おもちゃ箱
千羽稲穂
誰も知らない部屋
「ラン、こっちこっち」
はちきれんばかりに膨れあがったコンビニ袋を男の子が苦しそうに持ち運ぶ。
男の子は今年十六になるのだが、あまり身長が高くない。それどころかその男の子の体は骨に皮がはっついたように貧相であり服もところどこに穴が空いている。靴下は先っぽからぽっと親指が出ている。その足で泥のようになっている部屋の床を踏みしめる。玄関横のシンクには食器が無造作に置かれ蠅がたかっている。かつて曇りなく白かった皿は茶色い汚れがこびりついたまま置物となっていた。その横を男の子は通り部屋の奥へと進む。片方のコンビニ袋を頬にガーゼをしたの女の子が持ってあげ1LDKの部屋の中央に置いた。
「おかし?」と幼い女の子が寝ぼけ眼をこすりながらコンビニ袋に寄る。
「そうだよ、今日はお祭りしよって言ってたやろ」
頬にガーゼをした女の子がコンビニ袋の中からポッキーをひと箱、ふた箱と次々に出した。そうして小さな女の子に微笑みかけるがガーゼの下の痣が痛むのかいびつな笑みになってしまう。彼女の右手首には包帯が巻き付けられており赤が楕円形に滲み出ている。左腕には青から緑へと移るつつある斑点が水滴のように垂れていた。
「ね、ラン」とガーゼの女の子はコンビニ袋を持ってきた男の子に目線を向ける。ランは恥ずかしいのか顔を俯けた。ランがこういう時反応しないのはいつものことなので、女の子は気にせずにコンビニ袋からお菓子を取りだし続けた。
「キリはお祭り、知らんやろ」
「うん、知らへん」
幼いキリは元気よく頷いた。
「コイちゃんは知ってんの」
キリの発言に、コイはお菓子を出す手を止めた。コイの記憶の中で直近の祭りの記憶は、物心ついたころに父親に連れて行ってもらった、近所の神社で行われた小さな祭りだった。手をつないでいたのは父ではなく義父であり、その頃には既に潜在的に家族との距離を感じていた。母が連れてきた義父の存在に懐疑心を抱いていたコイに母は冷たい眼差しを向けていた。その眼差しを思い出して体が凍ってしまう。
「俺は行ったことあるわ」ランが重い口を開けた。
「どんなの?」
「屋台がたくさんある」
ランは色とりどりの屋台を思い出した。母にテストの点数が百点でなく九十点代だったことを叱られ、七歳でありながら家から身一つで追い出された夜に、鮮やかな屋台を見たのである。ランは父や母はパチンコへ出かけている間真夏の車に閉じ込められたり、夜中に適当な言い訳をつけられ外へ追い出されたことがある。自分は悪い子だと罵られ十分なお金を持たされたことがないランにとって、屋台がずらりと並ぶ様は魅力的に映った。たこやきに、的あてにお面、そして最後に打ちあがる小さな花火に目を奪われた。打ちあがった花火を見て、人間は星をつくれるのだと十三歳まで本気で信じていた。
「でも、俺も遠くで見てただけで参加したことないんねんな」
ランはキリの頭を撫でた。キリは眠そうにへぇと、なんでも楽しそうに頷いた。
三人の中でキリは一番年下であり、学校へ行っていない。もう学校へ行く年齢だと言うのに家に籠りきりである。父や母の姿は部屋にはない。もう一年もの間親は家に帰ってきていない。母はキリに外に出るな、食べ物は冷蔵庫の中にあるからそれを食べること、と言いつけ出ていったきりであった。そのため外の物事は何もかも新鮮で二人の話すことにしきりに頷いてしまう。そのキリの反応を見てランやコイは嬉しくなり、自身の家族に見せない笑みを顔に含ませる。
「やから、今日、ここでしようって思っててん」とコイはガーゼに手を当てる。
「うれしー」と万歳をするキリ。
「すっごい突然やけど」とランが苦笑する。
言い出したのはコイだった。自身の家路をとろとろ歩いていると、掲示板に花火の予告がされていたのだ。そのポスターをもぎとり、ランに、キリに見せようと告げた。お祭りにキリは連れていけないが、ベランダから見せてあげることはできる。コイとランはそう画策してたくさんのお菓子を集めた。
アポロチョコに、ポッキーといったチョコ類もそうだが、たらたらしてんじゃねーよといった駄菓子類まで、親から盗んでき、また万引きし、今日までこつこつ貯めてきた非常食をゴミ箱から拾ったコンビニ袋に入れてきた。それをひとつひとつ丁寧に部屋に広げる。
家に転がるナイフの横にポテトチップスを。白く細いラムネのような骨の隣にあたりめを。拳銃の上にじゃがりこを。細い注射器にはハイチューを添える。コンビニの袋の中から取り出して並べて、おもちゃの箱のようなカラフルな部屋へと飾りたてる。
「こんなにほんとうに食べていいん」
あまりの多さにキリが生唾をのんだ。とっくにこの部屋では食料は尽きていた。冷蔵庫の中にはどろどろに腐った残飯や、暑くてたまらず吐いてしまった嘔吐物が残留している。その異臭が部屋を満たしている。大家が一回見に来たが結局何もせず放置していた。家賃は毎回振り込まれているからいいか、と楽観的にみられていた。
その部屋で、三人は小さな家族を築いているとも知らず。
コイがキリの眼差しを見る。キリの眼差しはどうしてかコイにとって悪い気はしなかった。酒をのむと暴れ頬を殴る父の眼差しや、それをあざ笑っていた母の眼差しを十八年間もの間向けられていたコイにとって、人の眼差しは居心地の悪いものだった。しかしキリの眼差しやランの眼差しはおかしなことに心地が良かった。
ランもキリやコイといると安心した。むしろ家族から放置されているという彼女らの同じ状況は自身の庇護欲を駆り立てた。同じ経験をした仲間、あるいはそれ以上のものをコイとキリに感じていたのだ。たとえ世界が全員敵になったとて、彼は必ず二人の側に立つことを決めていた。この中を壊されることがあろうなら、自分がどうなってもかまわない。
ランとコイは「全部食べていいよ」とキリを促した。
するとキリは近くにあった骨をのけて、お菓子類を見境なく食べ始めた。それを見て二人もそれまで抑えていた食欲を解放させた。時刻は夕食時で、アパート近くでは浴衣姿の人々が花火を見に歩いていた。夕日が昇り、赤紫色を浸した空を人々は見上げていた。その足元にいる子どもは軽やかに人々の洪水をかきわけて遊ぶ。夕日が照って、血を零したような河川敷には二人の子どもの姿があった。ガーゼを頬にした女の子は制服を汚し、そっと皮と骨だけの男の子を見据えていた。潤んだ男の子の瞳には明白な同胞を見つけた感動を灯していた。私はコイ。あなたは? 俺はラン。走るしか能がないねん。と自虐で自身を彩る。そっか。私も傷つけられることしかできないねん。帰るとこがないんだ。俺も、そう。その時河川敷にきらきらと四角い光源が反射し、女の子を差した。女の子はその光源を辿るとベランダで遊ぶ小さな女の子の姿があった。小さな女の子には似つかわしくない鋭いナイフを手に握っていた。夕日の灯火がナイフで照り返されていた。男の子は突然どこかを見だした女の子の視線を辿った。そこにいたのがキリだった。コイは微笑んだ。いつぶりだか分からない微笑を抱き、自身の枯れてしまっていた笑顔の源泉を再び見つけることが出来たことに驚いた。ランはポケットにしまった拳銃を持ち決心した。コイは口の中に違和感をおぼえ、吐き出してみる。どこの誰か分からない親指が転がっていた。青ざめた肌の親指を、コイは大切に手にする。その決心の塊は、誰も知らないアパートの一室に転がっていた。錆びついた拳銃を見たランは愛おしそうに銃をなでた。白骨化した親指を退けて、キリと同じようにコイは次から次へとお菓子を食べた。五本一気にトッポを頬張るキリから数歩分ナイフは離れていた。
「いつまでもこんなことしてらんないよな」
コイは諦念がはらむ言葉を零す。その言葉にランは心のどこかで同じような感情を抱いていたことを確信する。
「俺は、楽しかった」
すかさずコイも、「私も」と切望する。
家に帰れない代わりにキリと一緒にいることが二人の心の支えになっていた。そうすることで、生きていられた。
ランは熱い車内を思い出す。熱くて意識が朦朧としていた。あの時はなぜ自分が生きていられたのか分からなかった。全ては二人に出会うためだったのだと、今は心の底から感じていた。
コイも、そうだった。二人から離れたくない。だが子どもだけでは限界があるのだ。いつかはキリを外に出さなければならない。この部屋の全てはおもちゃ箱に帰すのが道理であろう。
「今日は最高のお祭りにしよう」ランの手を取りコイは最後の晩餐を楽しむ。ランは名残惜しそうに拳銃を見つつ、コイの手を取った。
キリが心配そうに二人を見つめた。
その時、外から爆音がした。三人は一斉に振り向いた。途端に、ランがカーテンをのける。手前にある建物が邪魔で花火の先端しか見えないが、夜空に舞い上がる火花が認められた。星がまき散らされては夜の闇に消えていく。それをよく見ようとキリがベランダを開け放った。清々しい夜風が部屋の中を突き抜ける。
「はよはよ。お姉ちゃんお兄ちゃん、きれーやで」
それはキリが無意識にはなった家族への言葉だった。
「最高すぎだろ」ランがキリに続く。「うん、そうやな」と嬉し涙をこぼさんばかりに笑いコイがうなづく。だからもうしばらくは、とまた二人は三人の別れを延期してしまう。たくさんのお菓子を持って、ベランダで先端だけの花火を三人は眺める。
「いつまでも一緒にいようね」
そういってキリは駄菓子のラムネを丁寧にひと粒ひと粒口に放り込む。花火の明滅で儚くキリの横顔は見え隠れした。ランはそこへ錆びた拳銃を取り出して、花火へ向け、引き金を引いた。コイが握っていた親指の骨はつややかに煌めいて、キリのナイフは花火の明かりを照り返す。ランは手を銃にして花火がはぜるのと同時にばん、ばんと撃ち続けていた。
おもちゃ箱 千羽稲穂 @inaho_rice
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