私の教え子よ、間違えないでくれ

夏山茂樹

走馬灯の中から伸びた手

 コツコツと冷たい床を靴が蹴る音が聞こえる。この靴音は看護師のものだ。いつも私の体を拭いて「今日も可愛いわね」と、話しかけてくる声の綺麗な人だ。


 いつもならこの靴音が心地よく感じるのに、今夜はどこか慌ただしく、どこか狼狽しているように感じられる。彼女は一体どうしたのだろう。日々ウイルスに侵される体で辛うじて機能する脳で必死に考えた。


 小学校で教え子だった琳音をさらった時のように、心臓は張り裂けそうなほどに大きく高鳴り、体の節々がこれでもかというほど悲鳴を上げている。それでも、私はまだ生きようと懸命になっていた。

 むかし、どこかの本で読んだことがあった。拘置所の死刑囚はいつか来るわからない死を恐れるあまり、刑務官たちの立てる靴音で誰かがわかってしまうのだと。


 大津で捕まったとき、私は既にインデル症候群という病に罹っていた。琳音に足りない酵素を補うための薬を買うための資金が尽き、その酵素が含まれる自分の血を彼に啜らせたのだ。

 その時、琳音の体液を日常的に体内に取り入れていたせいでウイルスが侵入し、やがてそれらは私の体を蝕み始めた。日光を浴びると体が業火に焼かれるように熱く感じられ、やがて私は日中に外出するのを諦めて一日中カーテンを閉めて琳音と暇つぶしをするようになった。


 彼は少女のように漂う桃花の香りをまとって、私にいつもしがみついてきた。「どこにも行かないで」と。いつの間にか私はその願いを受け入れ、常に行動を共にすることにしていた。


 暗い部屋でサンダーバードのDVDを繰り返し観て、『ライチョウくん』とあだ名をつけて子供のように振る舞いつつも彼を守ろうとしたのだ。

 だが琳音は次第に私の手から離れ、初恋の人と外で逢瀬を重ねるようになっていった。関節が痛みだし、徐々に弱っていく私を昼間は懸命に看病して、夜は同性の恋人と愛を重ね合うようになっていたようだ。


 そんな琳音が八月十五日の夜、地元の不良たちに目をつけられて犯され、気絶するほど殴られて血塗れになったと警察から教えてもらったときには、私は既に刑事達に車椅子へ乗せられて病院へ連れて行かれるほど病状が悪化していた。


 それから琳音に会ってはいない。あれからもう四年ほど時間が流れているはずだ。今の私は立つことはおろか、起き上がることにも人の介助を必要とする。その間、小学生の琳音と戯れる夢を見て今の惨状をごまかしている。


 夢を見ているとはいえ、私の心はその間死んでいる。死が近づく音が少しずつ大きな音を立ててくる。だが死刑執行を告げる刑務官はいつ現れるかわからない。

 いつか死ぬことを覚悟して、琳音に何かを遺すべきだったと今更後悔してももう遅い。彼は一体どんな少年に成長しているのだろう? 幼い頃のように大きな力にねじ伏せられ、首を絞められる今を送ってはいないだろうか。あの子を支えるものは当時、何ひとつなかった。

 むかしも、いまも。


「人生死ぬ前に後悔できるって幸せなことだぞ、坊や」


 そう学生だった私に言って笑った琳音の父が記憶の中で言葉を発する。この言葉が出たのは、そう。私が琳音への虐待を止めるように言った時だった。その時の父親であった彼は私を子供と扱って声を立てて笑ったのだ。


 そもそものきっかけは私が学生の頃、春休みに何かバイトはないかと探していたところ、地域掲示板にこんな張り紙が貼ってあったのを見たのが始まりだった。


『レッテの子をお世話しませんか? まだ五歳でとてもかわいい男の子です。時給二五〇〇円、朝八時から夕方十六時まで見てくださる方はこちらまで連絡を』


 時給二五〇〇円。七、八時間世話をするだけで一日一五〇〇〇円を超える給料をもらえる。こんなにおいしいバイトに、学生が飛び付かないわけがない。私はさっそく応募し、男の子のたった一人しかいない肉親である父親とも話が弾んで採用となった。


 息子は母が自身を産んだことがきっかけで亡くなり、そのことに罪悪感を覚えて母の話になるたび、「ごめんなさい」と泣いて謝るのだという。だから母の話はしないように。それだけ注意されて当日、初めて男の子と出会ったのだが……。私は世間のイメージする男の子とその子供があまりにも違いすぎて困惑した。

 フリルのついた赤いワンピースを着て、青っぽいような、紫のような髪を背中まで伸ばしてリカちゃん人形と戯れていたからだ。


 大きな猫目はどこか虚ろに光っていて、そこがまた大人になったばかりだった私でさえ惑わせてしまうほどの何かを持っていた。その瞳が私をじっと見上げ、問うてくる。「あなたは誰ですか」と。

 私は慌てながらも必死に取り繕って、子供相手にきちんと振る舞うようにする。


「僕はらん。キミのお父さんに頼まれてお世話にきたよ」

「自分から来たんじゃなくて? パパに頼まれたの?」


 幼い声が聞き返す。私はやはり、どう答えればいいか分からずにそのまま沈黙してしまう。気まずくなったところで子供が切り揃えられた前髪から覗く瞳で私を見上げて、近づいて自己紹介した。


「ぼくはりんね。もうすぐで六歳になるんだって。よろしくお願いします。らんお兄ちゃん」


 生まれた頃から一人っ子で、幼い頃にレッテに家族を皆殺しにされた私からすれば、唾棄すべき出来事であったはずだ。それなのに、この子供が置かれている状況下があまりにも悲惨すぎて憎めない。

 これが琳音との出会いだった。昼は日光を浴びないように遮光カーテンで光を遮って、電気をつけた部屋で私と琳音は遊んだ。


「なにしよっか?」私がそう聞くと、琳音はどこかかしこまった様子でリカちゃん人形を取り出して「人形あそび!」と答えるのだ。父にそうしつけられているのがあからさまだった。


「トーマスは知らないの? ドラえもんは?」 


 慌てて聞くと彼は首を横に振って「しらない」とだけ言う。


「機関車だよ? 見たことないの?」

「きかんしゃ? なにそれ、しらないよ」

「…………」


 その翌日、私はツタヤでトーマスのDVDを借りて、機関車というものが何かを教えた。画面の中で自分を主張する機関車たちに困惑しながらもどこか楽しそうに見る琳音の姿に、心から安堵したことはずっと忘れなかった。


「りんね」

「なあに?」

「きかんしゃ、カッコいいだろ?」

「うん。アレに乗ってみたいな」


 私を見て振り返って、琳音が笑う。それからはトーマスをこっそり見せて、模型の機関車も給料の中で少しずつ買って彼に与えた。その度に琳音は喜んでどこか嬉しそうな顔を私に見せてくれたものだった。


 女の子のように長い髪を伸ばして、いつもカラフルなワンピースを着ているのが琳音だったが、性格はやっぱり男の子だ。鉄の塊に憧れ、いつかそれに乗る夢を持つ普通の男の子だ。


 だが琳音はある日、その機関車の模型を渡されて、いつものように喜んでいた。ここまでは普通なのだが、ここからがおかしいのだ。琳音は小さな両手で器用に私のズボンに手をかけるとチャックを下ろす。そこから私の下着に手を伸ばしてペニスを取り出そうとしたのだ。


「やめなさい」


 私が怒って琳音を止めると、彼はどこか困惑したような表情で私に聞いてきた。


「これが感謝を示すやり方なんでしょ?」

「違うよ。一体どこで覚えたんだい?」

「パパに体を洗ってもらうお礼に、お風呂の中でやるんだよ。白いのが出て、頭が汚れるとパパが洗ってくれるんだ」


 そう普通に答える琳音に、私は悲しさというか怒りというか、様々な負の感情が降って湧いた。

 そのまま琳音を寝かしつけた後で、私は琳音の父が仕事をする部屋へ向かう。ドアを開けると、父親は何事もなかったかのように振る舞って聞いてくる。


「何かあったのかい?」

「琳音くんに性的虐待をして、貴方はどう自分の子供を育てたいんですか?」


 すると彼は一息ついて、私にその理由を教えた。


「なに、簡単なことさ。亡き妻に息子がよく似ていたもんでね。琳音という名前も母親が琳だから、そこから一文字もらったのだよ」


 平然と答える彼に私は怒髪天だった。彼の仕事机をドンと叩くと、私はこのことを警察に言ってやると叫んだ。だが札束を即座に積まれ、それを沈黙の金として解雇を言い渡されてしまった。


 それから四年経ち、私はレッテの孤児たちが引き取られている孤児院が経営する小学校に赴任した。もう琳音のような子供を悲しい目にあわせたくなかったからだ。そこで左眼を義眼に変えた琳音と再会した。


 成長した彼は生意気なクソガキに見えたが、私には成長してより暗さを増した影を見せてきた。やはり長い髪に女子向けの制服という姿を見る限り、女の子でいないといけないという父の呪いは完成していたようだ。


 まあ、実際には男の子のレッテには一部、ヘイトクライムから身を守るために女装させて育てるという文化があったようだが……。

 私と絡み始めた琳音は少しずつ色気を増していった。初めて出会った時よりも露出が増え、シャンプーもいい香りのものを使っているのがよく分かった。


 それを中等部の上級生たちが面白がっているのを、さりげなく聞いた時があった。


「琳音の奴、最近エロくなってきたよな? チンコしゃぶらせてバキュームフェラさせてえ……。あいつの喉奥にチンコをガンガン突いてやるんだ」

「やってもらったけど」

「え、マジ?」

「マジマジ。一緒に風呂に入った時に背中を洗ったお礼としてやってもらったよ」

「心までエロくなりやがるな……」


 この会話を聞いて、私はふたりを教員室送りにして、会議でも散々取り上げられた結果、四年生に性教育を教えることになった。


 授業中、ペニスとバギナを形取った人形を使って行為の本来の意味を教えるのが本筋だったが、琳音には自分がした行為の意味を知ってほしかった。


「……とまあ、こうすると子供が生まれるわけだが、口に精液を出す行為も性行為の一種として成立する。もちろんこれは愛する人同士でするもので、感情なしでやってはいけないぞ」


 どこか呆然とした表情の琳音と一瞬目が合う。それはそうだろう。自分がしてきた行為は愛がないと成立しないのだから。

 授業の後で、先生と呼ばれて私は琳音に事の重大さを伝える。


「お前は災難だったな」


 もちろん誰にもバレないようにトイレの中で。すると琳音はしゃがみこんで私の下着からペニスを取り出して口にしようとした。


「だからやめなさい!」


 琳音を力で押すと、彼は石ころのように転がった。だがすぐ起き上がると涙目で私を睨みつけて叫んだ。


「どうせおれはみんなの性処理用機械だったんだよ!」


 それからトイレを飛び出して、私が彼を見つけた時には教室の机に突っ伏して泣いていた。


「おれが何をしたっていうんだよ……。みんなで寄ってたかって……」


 この出来事があってから、琳音はますます露出の激しい服を着るようになり、たまに私を挑発することもあった。だが誘拐事件を起こしてからは私を頼りにして、逆に私を守ってくれた。


「にいちゃん。おれがあの日したこと、憎んでない?」


 ある日ボソっと聞いてきた琳音は、どこか怖がっているようだった。まるで私を自分の父のように見ているようだった。あの風呂場でフェラチオを自分にさせた父親に。


「いや。むしろ安心した」


 これは何物でもない本音。そう吐き出すと、琳音は安心したようにして私の手を握りしめて瞳をつぶる。


「にいちゃんだけは、おれを性処理に使わなかった。今も。好きだよ」


 可哀想な琳音。私は体が弱くなっていく中、手を握り返して抱きしめることしかできなかった。


 あれから四年経った今、私の魂は確実に潰えようとしている。あの日、琳音を晒し上げた罰が降ったのだろう。生まれてから今までのことが走馬灯となっては消えていく。その中で私を自身の母から守って死んだ呉羽がいた。


「もう時間だよ」


 幼いその手が伸びる。私はその手を掴むと、そのまま自身の屍となった体を天井から眺めていた。


「かなり痩せたな」


 これが私の体を見て吐いた本音。これだけ言って、かつての恋人と共に私は空へ旅立った。




 

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