淡緑芽ぐむ季節に

望戸

淡緑芽ぐむ季節に

 盃が二つ、古い板張りの床に直接置かれている。

 古い白磁だ。だが、ひびも欠けもなく、凛とした雰囲気を纏う酒器である。

 そこに、女は一升瓶から直接酒を注いだ。瓶の首を片手でつかみ、豪快な注ぎ方ではあるが、不思議なことに一滴もこぼさない。

 二つの盃に酒が満ちる。女はそのうちの一つを取り上げ、隣に座る男へぐいと差し出した。

「とりあえず飲め。神酒だ」

 差し出された盃を受け取り、男はしみじみとその水面を眺める。

「これ、去年俺が自分で買ってきた酒だろ。御神酒って言われても、いまいち有り難みがなあ」

われが手ずから酌をしてやったのだから、有り難いに決まっているだろうよ。年に一度の祭りの酒、いいから黙って飲み干せ」

 自らも盃を手に取り、女は有無を言わせぬ口調である。苦笑して、男は盃に口をつけた。神酒が口内へ流れ落ち、男の喉仏が動くのを、女はじっと見ている。確かにその液体が飲み込まれるのを確認すると、ほっとしたように、自分の盃を一息で乾した。

 二人がいるのは、寂れた小さな社である。結界のようにそびえる苔むした鳥居。参道から賽銭箱を経て、祭殿の正面にはほんの数段だが階段が設けられている。段を登ると、ここだけゆったりとした縁側のような板間があり、重々しい扉と色褪せた垂れ幕の向こうにやっと祭殿がある。

 その板間、言うなれば社の上がり框みたいなところに、男と女は並んで座している。祭り、と言う割に、他の参拝客の姿は見えず、幟も飾られていない。今ここにいるのは、男と女だけだ。

 空になった盃から口を離して、男がぼやく。

「しばらく禁酒してたから、もう酔いそうだ。何かつまめる物は無いか?」

「生憎、こんな山深いところに供物を運んでくる物好きはぬしくらいしかおらぬのよ」

 そうかい、と答えた男の盃に、女はまた酒を注ぐ。

「ほんとうに、物好きなことだよ。……主が初めてここへ来たときもそうだった」

「懐かしいな。家出したら道に迷ってなあ」


 もう何十年も前の話である。麓にある家を飛び出したはいいものの、幼い身空に行く宛もなく、彼は山の中に迷い込んだのだ。だんだん暗くなる山道を何時間もさまよった挙げ句、この社にたどり着いた。今とそう変わらぬ寂れようではあったが、ひとまず屋根と床のある場所に出られたことに、彼はひどく安堵した。

 あいにく賽銭の類は持っていなかったので、小さく柏手を打って非礼を詫びる。そっと運動靴を脱いで階段を登り、朽ちかけた引き戸をそうっと開けて、祭殿の垂れ幕の中へ彼は入っていく。明かりもない建物の中は薄暗く、黴臭い空気が充満している。

『久しぶりの客かと思って出てくれば、最近の泥棒は随分と幼いものよの』

 突然の声に、彼は身をすくめる。子どものようにも、お婆さんのようにも聞こえる、とらえどころのない声だ。大声を出しているわけでもないのに、はっきりと耳に届く。祭殿の奥、見通せないような暗闇の中から、その声は発せられているようだった。

『泥棒じゃ、ありません』

 勇気を振り絞って答えると、声はかかっと笑った。

『泥棒かと聞かれて、はいそうですと答える奴はおらんのう』

『でも、本当に違うんです。道に迷ったから、ちょっと休ませてもらおうと思って』

『道に迷った?』

 驚いたような声のあと、なにか残念そうな、しかし柔らかい嘆息が彼の耳に届く。

『まあ、それもそうか。こんな社に盗むものなどあるはずもなかろうからなあ』

 返事に困って黙っていると、声はまた笑う。

『ここの参道を出てずっと真っ直ぐ進めば、麓へ続く道に出るよ。まあ、しばらく休んでいくといい。疑うようなことを言って、悪かったな』

『ありがとう、ございます』

 少しほっとして、彼は声の主に問う。

『あの、……あなたは、ここの神様ですか?』

『そう呼ばれることもあるな』

 かかっと笑って、それっきり声は聞こえなくなった。

 しばらく休んで体力を回復してから、彼は教わったとおりにまっすぐ参道の向こうへ歩いた。少し行くと、いつの間にか見知った道に出ていることに気づく。数時間の家出はつつがなく終了し、彼がげんこつをもらうことですべてが終いとなった。

 翌日、まだ日の高いうちに、彼は再び山へ入った。昨日降りてきた道を思い出しながら慎重に山道を行く。すると、確かに社はそこにあった。こんなところにこんなものがあるなんて、今までちっとも知らなかった。

 ドアベルのように鈴を鳴らして大きく柏手を打つ。祭殿の中はしんと静まり返って、誰のいそうな気配もない。

『あの、神様。昨日はありがとうございました。ちゃんと家に帰れたから、お礼を言いに来ました。あと、お賽銭も。でも、お小遣いがなかったから、かわりに僕のおやつを持ってきました。ドロップなんだけど、イチゴ味はもう食べちゃったので、ごめんなさい』

 言いながら、尻ポケットに入れていたドロップの缶を取り出す。扉の前に置いておけば、神様もきっと気づくだろう。

 目を開けると、同い年くらいの女の子が、じっと彼の顔を覗き込んでいた。知らない子だ。鼻と鼻の間は十センチもない。

 わっ、と思わず声を上げた彼に、女の子は言う。

『ドロップひと缶は、一人で食べるには多すぎるぞえ』

 聞いた事のないはずの声だが、なぜか聞き覚えがある。

『……じゃあ、一緒に食べる?』

 神様は、にっと笑った。


「吾も随分とここにいるが、ドロップの賽銭は流石に初めてだったのう」

「そのドロップを買って、ちょうど小遣いが底をついていたんだよ」

 懐かしそうに男は目を細める。

「一人だと多すぎるなんて言ってたのに、結局ほとんど君が食べたよな」

「美味であったよ。思いのこもった供物であったからな」

 女は悪びれもせずに盃を傾ける。空になった盃に、今度は男が酒を注ぐ。

「供物っていうのかな、あれは」

「神に捧げるのだから供物であろ。駄菓子だのアイスだの、信心深い氏子をもって吾は幸せ者よの」

「アイスを溶けないように持ってくるのは大変だったなあ」

 自分の盃にも酒を注いで、男は笑う。

「最初に教えてもらった最短経路があったから、なんとか持ってこれたんだよな。あの道案内は本当に助かったよ」

「吾は旅立ちと芽吹の神であるからな。迷い子の道案内くらいお手の物よ」

「芽吹の神の春祭り、か」

 男は境内を眺める。暖かくなり始めた陽光の下、社を覆い隠すように茂る木々は、みな柔らかな新緑に彩られている。

「この酒も、去年の春祭りのときに買ってきたんだっけな」

 幼子が少年になり、青年になっても、男は時間を見つけては社を訪れた。就職のため麓の町を出ても、新たに生活を持った都会で家庭を築いてからも、それは変わらなかった。

 年を追うごとに、男が社へ来られる回数は減っていった。だが、春の祭りの日にだけは、必ず顔を出すのが暗黙の約束であった。奇しくもそれは、男が初めてこの社へ迷い込んだ日でもあった。

 去年の春祭りの日も、菓子の代わりに一升瓶を二つ携えて男はやってきた。二人は他愛もない話をし、別れた。酒の一本はその時に飲み干して、もう一本は、次に来たときに飲もう、と約束をして。

 そよ風が二人の間をそっと通り抜けていく。

「今だから言うけどさ。僕、結構な間、君が神様だってことを信じてなかったんだよね。いつ会っても同じくらいの年齢に見えたから」

 ふふん、と得意げな顔をする女。

「神の身ともなれば、見た目の年齢を操作することくらいたやすいものよ」

「でも、わざわざ僕に合わせた姿を取ってくれてたんだろう?」

 図星をつかれて、女はぐっと盃を煽った。空になった盃に、手酌でなみなみと酒を注ぐ。

「……主と話すのは、楽しかったからな」

「うん、僕も楽しかった。これも今だから言うけど、君は僕の初恋なんだ」

「神に懸想するとは、とんだ氏子じゃのう」

 のんきに盃を傾ける男の横で、女は呆れたように嘆息した。

「……吾も主が好きだよ。なんといっても、たったひとりの客人だからの」


 のどかな空気に包まれ、境内はまるで時の止まったような平和に満ちている。

 いつの間にか一升瓶は空になっていた。最後のひとくちを飲み干して、男は名残惜しそうに盃の底を眺めた。

「去年、もう一本買っておくべきだったな」

「本当にな」

 男は立ち上がると、丸めていた背中をうんと伸ばした。

「じゃあ、そろそろ行くよ」

「ああ」

 女は言葉少なに、男を見上げる。

「今年も祭りの日にここに来れて、嬉しかったよ」

「ああ。吾も嬉しかった」

「二人で祝う最後の祭りだってのに、なんの手土産もなくてすまなかったな」

 男の言葉に、女はかぶりを振った。

「……いや。主に会えただけで、吾にとっては最高の祭りだったよ」

「そうか」

 男は穏やかに微笑む。

「それじゃあ」

 賽銭箱の前で、男は姿勢を正した。一礼して、大きな柏手。顔を上げて笑顔を見せると、そのまま振り返らずに、参道を歩き出す。

 こらえきれないように女は立ち上がった。去りゆく男の背中に、彼女は祝の詞を叫ぶ。

「旅立ちの神が、主を見送ろう。吾の盃を受けし愛し子よ。主の旅路から穢れを払い、その歩みを言祝ごう……!」

 片手を上げる男の姿が、一歩進むたびに老いていく。さっきまでは青年のような姿をしていたのに、壮年になり、白髪が混じり、皮膚が乾燥し、腰が曲がる。

 参道の終点、かつて幼子だった男は、鳥居の向こうに足を踏み出す。そのつま先が光の粒となって、見る間に空へ舞い上がる。鳥居をくぐり抜ける指先が、額が、腕が、輝く粒子に解けていく。

 そして、あとには何も残らなかった。

 声もなく、女は盃に残った酒を流し込んだ。春の日はもうすぐに、黄昏時である。

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淡緑芽ぐむ季節に 望戸 @seamoon15

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