ傍に腰を下ろした。

「ところで中宮、先程文を貰ったが……?」

「ええ。あなた様に会わせたい方がおられますの。……優月」

「は、はいっ」

 大君と中宮の仲の良さにあてられていた優月は、自分の名を呼ばれて文字通りに飛び上がった。急いで御簾の前に伏せる。

「彼女が、文でお伝えした優月です。彼女はこことは異なる世界から来ました。身寄りもありませんのでわたくしの友人として、女官としてここに居てもらおうと思っております」

「……」

「ゆ、優月です。右も左もわからないですが、精一杯勤めさせていただきます」

 一言も発しない大君に不審に思われまいと、優月は早口にそう言い切った。

 それでも無言の時間は続く。優月の背中に冷たいものが流れ落ちた。中宮も大君に何か言わなければと身じろぎをする。

 十ほど数を数えた時だった。

 御簾の向こう側から男の息を吐く気配がした。

「……ちんは、中宮を放っておいてしまうことが多い」

「大君……?」

「だから、寂しい思いをさせる。その心の穴を、きみと照とで埋めてやってほしい。朕からも頼みたい」

「お……大君」

 中宮の震える声が、御簾の外側にも届く。後ろに控える照の肩も震える。

 優月は、精一杯の気持ちを込めて、より深く頭を下げた。

「はい、必ず」

「その言葉を聞いて安心した。……どうか、千夜ちやを頼む。優月、照」

 その言葉を最後に、大君は部下に呼ばれて仕事に戻ってしまった。

 静まった部屋で、御簾の内側からすすり泣きが聞こえる。優月が恐る恐る御簾を上げると、中宮は声を殺し、両手を顔に当てていた。

「中宮様。大君は、本当にお優しい方なんですね。とても、あなたを大切に思っておられるんですね」

「……っ、ええ。本当に、お優しいのです」

 優月は中宮の肩を抱き、震える彼女を支えようとした。いつの間にか傍には照がおり、二人を見守っている。

 中宮が落ち着くまで傍にいた優月は、彼女から傍を離れる間際に耳打ちされた。

「わたくしと照としかいない時、わたくしのことは千夜と呼んでください」

「ちや……?」

「千の夜が続こうと、明るく照らす光であってほしい。亡き母上がつけてくれた、わたくしの名です」

 そう言ってはにかむ中宮の顔は、暖かな優しさで濡れていた。


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