夏夜祭り
小早敷 彰良
1夜
俺はどこだ、ここは誰だ?
一番初めに考えたのは、あべこべの感想だった。
満月は祭りの会場を美しく照らし、何もかも売っているような屋台の群れが、俺の両隣に並んでいる。
立ち尽くす俺の横を、笑顔の人々がすり抜けていく。
聞いたこともない軽やかな音楽が、笑い声や喋り声を邪魔しないほどに流れている。
自分の名前も忘れているというのに、こんなに素敵な場所、俺は生きているあいだ一度も来たことがない、ということは確信が持てる。
我ながら、悲惨な状況だ。
ここにいるのは、誰だ?
俺は、今どこにいる?
俺は困惑のまま、よろける。
記憶が蘇るとき、頭痛がする表現というのはよく見るけれど、記憶がなくなる場合はどうなのか。
血の気が引くような、耳鳴りが絶えず鳴るというのが、正解らしい。
俺はその衝撃を、身をもって経験していた。
思わず、声をあげかける。
次の瞬間、細く白い腕が、よろける俺を支えた。
俺の口からはついに、悲鳴がこぼれてしまった。
「あっ、ごめんなさいアナタ。」
傷ついたように、その女は手をひっこめた。
「こちらこそ、驚いてしまって、すみません。」
謝りながら、俺は再び驚きに目を見張っていた。
その女は絶世の美女だった。
年齢は若い。十代に見える幼さの残る顔立ちだが、体型は作り物のような完璧さを保っている。
黒髪は長く複雑な編み込みがされており、丹念に手入れしたのだろう、と一目でわかった。
あれだけ完成度の高い造形をしているんだ、手入れをするのはさぞ楽しかろう。
俺はそう一瞬で考え、次に自分がしなければいけない質問をするために、頭を切り替えた。
「すみません。貴女は誰なんですか? ここはどこなんですか?」
それを聞いた美女は、一度息を吸って、吐いた。
それきり、返答はない。
表情には、何の感情も読み取れない。
数分の沈黙ののち、俺は質問を重ねる。
「あの、ぶしつけですみません。大事なことで、けれど貴女にしか聞けなくて。」
俺は衝動のまま、話し続ける。
「俺は、ここから、出なければならないのです。」
そう言った瞬間、美女は身震いした気がした。
すっ、と煙の匂いがする。
そうだ、ひとつだけ確信を持って思い出した。
俺はこの、居心地の良い世界から出なければならない。
祭り会場を出るだとか、それでは足りない。
世界だ、この世界に、俺はいてはいけない。
「いかなければ。」
俺は、そう断言した。
美女は口元を震わせ、言った。
「わかりました。行きましょうか。」
不思議と、彼女が嘘をついているとは感じられなかった。
その女は、人を安心させる不思議な雰囲気をまとっていた。まるで長年の知り合いのように感じさせる。
しかも彼女は、俺の帰り道を知っている。
そのせいで俺は、自分の記憶もないくせに、彼女を信じきって心から安心してしまった。
はぐれないよう、彼女と手をつないで歩く。
安心したら、周りを観察する心の余裕もできる。
気がつけば、俺は屋台を楽しんで見物し始めていた。
俺を先導する彼女も、どこかそれを望むように、ゆったりと歩いている。
永遠に噛んでいられるというガムを、半信半疑で買ってみる。
本当に何分も味はなくならず、味のするガムを途中で吐き出すという未知の体験をした。
頭にくっつければ自分の知る、最高の音楽が鳴るというスピーカーが売っているのを試してみる。
美女の頭からは、赤子の泣き声と男の歓声が流れた。
俺の頭からは、記憶がないせいか、この祭り会場で流れている音楽しか流れなかった。
どこをどう組み立てたのか、車のおもちゃとして自走する飴細工に、二人で笑った。
一本の麺でできた焼きそばのあまりのコシに、彼女と苦笑した。
半永久的に光る輪っかのアクセサリーが、射的の景品になっている。
俺がそれを撃ち落とし、美しい彼女に贈れば、彼女は泣き出さんばかりに喜んだ。
屋台の列が途切れると少し視界が開け、広場になっている場所に到着したと俺は気づく。
そこでは、太鼓と笛の音に合わせて、たくさんの人が円になって踊っていた。
やはり夏祭りには、盆踊りの賑やかさは必要だ。
そう、俺は笑った。
彼女は言う。
「ねえ、踊りませんか。」
彼女の言葉に、俺は首をふる。
「いや、もういかなくちゃ。」
それを聞いても頑として彼女は引かず、重ねて言った。
「少し踊っても良いではないですか。もうすぐ目的地なんですから。」
「あ、ちょっと、俺は。」
存外、彼女は強引な性格らしい。
そのうえ、意外と力も強い。
手をひかれ、そのまま踊らされて、俺は思わず笑ってしまった。
「これじゃ盆踊りじゃなくて、中学校でのフォークダンスみたいだな。」
「そうね。」
「あのとき、嫌がって見せてごめん。恥ずかしかったんだ。」
「わかってたから、大丈夫。」
毎年彼女を泣かせてしまう。
最高の祭りなのに、その申し訳なさで、いつも終わるときには俺も泣いてしまいそうになる。
死者の俺は盆祭りにいて、一緒にいるのは生者の愛妻だ。
ようやく全てはっきり思い出した。
「お前は、今年も最高にきれいだ。」
「そんなことを言うのは、アナタくらいですよ。」
彼女は踊りながら言う。
「もう少し、こうしていられない?」
「記憶の混濁が始まってる。このままだと俺は死霊とかまぁ良くないものになりそうだ。」
「アナタなら良い。それでも一緒にいられれば。」
「俺たちの娘が待ってるだろ。お前は元気でいなきゃ。大丈夫、いつも見守ってる。来年もある。」
盆踊りの輪の中心で焚かれている、送り火の煙が目に染みる。
「もう逝かなきゃ。」
一夜限りの祭りは、どれだけ最高だろうと終わりを迎える。
「頑張ってな。」
「うん、これからも頑張るよ。」
それでも、覚えている限り、最高の記憶として祭りは胸中で永遠に続く。
私は、そう思った。
夏夜祭り 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa
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