陰と陽の物語

長月そら葉

第1話 異界への招待

「ねえ、あそこ。誰かいなかったっけ?」

「何言ってんの? あの席は前から誰もいないよ?」

「…そっか、だよね」

 あの日、気付いていたはずなのに。わたしはその違和感を放置していた。

 その時にはもう、わたしは大切だったものを失っていたんだ。



 高校3年生の秋。大体の学生は大学受験という恐ろしい魔物と戦うための準備に追われている。里田優月さとだゆづきもその一人。

 優月は一人で塾で勉強し、気が付けば時計の針は午後十時を回ろうとしていた。そろそろ見回りの先生に帰るよう言い渡される時間帯だ。

 数学のテキストとノート、それに筆記用具を素早くまとめ、鞄に放り込む。明日も学校はあるのだから、授業中に眠りこけないように睡眠を取らなくては。

「うわぁ……。そっか、今日は中秋の名月なんだ」

 塾を出て闇夜に映える月を見上げ、優月は息を吐いた。

 秋は深まり、夜は冷える。当たり前のことを再確認して、優月は帰路を急いだ。

 塾は最寄り駅前にあり、そこから自宅までは歩いて十分程。ぽつぽつとある電灯の下を歩き、十字路に差し掛かった。

「……え?」

 後ろを振り返るが、誰もいない。誰かが自分の名を呼んだ気がしたのに。

 気のせいかと思い、また前へ進もうとする。けれどそれ以上行くなと言うかのように、声のない声は優月を呼んだ。

「ねぇ、誰? そこにいるの?」

 呼べど応えぬ気配。優月は気味の悪さを抑え込み、もう一度後ろを振り返った。

 だか、何もない。

 何度か呼びかけ、足を進めかけては止まる。その繰り返し。

 もうどうでもいいかと諦め、空を仰いだ時、優月の目は大きく開かれた。

「何……、月が、大き……」

 今までに見たこともないくらい大きく、そして美しい光を放つ月がそこにあった。

 呆然と満月を見詰めた優月は、その輝きに目を奪われ、気を失った。


 ざわざわと、人の声が幾つも聞こえる。時々その会話の中に聞き馴染みのない単語が混じるのは気のせいだろうか。

「……この娘は?」

「突然現れたぞ」

「も、物の怪か……?」

 頬に土の感触がある。鼻が土のにおいをとらえる。優月はうっすらと目を開き、次いで何度も瞬きを繰り返した。

「……は?」

 身を起こし、地べたに座り込む。先程まで立っていたはずのコンクリートの地面ではない。土がむき出しの舗装されていない、ならされただけの道だ。

 見渡しても、土壁や草で作られた柵が見えはすれど、見知った電灯や石の塀はない。加えて彼女を取り囲んでいる人々の服装も、よく知る洋服ではない。まるで、教科書やドラマに出てきた平安時代の着物である。水干すいかん狩衣かりぎぬひとえなどと呼ばれる服装だったと記憶している。僧衣の人も何人か見えた。

(え? これは……夢? わたし、地面に突っ伏して夢まで見てるの?)

 内心の混乱をなんとか押し留め、優月はごくりと喉を鳴らして「あの……」と野次馬の一人に声をかけた。

「ひいっ……! え、得たいの知れん物の怪が!」

「え、ちょっと!」

 優月の制止も聞かず、男のその叫びを皮切りに、人々はばらばらといなくなった。

 ぽつんと独り残された優月。頭の中ははてなマークでいっぱいだった。

(ここは何処? 日本じゃないの? まるで、タイムスリップしたみたい……)

 そこまで考えて、ぶんぶんと首を振る。そんな非現実的なことがそうそうあってはたまらない。きっとこれは夢なんだ。

 そう思うことにしても、何故、が頭を席巻する。優月は一つ深呼吸した。ひとまず、現状を確認することから始める。

 幸い、道を歩く人々は優月を気味悪がっているのか一定の距離を取って通り過ぎて行く。優月は鞄を肩にかけて道の端に寄り、土壁を背にして座り込んだ。

「まず、今は昼だ。わたしは夜の道を歩いていたんだから、時間が違うよね。そして、コンクリートは無さげ、か。……駄目だ。こんなこと考えてる意味もわかんなくなってきた」

 時間帯も人々の様子も、町の様子も違う。信じられないことだが、ここが少なくとも現代日本でないことだけは確かなようだ。

「はぁ。これからどうしたらいい? 夢とはいえ、覚めないと……」

「あの、どうなさったのですか?」

 ため息をついた優月の上に影が射す。次いで聞こえた鈴の音のような声に、優月はぱっと顔を上げた。

 そこにあったのは、美しい赤色の牛車。牛飼い童が牛を引き、こちらを不思議そうに眺めている。けれど声の主は彼ではない。声は、牛車の中からだ。

中宮ちゅうぐう様、あなた様が直接声をかけては……」

「いいではないですか、てる。見たこともない着物を着た女の子よ? 気にかけない方がおかしいわ」

「あっ、中宮様!」

 ぴょんっと牛車を飛び降りたのは、見目麗しい美少女。幾つも重ねた単が翻り、重さを感じさせない。年の頃は十代半ばだろうか。

 長く広がる黒髪が土埃で汚れるのを厭わず、「中宮」と呼ばれた少女は優月の前に膝をついた。

「あなた、どなた?」

「えっと……」

「わたくしは、中宮と呼ばれております」

「……ゆ、優月です」

 少女の勢いに圧され、優月はなんとか名乗った。中宮は「優月、ね」と名前を覚え込むように呟くと、優月の手を引いて立たせた。こちらを真っ直ぐに見つめてくる瞳は、意味として成立しないようだが光をたたえた黒だと感じた。

「先程の様子、見ておりました。行く宛はあるのですか?」

「……いえ」

 首を左右に振る優月に、中宮はよいことを思い付いたという顔で牛車を振り返った。

「照、この子をここに置いて行ってしまえば、夜盗などに襲われかねないわ。連れて帰ってはいけないかしら」

「ち……中宮様、何を仰っているのですか? 神聖な場である宮中に、何処の馬の骨とも知れぬ娘を入れると?」

 身を乗り出して反論しそうな場面だが、照と呼ばれた女性は姿を見せない。けれど、声だけで相当焦っていることだけはわかった。

 中宮は反論されることをわかっていたのか、くすりと微笑する。戸惑う優月の手を握り、「だって」と呟いた。

「この子、夢に出てきた不思議な客人にそっくりよ。きっと、異世界からのお客様だわ」

「……承知、致しました」

 不承不承といった諦めの混じる照の声に満足したのか、中宮は花のような笑顔で急展開についていけずに座り込んだの優月を見下ろした。

「照も良いと言ってくれたわ。さあ、優月。牛車に乗ってくださいな」

「え、ええっ!?」

 手を引かれ、優月は牛車の中に放り込まれた。

 そして牛車の中で、優月はこれが夢ではないことを実感する。壁に頭をぶつけ、痛かったのだ。少し擦れていたのか、腕にも血がにじんでいる。

「う……嘘でしょぉぉぉ!?」

「モオオッ」

 優月の叫びに反応し、牛が鳴き声を上げる。

 夢だと思うことで落ち着いていた優月の心が乱れ、再び落ち着くまでには十分程の時間を要した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る