2. kawałek 紙切れ
両親は幼い頃に死に、僕と弟のナルツィスは孤児院で育った。少し大きくなると戦争に行って、戦争が終わると僕たちは都会に出て働きはじめた。
それからしばらくして、弟がなくなった。
僕は枕から顔を上げた。薄っぺらいカーテンから漏れる光で、もう朝が来ていることを知る。僕は左耳を軽く叩く。僕の左耳は
隣の部屋から同居人のダリューシュが動く気配がした。
ダリューシュは僕の同僚だ。職場では僕と弟がいちばん若く、その次に若いのが彼だった。弟のことがあった後、彼は同居人を探していると声をかけてくれた。僕は弟と借りていた部屋を離れて彼のところへ引っ越した。
彼は僕よりずっときちんとした人間だ。部屋もきれいだし、キッチンやバスルームも清潔にしている。夜中に騒いだりもしない。僕の部屋は何となくごっちゃりとしているけれど、それを見ても彼はなにも言わない。ただ、空のビンを捨てずにいたりそのへんに洗濯物を放り出したりしていると文句を言うくらいだ。
僕は薄暗い部屋の中で視線を彷徨わせる。たいしたものはないが片付いてもいない。読みかけの本があちこちに置きっぱなしで、どれも真ん中より前の方にビラや紙切れが挟まっている。本が好きなのは弟の方だった──僕は弟の足跡を辿るように、彼が読んだ本を拾い読みしては挫折する。棚の上には読み終えた数少ない本と、古い列車の模型や、どぎつい色の甲虫の標本が埃をかぶっている。クローゼットからはシャツか何かがはみ出している。照明の傘に蜘蛛の巣が張っていることに気づいてはいたが、取り払おうとは思っていない。
薄い影の中で、夜の怪物が名残惜しそうに僕に語りかける……明日こそお前を閉じこめてやる……。
僕は大きく息をついてベッドから起き上がり、いったん裸足のままバスルームに行く。ここの床はひやりとしている。僕は硬い蛇口をひねり、顔を洗い、うがいをした。水はマンホールの裏側みたいな味がする。
僕は鏡を見る。鏡は端の方が黒ずみ、全体的に水滴の跡がある。周りのマスタード色のタイルはいくつか欠け、コンクリートが剥き出しになっている。たまに、タイルの隙間からアリが入ってくる。あいつらはきっと僕の寝室に忍びこみ、僕が眠っている間に身体の中に入りこんで僕を食い荒らそうとしているんだ……骨まですっかり貪ったら、次はダリューシュの番。そんなことはさせない。僕は一匹残らずアリを踏み潰す。
僕は自分を見る。バスルームが暗いせいで髪の毛も本来より黒っぽく見える。寝癖を直す気にはならなかった。昨日は髭を剃るのをさぼった。今日は剃らないわけにはいかないだろう。カミソリを持っていると、衝動的に自分の首をかき切ってしまうんじゃないかと恐ろしくなる。それに僕はシェービングクリームの匂いが嫌いだ。ともあれ、今日は一滴の血も流さずに髭を剃り終えた。
僕は自分の目を覗きこむ。鉛色で、茶色の斑点が散っている。ナルツィスの目だ。ナルツィスが僕を見ている。
僕は部屋に戻り、カーテンを開ける。隣のアパートメントの壁は近いが、その割にはこの季節は陽が差し込む。窓を開くと、都市の臭いがしたのですぐに閉じた。
僕はクローゼットからシワの寄ったシャツを引っ張り出し、ボタンは全部外さずに頭からかぶる。カーテンレールに引吊るしていたハンガーから、一応は洗濯済みのズボンを下ろしてはき、ヘッドボードに引っかかっているベルトを締める。それから靴下の片割れを探しだし、靴をはいて、机の上のタバコとライターをポケットにつっこんで部屋を出る。
居間に行く。居間の壁紙はくすんだ濃い水色、そしてもっと暗い色で花だかなんだかの模様がついている。少し前、酒を飲んで帰ってきた時に、この模様がひとりでに動き、床を這ってドアの隙間から逃げようとしたのを見つけたが、僕を見て諦めてしゅるしゅると壁に戻っていった。僕もダリューシュもこの壁紙が好きでないけれど、張り替えるのが面倒だし金もないのでそのままになっている。
ダリューシュは朝食をとっていた。ホットケーキと卵、それにリンゴ。引越した頃、彼は気を使って僕にも朝食を用意してくれていた。今でも何となくそのままになっている。彼は別に文句を言わないので僕も甘えている。
彼の砂色の髪はきっちり整えられていた。ネクタイこそしていないがシャツにもシワがないし、ここからは見えないけど靴もピカピカだろう。
「おはよう」
「おはよう」
「コーヒーは?」
「いらない」
僕は彼の向かいの椅子に座る。居間のクルミ材の机は僕が弟と暮らしていた時に使っていたものだ。何かを落としたような凹みや引っ掻いた跡がいくつもある。あれは僕が付けたものか、弟が付けたものか。もしかするとあの角の傷は、壁紙の模様が夜中にこっそりと齧りとっていったのかもしれない。僕は寝ている間に起きていることを知らない。
椅子に腰かけたままぼんやりしている僕を見て、ダリューシュは言った。
「食べないのか?」
「どうかな」
「仕事中、頭が回らなくなるぞ」
「かもね」
「まあ、好きにしなよ」
僕は四つ叉に分かれたフォークを取ってホットケーキに突き刺す。そうすると空腹だということに気づいたので、僕はそのまま折りたたむようにしてホットケーキを口にねじこむ。ダリューシュの料理が上手いのかは分からなかった。とりあえず不味くはなかった。むろんホットケーキを不味く作る方が難しいだろう、僕にも作れるくらいだ。弟と暮らしていた頃は僕もよく料理をしていた……というか、するしかなかった。弟は料理が嫌いだった。
しばらく、二人とも黙ったままむしゃむしゃしていたが、ダリューシュが思い出したように言った。
「そうだ、今日はヤジャがうちに来たいって言ってるんだけど」
ヤジャ。ヤドヴィガ。ダリューシュの恋人。
ダリューシュと暮らしていて困ることがあるとすれば……どちらかが女の子を連れこんだりする時。別に問題はないけれど、少し気まずい。
「夜?」
「ああ。食事をしてから帰るから、遅くなる……」
「つまり、泊まりに来るってこと?」
「そうなるな」
「分かった」
僕は肩をすくめる。別にかまわない。
それにしても、泊まりに来るなら明日にすればよかったのに……明後日は祝日で休みだ。その方がゆっくり過ごせるんじゃないだろうか。一日でも時間が惜しかったのだろうか。
そのうちダリューシュはヤジャと暮らし始めるかもしれない。ヤジャがこのアパートで暮らしたがるとは思えないから、ダリューシュは出て行くだろう。僕は新しい同居人を探すか、ここで一人で暮らすか、よそに移ることになる……いや、僕はどこへも行かない。
僕たちは仕事用の鞄を持って一緒に部屋を出る。僕の鞄は赤みがかった革製で、傷だらけだが頑丈だ。楕円形の留め金もしっかり留まる。一度、持ち手だけ取り替えたので少し色が違う。
ダリューシュが鍵をかける音が廊下に響いた。
僕たちのアパートはおんぼろだ。壁はひびだらけで水漏れの跡があり、廊下の電気はところどころ消えているか、不安定に点滅している。階段の手すりは釘が抜けてグラグラで、触るとペンキがはげて手に張り付く。一階の電話は壊れていて使えないし、郵便受けの鍵も開けっぱなし。でも家賃は安い。僕たちの給料はものすごく低くはないが決して高くない。それでもきっと一人でも払い続けられるはずだ……。
僕たちは仕事へ向かう人々の波に乗って通りを歩く。長い歳月踏みしめられ続けたつやつやの石畳は日光を反射し、車輪の走るあたりが溝になっている。僕は照り返しに目を細めつつ、石と石の間に挟まったタバコの吸殻の数を数える。僕は喧騒の中でも無数の靴が石畳を叩く音に集中する。彼らは人の声よりよっぽど親切だ。高すぎず低すぎず、単純明快。
明日の夜から祭りが始まる。大通りに面した店は色とりどりの旗や提灯を下げて準備をしているし、街の雰囲気はいつもより浮き足立っている気がする。毎年、この祭りを過ぎると本格的な夏がやってくる。人々はすでにジャケットを脱いで腕にかけているか、そもそも持っていない。何人かの男とほとんどの女は帽子をかぶって日光を避けている。
僕の前を行く一人の男が、ポケットに突っこんでいた手を抜いて、その拍子に何かが転がり落ちる。僕はそれを拾う。くしゃくしゃになった紙だ。広げると、こう書いてあった。
《十時にアダメク通り、薔薇の丘 M・C》
僕はそれをたたんでポケットにしまう。
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